ロシアによるウクライナ侵攻は、軍事力を絶対悪と見なす平和主義の理想を打ち砕いてしまったかのようです。今日、全世界の人々が目の当たりにしている現実は、日本国を含む多くの諸国に、自国の防衛、並びに、国際社会における安全保障体制をめぐる問題を突き付けているとも言えましょう。核の抑止力の如何が安全保障上の論点として浮上してきたのも、国際社会の構造的な変化に起因しているのです。
そして、この変化の過程で明らかとなったのは、アメリカの’世界の警察官’としての役割の後退です。冷戦期にあっては、国連安保理の常任理事国でありながら既に’警察官’としての実力を半ば失っていたイギリス並びにフランスをよそに、アメリカは、西側陣営の盟主としてソ連邦と対峙すると共に、強大なる軍事力を以って全世界をパトロールしてきました。しかしながら、冷戦が崩壊すると、グローバルな脅威への対抗としてテロとの戦いが新たな’警察活動’の対象に加えつつも、大局的にはアメリカが自らの役割を縮小する方向に向かった点は否めないのです。
その’極めつけ’とも言うべきはオバマ元大統領の宣言でした。同大統領は、最早アメリカは’世界の警察官’を続ける意思がないことを国際社会に向かってアピールしたのですから。そして、今般のウクライナ侵攻の原因も、元をただしますと、オバマ政権時代の政策方針、否、安全保障体制に関する認識の誤りに遡ることができるかもしれません。何故ならば、オバマ大統領が目指した’世界の警察官なき未来のヴィジョン’が、あまりにもナイーブで、脆弱であったからです。
同大統領は、核保有国、かつ、原子爆弾を使用した唯一の国の大統領でありながら、核兵器廃絶を訴えた2009年のプラハ演説が評価されてノーベル平和賞を受賞しています。このことは、オバマ政権の国際社会に対する基本的な政策方針が、自国の‘世界の警察官’からの離職と核兵器廃絶の組み合わせであったことを意味しています。当時にあって、オバマ大統領の方針は、リベラルな平和主義者のみならず、世界各国から称賛を浴び、マスメディアも褒めそやかしたのですが、今になって考えても見ますと、この組み合わせは、無責任であったようにも思えるのです。
警察官がいなくなれば治安が乱れ、犯罪が横行することは、誰もが予測できることです。この点については国際社会も変わりはなく、アメリカが睨みを利かせなくなりますと、暴力主義の国家が幅を利かせてくることは当然の帰結とも言えましょう。実際に、ポスト冷戦期におけるアメリカの軍事力の相対的な低下は、無法国家である中国の軍事的台頭を招いています。
テロ組織のみならず、暴力主義国家による脅威の高まりが予測されるならば、アメリカの警察力に護られてきた各国にとっては、自衛力の強化に努めるのが合理的な対応策となるはずです。そして、現状にあっても、最も強力な力の抑止力となるのが核兵器の保有であるという現実を直視しますと、この手段を封じてしまうのは、リスクに晒されている諸国にとりましては酷なこととなりましょう。喩えるならば、これまで人々の暮らしと安全を守ってきた警察官が、市民を前にして突然に’私は、本日をもって警察官を退任します。これから治安が悪化し、拳銃を持った強盗が現れるかもしれませんが、皆さんは、治安が悪化しますので拳銃を持ってはなりません。’と述べるようなものなのです。’この論理、どこか倒錯しているように思えます。
すなわち、警察官としての職務を放棄するならば、自らの警察活動に代る安全確保の手段を人々に提供しなければ、無責任ということになりましょう。もちろん、一般市民による拳銃の携帯の他にも、時間を掛ければ他の防御手段や治安維持のための制度整備といった方法もあるかもしれません。しかしながら、拳銃の携帯が即時的な抑止効果を持つのみならず物理的な反撃の手段となる以上、拳銃の保有という手段を初めから排除するのは、警察官自らが犯罪者に有利な状況を造り出すようなものです。
アメリカの世論の動向を見ますと、ウクライナのために自国の兵士が命を失いかねない米軍の軍事介入には、過半数以上の国民が反対しているそうです。アメリカの世界の警察任務からの撤退が自国民の犠牲を厭う世論を背景としているならば、各国の自立的防衛力を高める方向を促した方が理に適っているように思えます。バイデン大統領は、オバマ政権時にあって副大統領を務めており、核兵器廃絶の方向を修正するかどうかは未知数です。しかしながら、現状の綿密な分析と議論の末に、その最も効果的な方法が、当面であれ、国家の規模に関わらず全ての国家による核武装であり、全世界レベルで相互的な核の抑止力を働かせるという結論に至ることもあり得るのではないかと思うのです。