らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

興徳寺(土湯温泉)

2011年09月09日 23時59分19秒 | 歴史探訪
 写真の文章
「興徳寺」のいわれと天地人「直江兼続」との関係
<興徳寺のいわれ>
 興徳寺は建長2年(1250年)、親鸞上人の高弟である性信上人によって開基され、法得寺と号し、真宗本願寺派に属しました。のち、上杉景勝の命をうけ、名将とうたわれた直江兼続が普請奉行となって米沢城に創建した禅林寺の開祖、九山禅師によって元和元年(1615年)に再興され、臨済宗妙心寺派に属し、寺の名前も興徳寺とあらためられました。その後何度か火災にあい、現在の建物は昭和46年(1971年)に再建されました。

<興徳寺と直江兼続との関係>
 直江兼続は、岩城の九山禅師(妙心寺115世の高僧)と宇都宮で知り合い、九山禅師に金を与えて下野足利学校で勉強させていました。兼続の米沢移封から17年目の1618年に、兼続は足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せて、後に法泉寺と名を改める禅林寺を創建し、米沢藩士の子弟を教育する学問所「禅林文庫」を開設します。ここにあつめた兼続の蔵書は、今でも貴重な文化財として残っていると言われます。九山禅師は、ここに京都天竜寺の名園をまねて庭園を造っていますが、これを歴代藩主も愛し、上杉鷹山もこの庭園で詩会を催したといわれています。 兼続は、元和元年(1615年)には、土湯に九山禅師の隠居寺となる興徳寺を建立しています。創建当初は法得寺という真宗本願寺派でしたが、途中から臨済宗妙心寺派の興徳寺になりました。九三禅師が興徳寺に隠居してからも、米沢藩主は、禅師の健康を気遣ったという。福島市内のお寺には、景勝の子、上杉定勝が九山禅師の健康を気遣う手紙が残されていると言われています。 兼続は元和5年(1620年)江戸屋敷で病死するが、九山禅師は寛永13年(1636年)ここ土湯の興徳寺で没します。その九山禅師のお墓が、土湯小学校西側の高台に奉られています。

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 タイプの練習になりました。土湯と山形は意外な関係があったのですね。
コメント
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