ホテルのチェックアウト時間と午後の音楽鑑賞教室の開始時間まで、かなり時間がありましたので、小峰城趾に行って来ました。
「小峰城趾について
阿武隈川の南岸に面した小峰ヶ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370m)を利用して築城された梯郭平山城で、白河城とも呼ばれています。小峰城は、南北朝期の武将である結城親朝によって興国年間(1340~46)に築城されたのが城郭としてのはじまりで、以後白川結城氏の有力な一族である小峰氏の居城でしたが、永世年間(1504~20)頃には白川結城氏の本城となっています。天正十八年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置により白川氏が改易となって以後は、会津藩の城代が置かれ、蒲生・上杉両氏の支配下に置かれました。現在にその名残をとどめる近世城郭は、寛永六年から同九年にかけて築城したものです。幕藩体制の確立期において外様大名から江戸城を防備する一環として、奥州の要衝の地である白川に幕府が築城を命じたのでした。 現在、本丸及び二の丸の一部約8万㎡が史跡として指定されていますが、当時の城郭の範囲は東北本線白河駅の南側まで含むもので約60万㎡の規模でした。城郭の縄張りは、丘陵頂上部に本丸とその帯郭を設け、東南に二の丸・三の丸を配し、その周囲には石垣と堀をめぐらし、南に大手門、北に尾廻門(搦目門)、東に横町・田町門、西に道場・会津門が設置されていました。全体にやや不整形な五角形を呈した城郭でした。 平成三年には、三重櫓、同六年には前御門が当時の史料によって史実に木造復元され、往年の威容を偲ばせています。」
3月の大震災の影響か立ち入り禁止区域が多く残念な思いがしました。
「小峰城趾について
阿武隈川の南岸に面した小峰ヶ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370m)を利用して築城された梯郭平山城で、白河城とも呼ばれています。小峰城は、南北朝期の武将である結城親朝によって興国年間(1340~46)に築城されたのが城郭としてのはじまりで、以後白川結城氏の有力な一族である小峰氏の居城でしたが、永世年間(1504~20)頃には白川結城氏の本城となっています。天正十八年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置により白川氏が改易となって以後は、会津藩の城代が置かれ、蒲生・上杉両氏の支配下に置かれました。現在にその名残をとどめる近世城郭は、寛永六年から同九年にかけて築城したものです。幕藩体制の確立期において外様大名から江戸城を防備する一環として、奥州の要衝の地である白川に幕府が築城を命じたのでした。 現在、本丸及び二の丸の一部約8万㎡が史跡として指定されていますが、当時の城郭の範囲は東北本線白河駅の南側まで含むもので約60万㎡の規模でした。城郭の縄張りは、丘陵頂上部に本丸とその帯郭を設け、東南に二の丸・三の丸を配し、その周囲には石垣と堀をめぐらし、南に大手門、北に尾廻門(搦目門)、東に横町・田町門、西に道場・会津門が設置されていました。全体にやや不整形な五角形を呈した城郭でした。 平成三年には、三重櫓、同六年には前御門が当時の史料によって史実に木造復元され、往年の威容を偲ばせています。」
3月の大震災の影響か立ち入り禁止区域が多く残念な思いがしました。