個人のプライバシーは基本的には尊重されるべきものです。ITを駆使して厳格な国民監視体制を構築した中国に対する批判も、政府が国民各自の個人情報までをも完全に掌握してしまうその侵害性にあります。他者が知ってはならない私的な領域は確かに存在するのですが、個人に関わる情報が他者を害するリスクがある場合には、プライバシーの保護にもおのずと限界があるように思えます。
神奈川県でも新型コロナウイルスの感染者が複数報告されているのですが、先日、自治体当局によって記者会見がキャンセルされる事態が発生しました。その理由は、寸前に至って感染者が自己に関わる情報の公開を拒絶したことによります。担当者の方は熱心に同感染者を説得したのですが、パニック状態に陥っていたこともあって、どうしても情報公開の許諾を得られなかったそうです。このため、感染者の情報は伏せられてしまい、人々は、重要なリスク情報を得ることができず、自己防衛さえままならない状況に置かれることとなったのです。この一件は、国であれ地方自治体であれ、(1)公的機関が公益の観点から個人情報を本人の同意なくして公開することは許されるのか、そして、(2)個人には情報を公開しない自由が保障されているのか、といった問題を提起しています。
第1の問題については、日本国政府は、判断を地方自治体に丸投げにしてしまったようです。このため、国籍、性別、職業、移動範囲等について感染者の情報を詳しく公開する自治体もあれば、個人情報の保護や人権の尊重を理由に非公開とする自治体もあり、地方自治体によって対応がまちまちとなったのです。もっとも、この対応の違いは、日本国にあっては、感染者の個人情報が法律によって一律に禁じられているわけではないことを示しています。対応の差は地方自治体の判断の違いに因るからです。情報公開に踏み切った自治体が、公開に先立って本人の合意を得たのかどうかは分からないのですが、後述する第2の問題と絡めて考えますと、やはり、本人の合意なき強制公開も必要となる時もあるように思えます。特に、多数の人々の生命に関わる場合には…。
そして第2に論じるべきは、感染者が自らに関する情報を公開しない自由、あるいは、権利の問題です。上述したように、一般論としては、その人の私的生活に留まる範囲であれば、プライバシーは保護されるべきであり、他者がその公開を強要すべきではありません。しかしながら、感染者個人に関する情報が他者に危害を加える可能性がある危険情報の場合には、プライバシーの保護範囲を超えるように思えます。他者に危険情報を伝えない自由は、即、他害行為に等しくなるからです。そして、自由には責任が伴う点を考慮しますと、個人的な自由の行使として黙秘を選択した場合に生じた被害に対しても、自由に伴う責任が問われることともなりましょう。特に自らが感染源となる可能性を知りながら情報を伏せる行為は、悪意の加害行為ともなりかねないのです。
ここまで述べますと、感染者責任論は不幸にも感染病を患った人に追い打ちをかけるようで、聞き様によっては冷酷な響きがあります。深刻な人権侵害である、感染者に対する差別を助長する、あるいは、社会から孤立させてしまうといった批判も寄せられるかもしれません。しかしながら、情報公開によって救われる多数の命に思いを馳せれば、無碍に感染者に対して情報公開を求める態度を非難はできないはずです。一人の個人情報を護ること、すなわち非公開の自由を認めることが、数人、否、数千数万の人々の命と健康を犠牲にするとしたら、一人の人の自由の犠牲、すなわち、一個人の自由に対する制限、を甘受することは必ずしも間違った選択とは言えないからです。しばしば政治的選択のモデル・ケースとなる、犠牲の選択を問う二者択一の問題となるからです。
そして、仮に、感染者が他の人々に病気を移したくないとする利他的な心があれば、自らこの犠牲を引き受けることでしょう。自己の不利益を承知の上で情報公開を決断したのですから、心ある人であれば、人々のために払われた自己犠牲、並びに、社会に対する強い責任感に対して感謝し、その心に報いようとすることでしょう。また、感染していない人も、明日の我が身であり、今日にも自らが感染者の立場となる可能性があるのですから、感染者の置かれている苦しい立場や悲痛な心情は理解できるはずです。人とは、利己的な側面と利他的な側面を併せ持つ存在ですので、相互理解こそが賢い選択を為し得る基礎なのかもしれません。
第1と第2の問題を考え合わせますと、やはり、地方自治体は、感染者の情報をできる限りに公表すべきではないでしょうか。感染者の自発的情報公開のみでは、その情報を得られる範囲は限られますし、神奈川県のケースのように、感染者から公開が拒絶された時点でリスク情報がもみ消されてしまいます。そして、人々の命や健康を護ることが政治の責任であるならば、国であれ地方自治体であれ、公的な機関には、人々に危険情報を伝える義務があるとも言えましょう。‘政治は結果’と申しますが、結果だけを見れば、公開よりも非公開の選択の方がはるかに被害が大きくなるのですから、政治的な結果責任は果たされたことにもなりましょう。
もっとも、どうしても情報公開に慎重な地方自治体がある場合には、民間において自発的に情報公開を行って感染の防御を訴えるしかありません。感染者、あるいは、感染者の勤務先がマスメディアに情報を提供する、あるいは、ネット上に情報をアップすれば、自治体を介さなくとも、危険情報は自ずと人々の間に伝わってゆきます。ウイルスの伝達性は有害ですが、情報の伝達性は有益なのです。もちろん、フェイクニュースには警戒すべきなのでしょうが、危険情報の公開こそ、人々の命を事前に救う極めて有効な手段あることを忘れてはならないと思うのです。