グローバリズムとは、全世界を枠組みとした一つの市場を造ろうとする動きですので、非政治性をその特色の一つとしています。経済分野を中心とした非政治的な流れであるからこそ、国家からの然したる抵抗を受けることもなく国境を易々と越え、国民多数から警戒されることもなく時代の潮流として受け入れられてきたとも言えましょう。たとえ、それが、実態として政府の自立的な政策決定権限の浸食を伴うものであったとしても…。
かくして、メディアが拡散しているグローバリズムのイメージとは、世界市民社会の理想が実現したごとく、人種、民族、宗教、国籍、伝統、慣習…といった一切の属性や固有性が消し去られた世界であり、そこには、国家を枠組みとした政治的な要素は殆ど見られません(リベラル志向の社会的要素は強い…)。否、全世界が一つの’グローブ’となった世界には、政治なるものは、存在しないが如きなのです(なお、グローバル・レベルでの民主主義は、実現が極めて難しい…)。世界が一つになれば永遠の平和が訪れ、あらゆる対立や紛争も消滅するとでも言うかのように。
ところが、ウクライナ危機は、一瞬にしてこのイメージを覆してしまった観があります。何故ならば、IT大手をはじめグローバル企業と称される企業の多くが、ウクライナ支援に雪崩を打つように動き始めたのですから。メディアが率先してロシア批判を繰り広げた欧米では、グーグル、アマゾン、メタ、アップル、テスラなどがウクライナ支援を表明し、地理的に遠い日本企業にあっても、ファミリーマート、ファーストリテイリング、資生堂、楽天、ソニー、ZOZOといった名だたる有名企業が名を連ねています。
こうしたグローバルな動きとしてのウクライナ支援、即ち、グローバル企業が’政治的中立性’を放棄した理由としては、国連を中心として提唱されてきたSDGsと同様に、社会貢献に積極的に取り組む企業としてのイメージ戦略とする指摘もあります。その一方で、企業が’軍事資金’を特定の戦争当事国に対して提供するのですから、必ずしも企業イメージのアップに繋がるとは限りません。とりわけ、憲法第9条を有する日本国の場合には、戦争=絶対悪論も根強く、平和主義の立場から逆に反感を持たれてしまうリスクもありましょう。
また、自らが支払った代金や使用料の一部が事業とは殆ど関係のない戦費となることに疑問を抱く一般消費者やユーザーが現れても不思議ではなく、また、株主達も、軍事への支出を必要経費、あるいは、投資と見なすのかも疑問なところです。タックスヘブンを利用してまで、何れの国家に対しても税金を納めることを回避してきたグローバル企業が、自らアピールしてきた非政治性を捨て去り、突如として国籍国でもないウクライナの支援に走る姿は、どこか奇異に映るのです。
ロシアの非道は許せない、ということなのかもしれませんが、今般のウクライナ危機に際してのグローバル企業の動きは、国境を越えた連動性があるだけに、民間企業と政治との関係について様々な問題を提起しているようにも思えます。例えば、国籍国でもない国の民間企業が特定の国に対して経営判断として軍事支援をすることは許されるのか(政府の承認は不要?)、許されるとすれば、どのような条件が求められるのか(国際法違反の行為の有無?)、さらには、中国が戦争の当事国となった場合、全世界の中国系企業が自国のために活動することもあり得るのか…といった問題が浮上してきます。
民間企業と戦争との関係に関する十分な議論や国際的なコンセンサス、あるいは、国際ルールが設けませんと、国際社会は、将来において官民が入り乱れて収拾のつかない混戦状態となりかねません。そして、グローバル企業群の連動性には超国家権力体の影も見え隠れしていますので、本問題については、三次元的な視点からの分析やアプローチも必要なように思えるのです。