万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族の進学問題が問いかけるもの

2022年03月25日 15時16分26秒 | 日本政治

 今般、皇族の進学問題が多くの国民の関心を引くこととなりました。その理由は、皇族の高等学校への進学に際して、特別優遇制度が設けられたのではないか、とする疑いがもたれるに至ったからです。この問題、皇位継承権を有する故に、天皇の役割に関する根本的な問いかけをも含んでいるように思えます。

 

 日本国憲法における天皇は、形式的には国事行為として立憲君主的な役割を残しつつも、’統合の象徴’として位置づけられています。このため、天皇には、憲法上の法的な役割においてさえ、’統合の象徴’と’立憲君主’という全く次元の異なる二つの役割が重ねられています。その一方で、日本国の歴史における天皇は、天皇親政の時代は少なく、主として皇統を引く神聖な存在として国家祭祀を司ってきました。法律上の地位や役割はさておき、天皇の権威は、万世一系とされる血統に裏打ちされた伝統に由来しています。今日の天皇には、凡そ三つの立場役割が混在していることとなりましょう。そして、これらの三者では、それぞれ’理想的な天皇像’として求められる要件や適性が異なりますので、しばしば相互に矛盾したり、不整合をきたすのです。しかも、皇族の個人としての権利や自由の尊重も加わりますと、さらに状況は複雑にならざるを得なくなります。

 

たとえ今日にあって形骸化しているとはいえ、立憲君主の理想像とは、統治権を行使し、国家存亡の危機ともなれば、国民を護るために自ら軍を率いて戦場で戦う勇ましい姿となります。この姿は、軍隊に号令をかけた明治天皇のイメージに近く、日本国の近代化に際し、ヨーロッパの立憲君主国に倣って天皇に求められた理想像とも言えましょう。現行の日本国憲法では、天皇に対して政治的権能を認めていませんが、保守系を中心として、天皇に君主の姿を見出している国民もいないわけではありません。この理想像からすれば、皇位継承者は、将来にあって国民に尊敬される立派な君主となるべく厳しい養育され、帝王学こそ学ぶべき、ということとなりましょう。

 

方や’統合の象徴’ともなりますと、その理想像も公的な活動の内容も曖昧模糊となり、皇族自身を含む個々の主観や認識によって分かれてきてしまいます。しかも、社会の多様化が進むほど、’統合の象徴’としての存在は、この表現があまりにも抽象的であるが故に、具体的な活動を見出すことが困難となるのです。すべての国民が納得し得る’統合’のための’活動’とは、そもそも存在しないのかもしれないのですから。

 

その一方で、日本国民の大多数が天皇に対してイメージしている、あるいは、少なくとも権威の源泉として認識しているのは、現状がどうであれ、宮中にあって御簾の内におわす伝統的な天皇像です。同天皇像の理想に照らしますと、皇位継承者は宮中深くにあって国家祭祀を担うべく特別の教育を受け、身を清めて世俗から離れた生活を送ることとなります。天照大神に由来する皇統の神聖性を維持するために、婚姻も狭い範囲に限定されますし、国民との距離も遠ければ遠いほどに権威が保たれます。

 

加えて、個人の権利や自由が尊重される今日にあっては、皇族に対しても、一般の国民と同様に個人としての意思を認めるべきとされています。個人の意思が最優先されるとすれば、上記の3つの天皇像の何れにあっても、天皇自身によって否定されることもあり得てしまいます。私的感情の赴くままにふるまう自由な天皇を支持するリベラル派も少なくありません。

 

以上に分散・分裂した天皇像について述べてきましたが、これらを一人の天皇が体現することは極めて難しい、否、不可能なことは一目瞭然です。今般の皇族の進学問題が国民世論において反発を招いた根本的な原因も、おそらく現代という時代における天皇像の多重性、あるいは、それに基づく存在意義の不明瞭化にあるのでしょう。誰もが、何故、皇族が提携校制度を利用(創設)して名門校に進学するのか、国民が納得するような説明ができないからです。少なくとも、立憲君主像、統合の象徴、並びに、伝統的な天皇像の何れに照らしても、正当化し得る根拠を見出すことができないのです(大学であれば、立憲君主像では国防を専らとするための防衛大学、統合の象徴では大学への進学そのものも議論されるかもしれず(修正)、そして、伝統的な天皇像であれば、神祇祭祀を習得するための国学院大学や皇学館大学なのでは…)。

 

報道によりますと、秋篠宮家が同校の校風を気に入って入学を希望したということのようですが、仮に、皇族個人の私的な意思によるものであるならば、権力の私物化の疑いも生じてきます。筑波大付属高校は国立ですので、皇族が、自らの意思によって国家制度に介入したことにもなりますので、国民の多くも警戒感を抱くことでしょう(法的根拠もない…)。一事が万事、今後とも、皇族の私的な要望が国家の制度を変えてしまうかもしれないからです。そして、この問題は、今日、既にマスメディアの皇族報道の姿勢にその兆候が見られるように、民意操作のためのパーソナルカルト(個人崇拝…)へと変貌してしまうリスクをも示唆しているように思えるのです。


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