熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ハイデラバード 1日目

1985年03月02日 | Weblog
「夜汽車」という言葉にはどこかロマンチックな響きがある。ところがインドの夜汽車は寒さと板の上に寝る痛みと子供の夜泣きにひたすら耐え抜く苦行以外の何物でもない。

眠ることができずにいると、途中の駅で小さな男の子がボロ切れを持って乗り込んできた。床にはいつくばってゴミを拾い集め、次ぎに持っていたボロ切れで床を拭き始めた。一両の掃除が終わると彼は客から料金を徴収して回るのである。勿論、強制ではない。彼が掃除をしたのは誰が頼んだわけでもなく、彼自身の自発的意志によるものなのである。しかし、彼は自分の労働に対して何らかの報酬が得られることを期待していることは間違いない。私はその期待に少しでも応えてあげようと思った。この手のチップは10パイサ程度だが、生憎小銭の持ち合わせがない。唯一持っていたのは1ルピー硬貨であった。彼は私の気持ちを察してか、外国人だから絶対に金を取れると思ったのか、私の前に立ったまま動こうとしない。私は葛藤した。多すぎるチップをあげるべきか否か。このまま立たれても困るので、その1ルピーをあげた。多すぎるチップに彼も動揺したようで、ちょっと驚いた様子をしていたが、すぐにその硬貨をさしあげて頭を下げた。インド人に頭を下げられるのは初めてだった。

朝は駅でバナナを買って食べた。2ルピーでモンキーバナナ1房だった。場所によって同じ物の値段が随分違うものである。列車は定刻に5分遅れ、午前10時10分、ハイデラバードに到着した。

改札を出ると、早速リキシャー・ワーラーに取り囲まれた。かまわず彼等の群を通り抜け、投宿先を探す。あてがあるわけでは勿論ない。しかし、駅前に宿があるのは古今東西同じであろう。駅前の通り沿いにROYALとIMPERIALという2軒の宿が並んでいた。特に理由はないが、IMPERIALの方に足が向いた。生憎シングルの空きがなく、バス・トイレ共同のダブルに案内された。採光窓があるだけのむさ苦しい部屋だったが、長居するつもりもないし、早く駅へ行って次の移動のための切符を手に入れなければならなかったので、ここに決めてしまった。いつもながらのめんどくさいチェックイン手続きの後、荷物を部屋に置いて駅へ行く。ちょっと遠いが、思い切ってニューデリーまで行くことにした。明後日の切符を取ろうとしたら、キャンセル待ちだった。明日、隣のスカンディラバード駅へ手続きへ行かなければならないらしい。取りあえず今日するべきことはもうないので、町中をうろうろすることにした。

まず、地図を手に入れたい。駅前のコーヒーハウスでひと休みしてから、北へ向かう。駅前の大通りにはジュース屋、ミルク屋、雑誌スタンド、タバコ屋などの屋台が並んでいる。マドラスとバンガロールではよく見かけたココナツ売りの姿は無かった。ここまで北上するとココナツにはありつけないのだろうか。屋台の並びが途切れたところに公園、美術館、博物館と続く。道を変えて東へ行く。警察署、競技場、オフィスビルと並んでいる。さらに北へ進路を変え、食堂、学校、仏具屋、酒屋の前を通り過ぎる。『歩き方』の地図ではこのあたりにツーリスト・インフォメーションがあるはずなのだが、どこにもそれらしいものが見あたらない。歩いているうちにとうとうフセイン・サガール湖に出てしまった。短い滞在なので地図などなくてもなんとかなるだろう。そう思って来た道を戻り始めたが、どうしょうもなく暑い。ビルの陰で休みながら漸く競技場のところまでたどり着いた。敷地内に入ってみると食堂のような店が営業しているようだった。確かに、軽食堂であった。

カウンターでサモーサ2個とチャイをたのむ。2個のサモーサの中味は、片方が野菜でもう片方がポテトであった。おなかが空いていたせいか、なんだか新鮮なおいしさを感じた。競技場の中にも外にもたくさんの子供達がおり、アイスクリームやアイスキャンデーを頬張っていた。そうした子供相手の屋台もいくつか出ていた。競技場の構内を抜け、さっき通りかかった公園に行こうとしたら、象に遭遇した。駅前の大通りを歩いていたのである。派手な赤い布を纏い、様々な装飾が施されていた。たぶん、観光用なのであろう。

公園では木陰のベンチや芝生に人々が寝そべっていた。この暑さでは、昼寝をしないと身体がもたない。私も30分くらい、木陰に腰をおろしてひとやすみである。
この後、宿には戻らず、宿の前を通り過ぎて商店街へ足を伸ばしてみた。この通りには食べ物屋は少なく、家具屋、電気屋、本屋、文房具屋などが並んでいる。大学の寮もあり、落ち着いた雰囲気の通りである。この通りと旧市街へ至る道とが交わるあたりで、背後から喜捨を求める少女が元気よくやってきた。あんまりかわいらしい女の子だったので、5パイサやった。すると、すぐ後から、その子のオッカサンと思しき女性が小走りに近づいてきて、やはり喜捨を求めるので、彼女にも10パイサやった。乞食でも卑屈なところがなく、元気で好感が持てる。この辺りからは、通りも賑やかになり、乞食の数も増えてくる。今度は、前から爺さん乞食が近づいてきた。無視した。この交差点から旧市街にかけては様々な屋台が並んでいるが、人通りの割にはどこも暇そうである。そんななかにあって、一つだけ人だかりがしている屋台があった。覗いてみると、オレンジ色のドロドロした液体とミルクを混ぜて売っていた。
“How much?”
“Fifty”
メロンジュースだった。よく熟したメロンを使っていて、シュガーケインに勝るとも劣らないおいしさであった。

喉を潤したところで、この交差点界隈をうろついてみた。バス停でバスを待つ人々。本屋で立ち読みする人。自転車屋もある。商店の前で喜捨を求める乞食とそれを無視して平然と新聞に目を走らせる店のオヤジ。太鼓の音が聞こえる。これは音楽を使った乞食。夫婦らしい男女組で、女が太鼓をたたき、男が通行人の前に立ちふさがって強引に金を巻き上げる。通りの向こう側で、真面目そうな青年が餌食になっていた。さすがのインド人もしぶしぶポケットに手を突っ込んで喜捨に応じていた。ここの乞食は総じて元気である。しかし、例外もあった。道端で、両足のない乞食がうつ伏してガタガタ震えている。その場は無視して通りすぎ、十数分後、再びそこを通りかかると、彼はぐったりとしていた。くたばったかな?彼に気を留める者は誰一人としていなかった。宿へ戻る途中、カードショップを覗いてみた。日本の大型文具店に負けない品揃えであった。大きな書店には、なんと日本の婦人雑誌や手芸の本が並んでいた。それも、入り口近くの平台に積んであった。思わず、誰が買うのか考え込んでしまった。ちょうど市内の観光案内も売っていたので、安いのを選んで買った。本屋を出て、もう数十メートルで宿に戻るというところまで来たとき、さっきの太鼓の音が聞こえてきた。周りを見てもそれらしい人影はなかった。いや、私の目に入らなかっただけなのだ。彼等はまさに私の目の前にいた。驚いたことに、喜捨の金額を指定してきた。50パイサだと!働きもしないで何言ってんだ!と、思ったので、10パイサだけやった。

一旦、宿に戻って汗を流してから、午後6時半頃、夕食を食べに街へ出た。宿の近くの軽食堂でプーリーとチャイ、隣のミルク屋でダヒー、さらに屋台でライムジュースを飲んだ。全部で5.35ルピー。夕方は駅前も賑やかだ。揚げ物や果物の屋台もたくさん出ているし、バスを待つ列も長い。明日の夕方はここの屋台で何か食べようと思う。

夜汽車にて

1985年03月01日 | Weblog
いよいよ愛しいバンガロールともお別れである。最後の日は、LAL BAGHから路地裏へ入って市場へ抜ける。人々のエネルギッシュな生活が迫ってくるようだ。子供たちが寄ってきたり、牛に行く手を阻まれたりしながら、自転車やスクーターをかき分けて歩く。人の山、人の海。映画館の前には長蛇の列。インドでは映画の人気が妙に高い。大道芸のようなものも盛んらしく、街角にいるとよく笛や太鼓の音が響いてくる。猿回しを見かけたこともあった。ずいぶん歩いたので喉が乾いた。ちょうどパパイヤ売りがいたので1ルピー出してみた。するとパパイヤを縦に8等分した1切れと50パイサが返ってきた。みずみずしい甘さとでもいうのだろうか。日本で食べるものより臭みがなく、さっぱりしている。次ぎにスイカの屋台でスイカを1切れ。最後にいつも夕食を食べていた店でターリーを食べる。いつも食べていたダルより辛く、少し残してしまった。食後、これまたいつもの店で砂糖黍ジュースを飲む。これはインドで最もおいしい飲食物である。ホテルへ戻って汗を流し、荷物をまとめる。マドラスを離れる時はなんとなく安堵感を感じたが、今日は寂しさを感じている。また機会を見つけて訪れたい町である。

列車の発車時間は16時45分だが、念のため15時頃駅に出かけて出発を待った。人影はまばらである。ホームには列車の予約者名簿が貼り出されている。今度はちゃんと自分の名前が印刷されていた。まずは一安心。発車時刻30前くらいになるとホームはにわかに賑やかになる。いままでシートがかけられていた屋台が次々に姿を現し、その正体が明らかになる。あるものはタバコ屋、あるものは果物屋、またあるものは雑誌スタンドといった具合である。インドは多民族国家なのでホームに集まってくる人々の姿も実に様々である。ただ共通しているのはやたらに荷物が多いということだ。衣料品はもとより調理器具や水瓶まで家財一式を持っている。そんなわけで列車がホームに入線すると大変な騒動になるのである。おまけに切符を持っていない人や、切符を持っていてもアラビア数字が読めなくて自分の座席が判らない人などが荷物をズリズリ引きずって客車の通路を移動するのである。また、当地の人々は他人に頭を下げるということを知らない。他人にぶつかっても、落とし物を拾ってあげても無表情でニコリともしない。私の席は窓側だが、目の前を見送りの人と見送られる人の腕が行ったり来たりする。例えば、窓の外の人と車内の人とが握手をすれば、その握られた手が私の眼の前で上下したりするのである。生憎、列車は出発時刻を15分も過ぎているのに発車する気配がない。結局、私が出発前の騒ぎから解放されたのは、つまり、列車がホームを離れたのは定刻の25分後、17時10分だった。

夕食には車内でバナナでも食べようかと思ったが、どの駅にもバナナ売りの姿が見えなかった。そうこうしているうちに車内食の注文を取りにきたので、頼むことにした。4.20ルピーだった。実際に食事が配膳されたのは注文を取りにきてから2時間後のことだ。アルミの皿に盛られたターリーだった。食べ終わって最初に停車した駅で口直しにリムカを飲んだ。ビンを持って列車に戻ろうとしたら、売り子が文句を言う。ビンは返さなくてはならないのである。

私の席は2等寝台だが、それは文字どおり「寝台」であってベッドではない。ただの木の板なのである。自分のカバンを枕にして、服の上にトレーナーを重ね着して横になった。昼間の暑さが嘘のように肌寒い。