廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

他とは違うハーモニーの色彩

2017年03月18日 | Jazz LP (Columbia)

John Kirby and his orchestra  ( 米 Columbia GL 502 )


スイングジャズは好きだけれど、熱心にレコードを探して買い求めるほど、ではない。 概ね、どれも似たような音楽で大きな違いはないように聴こえて
しまうからだと思う。 実際はもちろんそんなことはなかったんだろうけど、スイング時代の録音は基本的にSP期であって、それをLPで復刻する際に
各々の微妙なニュアンスの違いみたいなものが削ぎ落されてしまっているんじゃないか、と思えるフシがある。 ちょうどCDが商用化されて間もない頃に、
アナログからデジタルにトランスファーした際に帯域をいじって立体感や空気感のようなものをカットしてしまったように。

但し、そういう均一化されて聴こえるスイングジャズの中で、私の耳に唯一他とは違うハーモニーの色合いが聴き取れるのがこのジョン・カービーのサウンド。
さほどたくさんスイングを聴いてきた訳ではないけれど、それでもどうもこの楽団のアンサンブルだけは明らかに他とは色彩が違うように聴こえるのだ。 

ニューヨーク52番街のオニックス・クラブの常設用として自身のバンドを編成した際に集めたメンバーがチャーリー・シェイヴァース、バスター・ベイリー、
ラッセル・プロコープという後のビッグ・ネーム達ということもあるんだろうし、オーケストラとはいっても6人構成のセクステットで風通しのいいサウンドだった
こともあるのかもしれない。 3人の管楽器奏者はそれぞれが自分だけのサウンドを持っていたマエストロだったから、セクステットでのアンサンブルの
中でも3人の優美な音が潰されることがなかったからなのかもしれない。

このアルバムに収録された曲の半分くらいはグリーグやショパンやシューベルトなどの曲が取り上げられており、それらがとてもデリケートに演奏されて
音楽的な優雅さも際立っている。 まだまだ楽曲のレパートリーの少なかったこの時代、こうしてクラシックの曲を演奏することは珍しくなかったけれど、
この楽団の繊細な感性には殊更に相性がよかった。

50年代初頭にこうしてLPに切り直されたものは板おこしではなくマスターテープを使うことが多いから、音質は悪くない。 このレコードもロー・ファイ
ながらも、くっきりとした良質なモノラルサウンドで音楽を愉しむことができる。 

こういう音楽は今や生活の中の至る所で耳にする。 それはTDLだったり、ショッピングモールだったり、TVのCMだったり。 つまり、幸福な日常を演出する
小道具の一つとして私たちは無意識のうちに耳にしている。 スイングジャズを正対して聴くには、現代という時代はあまりに複雑になり過ぎてしまっていて、
「音楽を聴く」という局面においての出番はもはやないのかもしれない。 でも、ジャズを愛する者として、1枚くらいはこういうレコードを持つのも
悪くはないんじゃないか、と思うのだ。


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不遇のアンドリュー・ヒルを救った日本の見識

2017年03月18日 | Jazz LP (国内盤)

Andrew Hill / Hommage, Nefertiti  ( 日本 East Wind EW-8017, EW-8032 )


私に音楽の素晴らしさや猟盤の楽しさを教えてくれる数少ないブログの1つ、Kanazawa Jazz Days のkenさんに教えていただいた、アンドリュー・ヒルの日本録音。
不遇に喘いでいた彼を日本の評論家とレコード会社が救い出した、実に素晴らしい作品たち。 70年代前半はまだ音楽を聴くような年齢ではなかったので、
この時期に作られた作品群は私にとっては未だに未知なる暗黒大陸であり、未聴の作品がたくさん残っている。 だからこうして小さな手がかりを辿りながら
猟盤する愉しさには格別なものがある。 週末の金曜日、DUに立ち寄るとまるで待ち構えていたかのように在庫があって、2枚ともワンコインだった。

アンドリュー・ヒルと言えば当然ブルーノートということで私も時々聴くけれど、それ以上この人を追いかけるようなことはなかった。 ブルーノートの諸作は
評論家には高く評価されてきたけれど、一般的には敬遠されることのほうが当然多い。 アルフレッド・ライオンは人気が出なかったことをとても残念がった
けれど、今振り返ってみるとこれは仕方がないんじゃないだろうか。 この人は元々は普通に主流派のジャズを演奏していたのに、ブルーノートに来た途端に
尖った音楽を始めて、その跳躍の大きさにはちょっと違和感がある。 "Black Fire" も "Point Of Departure" も嫌いではないんだけれど、やっぱり
ちょっと唐突過ぎる感じはするし、この人の内側から自然に湧き出てきたものというよりは先頭集団から遅れないように自分のペースを無視して走っている
ランナーを見ているような感じがする。 彼が当時広く支持されることがなかったのは、聴き手にそういう危なっかしさが伝わったからなんじゃないだろうか。

当時録音されたLP20枚分もの演奏の多くが未発表のままお蔵入りになり、表舞台からは消えざるを得なくなった不遇の時代、スイングジャーナルの編集長が
現地で彼に会い、その演奏を聴いて感銘を受けて日本のレコード会社に録音を勧めた。 その第1弾が "Hommage" というソロ演奏集になる。

針を落として音楽が鳴り始めた途端に、その魅力に憑りつかれた。 ピアノの音や打鍵のタッチの質感はデューク・エリントンを思わせるところがある。
硬質で重みがあり、数珠の紐が切れてテーブルの上で跳ねて飛び散るブラック・パールのように予測不能な軌道を描く。 でも、イメージしがちな難解さは
どこにもなく、こんなにわかりやすいピアノを弾く人なんだっけ?といい意味で予想を裏切られる。 

壁1枚隔てた隣の部屋から聴こえてくるような共感し辛いかつての音楽の面影はどこにもなく、素のピアノ弾きの飾らない姿がある。 "Naked Spirit" なんて
まるでチャイコフスキーが描きそうな曲で、彼の "四季" の中に組み込まれていてもおかしくない。 そういうピアノ音楽の雫がボロボロと滴り落ちてくるような
感じなのだ。 だから、最後まで感激しながら聴き終えることができる。

それに何より、このレコードは音がいい。 ピアノの音の艶やかさと残響感がとても自然で、まさしくピアノ・ブラックと言いたくなるような色彩だ。
正直言って、初めて聴くピアノのレコードでここまで心の奥底深くまで届いてきたのは、ちょっと久しぶりだった。

もう1枚の "Nefertiti" はトリオによる演奏で、こちらも同じように音のいいレコード。 こちらはかなり印象派的な作品で、旋律で音楽を構成する
ことをせず、微かに残っている記憶を頼りに音を探りながら鳴らしていき、ディレイ気味に遅れて後追いで和声が構成されていくような音楽だ。
でも、リチャード・デイヴィスのアルコが印象的な曲があったり、と単調さはなく、どこかで聴いたことがあるような退屈さもなく、とても高度で深みのある
作品になっている。 

金言に導かれて、アンドリュー・ヒルという音楽家のことを完全に見くびっていたことを思い知らされた週末になった。


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