石清水八幡宮というと、大阪の人間は京阪電車に乗ってお山の下まで行って、そこからケーブルカーで山頂まで行って、そこでやっとお参りできるという、山の上にある神社さんでした。
大阪の人にしてみたら、遠くて何だかもったいぶってる、もっと簡単に行きたいのに少し手順が必要な神社さんでした。
そもそも、石清水八幡宮にお参りするのは何のためでしょう? 商売繁盛でもないし、学問の神さまでもないし、恋愛成就でもないぞ? あと、人生でお願いしたいことというと、安楽にポックリ死ぬこと? それはお寺さんの専門だから、神社でお願いすることではない。
冠婚葬祭は違います。喜怒哀楽も違う。老若男女も違う。一日一善は全然違う。四字熟語を考えている場合ではないのです。
旅の神さま? 少しそうかもしれない。でも、違う気がする。
八幡神というのは、古代では大事なお告げをしてくれたところでしたね。それは大分の宇佐八幡宮だったでしょうか。
岩波の国語辞典(1986)では八幡神のことを「応神天皇を主座とし、弓矢の神として尊崇される。八幡神は八幡大菩薩ともいう。」とあります。
応神天皇をおまつりしているお社が、どうして大分にあるのか、大分も古代では大事なところであったからか、少し調べないといけないですけど、その神様に京都近辺まで来ていただいたということですね。京都の裏鬼門を守る神様としてそのポジションを築いてきたんですね。
この前読んだ本にこんなふうに書いてありました。
神仏が習合するなかで、神に仏教の菩薩号が与えられるようになったが、その代表的なものが八幡神に与えられた「八幡大菩薩」である。
京都の石清水八幡宮は八幡大菩薩を奉じ、「石清水八幡宮護国寺」として神仏習合の宮寺として信仰された。
貞観元年(859)、大安寺の僧である行教(ぎようきょう)は宇佐神宮で「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託を受け、翌貞観二年(860)、清和天皇が男山に社殿を造営した。八幡宮が創建されると、もともとこの地にあり薬師如来を本尊としていた石清水寺は神宮寺となり、名称はその後、護国寺に改めたといわれる。〈畑中章宏『廃仏毀釈』2021ちくま新書〉
あそこはもとはお寺があったということでした。薬師如来さんがおられたんですね。空海さんか、誰かが都よりほどよい距離で、都を見渡すことのできる交通の要所でもあるし、船で簡単に山の下まで行けるし、格好の霊場としてすでに作り上げられていた。
そこに守り神として、戦いに強くて勝負事の神さまに来てもらい、お寺と神社が山全体に共存する空間ができていったということみたいです。
平安時代の最初の100年の間に、仕掛けは作られたのです。それからは、お坊さんと神職の共存共栄で、たくさんの人たちを迎え入れ、場所もいいし、霊験あらたかだったのか、次から次と神様のチェーン店が各地に生まれていきます。京都の発信力がものすごい時代ですからね。
今なら、参拝客はとにかくてっぺんまで行き、そこでお参りしたらすぐに帰るということしかないんだろうけど、当時の人たちはそれこそ一大霊場ですから、あっちで祈り、こっちで祈りしたことでしょう。
兼好さんの頃、鎌倉時代の終わりには、人々は(お寺のお坊さんでも)、一度は行きたいお参りするところであり、「石清水に参りたいです」なんて話のネタになるところだったと思われます。
八幡宮護国寺は都の鬼門(南西)を守護する王城鎮護の神として崇敬され、天皇・上皇・法皇がたびたび行幸啓し、伊勢神宮に次いで奉幣(ほうへい 天皇の命により供物を奉ること)される「二所宗廟」の地位を得た。
また清和源氏の諸氏族からも氏神として崇敬された石清水の分霊は、各地の八幡宮に勧請されていく。江戸時代までは「男山四十八坊」と呼ばれるほど多くの坊舎が男山の山内、山麓に軒を連ねたという。
鎌倉から江戸へと時が過ぎても、都市住民の気晴らしに少しだけ遠出をするようなところであり、石清水周辺は神と仏のワンダーランドとなっていた。
鎌倉から江戸へと時が過ぎても、都市住民の気晴らしに少しだけ遠出をするようなところであり、石清水周辺は神と仏のワンダーランドとなっていた。
今はもう失われた風景だから、「江戸時代の石清水にもどせ!」とは言えないのだけれど、無邪気にお祈りしていた何もかもがミックスされていて、それでいて混沌としていない、人生の節目にはお参りしたい、そんな心のよりどころだったと思います。