新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は、人々の生命や健康に対する重大な脅威となると共に、今日、人類が抱えている様々な問題を炙り出すことともなりました。その一つが、情報化社会の真逆な実像ではないかと思うのです。
グローバル時代の幕開とは、高度に発展したテクノロジーに支えられた情報化社会の到来を意味しました。その理想像は、国境を越えて様々な情報や知識が自由に行きかい、知的な刺激が世界各地で画期的なイノヴェーションを生み出すような、活気にあふれた社会として描かれています。しかしながら、情報化社会の先端を走る中国を震源地とする新型コロナウイルス感染症の拡大は、理想と現実とのギャップを痛いほど見せつけています。
その現実とは、情報化社会とは、自由な情報空間ではなく、情報統制社会に過ぎないということです。本記事で説明するまでもなく、中国については、国家の中枢が自らの誤りや失敗を隠そうとするあまりに新型コロナウイルス感染拡大の惨事を招いたことは、誰もが認めるところです(生物兵器の開発を密かに進めた上に、極めて危険なウイルスを流出させ、情報の遅延によって中国のみならず各国の国民に危害を加えたとする事実?)。中国のような共産一党独裁体制にあっては、事実としての情報公開=体制崩壊を意味します。事実を隠蔽しなければ体制を維持できない国にあっては、情報化社会とは、高度なITによって情報が政府によって完全にコントロールされる社会であり、事実を知っているのは、指導者を中心としたほんの一握りの政府中枢に過ぎないのです。情報格差は経済格差よりも著しく、国民は、内心において疑ってはいても、国家によって‘事実認定’された偽りの情報を受け取るしかありません。そして、仮に、国民が自らの目や耳で見聞きした事実をそのまま情報発信しようものなら、当局によって‘情報化社会’から排除されてしまうのです。
その一方で、自由主義国にあっても、事実としての情報不足は深刻です。確かにネットやSNSの普及は人々の間で自由なコミュニケーションを可能としました。新型コロナウイルスへの関心が高まる中、ネットやSNSは様々な意見や憶測、そして、不安の声で溢れています。本ブログもこうした声の一つであり、微薄での投稿が監視当局によって消去される中国とは異なり、言論空間の自由はひとまずは保障されています。しかしながら、事実としての情報を得ることは極めて困難です。とりわけ、政府と既存のマスメディアが発する情報には中国配慮が色濃く、情報量も乏しい上に、政治的なバイアスがかかっている場合が少なくないのです(政府は、未だに生物化学兵器説を否定?)。それ故に、YouTubeといった動画サイトに投稿された動画や一般ユーザーによる現地からの報告の方がよほど真実味を帯びています。つまり、自由主義国の情報化社会も、公式と非公式、あるいは、表と裏に二分化する現象が起きており、しかも、後者の方が事実である場合が多々見られるのです(政府も、遅ればせながら後者の情報を前提とした措置を実施することに…)。
政府が提供する情報と国民の多くが事実と信じる情報との間に違いが生じた場合、国民は、政府が情報を隠蔽している、あるいは、情報収集能力に欠けていると認識せざるを得ません。何れであったとしても、国民は、政府の危機管理能力を疑うと共に、国民の命を護るために果たすべき統治責任を放棄し、中国に阿っているとする疑いを抱かざるを得なくなるのです。
新型コロナウイルス感染症の蔓延は、情報化社会の現実がその理想とはかけ離れ、その実態は、国家体制の違いに拘わらず、程度の差こそあれ、国民には事実としての情報が伏せられてしまう社会であることを示しています。スマートフォンの普及も著しく、人々が膨大な情報に浸かる情報過多の時代ともされながら、その実、肝心要の人々の命や国家の命運や危機に関する情報については、断片的な情報から事実を推理してゆくしかないのです。そして、こうした情報化社会のパラドックスは、政府の情報収集体制、並びに、情報公開の在り方をも問うことになりましょう。新型コロナウイルス感染症の拡大阻止は緊急を要しますが、有効な対策の実行と並行して、情報化社会の問題点を直視し、将来に向けて日本国政府の情報体制の再構築を議論すべきなのではないでしょうか。そして、現状にあっても、少なくとも新型コロナウイルスに関する政策決定に際しては、その情報源を中国政府、同国の息のかかっているWHO、並びに独自の私的ルートを持つ親中政治家に頼ってはならないと思うのです。