熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「伊豆の踊子」川端康成

2009年09月23日 | Weblog
この作品も先日のBの会で話題にのぼったものである。改めて読んでみたら、今まで思い描いていたものとは全然違う話だった、ということを言う奴がいて、私が「行きずりの話だよね」と返すと「本当に読んだ?せめて袖刷りくらいの表現にして欲しいんだけど」と言われてしまった。さて、本当はどんな話だったのだろうと気になってしまい、「死の棘」の後に読み直してみた。

新潮文庫版の「伊豆の踊子」には表題作のほかに「温泉宿」、「叙情歌」、「禽獣」が収載されている。どれも同じようなテーマの物語であるようにおもわれた。そして、再読してみて、私もそれまで漠然と抱いていたこれらの作品群に対する認識が根底から覆った。

川端の美学の表現であるということは、以前も今回も変わらないのだが、美しさの対象に対する認識が、3年前に読んだ時と今とで大きく違う。「あ、そういうことだったのか」と了解されて、同時に同じ文庫に収められている4作品のつながりも理解されて、妙にほっとしたような、何故そんなことに思い至らなかったのかと3年前の自分の不明を恥じる気持ちとが入り交じり、複雑な気分である。

「伊豆の踊子」の舞台がいつ頃の時代なのか知らないが、発表されたのは1926年だそうだ。この時代に旅芸人であるということや一高の学生であるということの記号論的意味を推察すれば、この物語のなかで展開されているようなことは希有なことだったのではあるまいか。本来ならば超えることのない、生きる時代の世間によって規定されるところの、馬鹿馬鹿しくも確固とした自己の領域を超越して、人と人とが心通わせる瞬間、茶の湯で言うところの一期一会というもののなかにある美しさを描いているのだと思う。

「温泉宿」にしても、女中だの酌婦だのという当時の社会の底辺を生きる人々の力強さとか、一見すると猥雑な中にある矜持であるとか、どのような場においてもそこに必ず人の生の美しさを見ることができるというようなことが描かれているように思える。

「抒情歌」は前の2作が描くような普遍的な存在としての人を、その内面から眺めたような作品であるように思う。「死人にものいいかけるとは、なんという悲しい人間の習わしでありましょう。」で始まり、「そういたしますれば、悲しい人間の習わしにならって、こんな風に死人にものいいかけることもありますまいに。」で終わるこの作品は、その悲しさや儚さをはっきりとは述べていないのだが、書かれた時代の空気を想像すれば、なんとなく了解されるような気がする。

「禽獣」には、美しさというものを求めるエゴの醜さを感じる。美しいとか醜いと感じるのは自己である。人は世間を生きているように見えるが、実のところは自己の幻想の世界を浮遊しているだけだろう。一応の決まり事として善悪だの美醜だのという漠然とした共通言語風のものがあるが、それはその時々の時代の空気であるとか、権力者の意向というようなものによって、簡単に曲げられてしまう。美だの正義だのというものの本来的な胡散臭さが表現された作品なのではないだろうか。

川端は美というものにとことんこだわり抜いた人なのだそうだが、物語の内容もさることながら、文章に強く惹き付けられた。「死の棘」に続いて読んだ所為もあるのかもしれないが、読んでいて心洗われるような気分になった。