
年に何度も秋田へは来ていますが、千秋公園内を歩いたのは初めてでした。(県民会館に至る道路まで)
いつものように立て看板の説明文を載せておきます。
「この公園は、秋田二十万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。 久保田城は、慶長七年(1602)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣(サタケ・ヨシノブ)が翌八年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。 明治二十三年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治二十九年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。 昭和二十八年(1953)再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和五十九年(1984)に、十五代佐竹義榮(ヨシナガ)氏の遺志により秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となった。 千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、千秋の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。公園面積 16.29ヘクタール」
長距離ドライブが続き、腰への負担も大きく体も歪んでいる気がしたので、公園内を歩き始めました。城門が見えてきます。

また説明文
「表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする御番頭局(ゴバンガシラベヤ)、門の下手には侵入者を警戒する御物頭御番所(オモノガシラゴバンショ)を置いて厳重な守りを固めていた。 久保田城は慶長八年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和八年(1622)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永十年(1633)、安永七年(1778)など何度か火災に見舞われている。 この門は絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹二十万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。」
空気が澄んでいて美味しく感じます。夕方なのでカラスが沢山巣に帰ってゆきます。
後編につづく・・・・・。
いつものように立て看板の説明文を載せておきます。
「この公園は、秋田二十万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。 久保田城は、慶長七年(1602)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣(サタケ・ヨシノブ)が翌八年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。 明治二十三年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治二十九年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。 昭和二十八年(1953)再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和五十九年(1984)に、十五代佐竹義榮(ヨシナガ)氏の遺志により秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となった。 千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、千秋の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。公園面積 16.29ヘクタール」
長距離ドライブが続き、腰への負担も大きく体も歪んでいる気がしたので、公園内を歩き始めました。城門が見えてきます。

また説明文
「表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする御番頭局(ゴバンガシラベヤ)、門の下手には侵入者を警戒する御物頭御番所(オモノガシラゴバンショ)を置いて厳重な守りを固めていた。 久保田城は慶長八年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和八年(1622)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永十年(1633)、安永七年(1778)など何度か火災に見舞われている。 この門は絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹二十万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。」
空気が澄んでいて美味しく感じます。夕方なのでカラスが沢山巣に帰ってゆきます。
後編につづく・・・・・。
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