甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

巨椋池のひみつ

2024年11月04日 16時35分05秒 | 京都のまちかど

 こんなわざとらしい写真を載せなくても、私はどこかで巨椋池を見たような気がしていましたが、それはまちがいで、イメージで見てたんでしょうか。

 たぶん、小学校高学年のとき、「宇治川の先陣争い」というのを読みました。そこで佐々木四郎高綱と梶原源太景季のふたりが宇治川に馬たちを進めて、川を渡り切るところ、たまたまいい馬に乗っていた高綱さんが先陣を切り、「やーやー我こそはタカツナなるぞ!」と雄たけびを上げたのを聞いたような気になっていたけれど、それはドラマか何かでしたか……。

 いや、大河ドラマの「新平家物語」は、だれが演じていたのか、わからないですけど、最後の方の源平の戦いはそんなに丁寧に描写する暇もなくて、宇治川の戦いも描かれたのかどうか。やはりスケジュールの関係でそんなに時間はとれないのだなと思ったんでしたか。

 屋島の戦いの那須与一のあたりはあったかどうか? いろいろと省略されたという感じでした。

 それから後、吉川英治さんの「新平家物語」を高三の夏に読み切り、やっと源平の戦いが自分の中に定着していくことになったのでしょうね。ですから、私の中で平清盛さんはずっと仲代達矢さんだし、これからもずっとそのイメージを抱えていくと思われます。

 義経さんは、志垣太郎さんでした。志垣さんは、「この流れの速い宇治川をどのように渡ればいいのか」と悩んでおられたでしょうか。畠山重忠さんは、黙々と馬にも乗らず、川底を探りながら向こう岸までたどり着いた。そして、ここから義仲さんの軍勢は崩れていき、素早く京都入りした義経さんは、朝廷のみなさんに歓迎されるのでした。

 義経さんは川霧が立ち込める明け方、「淀一口(よどいもあらい)へや向かふべき、また河内路(かわちじ)へやまわるべき。水の落ち足をや待つべき、いかんせん」とおっしゃると、それはもう坂東武者ですから、回り道はしなくて、目の前の川を渡ろうということで押し寄せる、あの流れでしたね。

 「一口」が「いもあらい」と読むのは衝撃的だったけれど、それより何より、東から都に入ろうとすると、瀬田川を渡る、ということは今の石山寺の上流あたりから渡るか、宇治のところから渡るか、巨椋池を迂回して淀一口というところから都の領域に入るか、どっちかだったんですね。


 そういえば、先日、京都の北の方の出町柳の古本市に行った帰りに、宇治の方の黄檗山・萬福寺をお参りに行きましたけど、あちらから都に入るルートがあった。

 そして、平安時代の藤原氏は、川向こうの宇治に大別荘を持っていたとか、それはもう奈良時代から続く貴族ですから、いろんな財産があったんでした。でも、巨椋池は自然のものだし、それを新田開発には使わなかった。

 あれ、今夜のタモリさんは、巨椋池はもう通過して、枚方・守口の方へ行くんでしたね。あと少し、ゴハン食べて見ようかな。

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