新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月22日 その2 良い時代になったものだ!?

2021-05-22 14:39:06 | コラム
現金でのお支払いは出来ません:

同じ事を2回も掲載しますが、先ほどは「その2」とする前にクリックしていました。粗忽でした。

一昨日のことになってしまったが、通院の帰りに新大久保駅前でバスを降りて、週刊誌でも買って帰ろうかと後ろを振り向くと、1年ほど前に新装なった(奇妙なカタカナ語にすれば「リニュウアルオープンされた」とでもなるか)駅舎の中に、今度は売店が開設されたのが見えた。てっきり従前の売店かと思って近付けば、見出しのような掲示がされていたのだった。「ヤレヤレ」と思って中も見ずに引き返したのだった。確認はしなかったが店員さんはいないようだった。

恐らくスイカであるとかパスモの類いをスマートフォンに落とし込むか、所謂電子マネー式のものでお支払いをと言う方式で、人件費も節約になっているのだろう。当方はパスモは持っているが、憎き新型コロナウイルスの流行以来、殆どJRにも私鉄にも乗らないので、チャージはしていないのだ。スイカも持っているが、パスモばかり使っている間に無効になってしまったので「最寄りの駅である新宿か高田馬場のみどりの窓口で再度手続きをして有効にして下さい」と言われてしまった。という事は、新大久保駅には売店は出来たが、みどりの窓口はないという事らしい。

以前から「時代はスマートフォンによる包囲網が縦横無尽に張り巡らされ始めて、旧式の(誰が言い出したかも知らない「ガラパゴス携帯」などと言う下卑た名称は採らない)二つ折りの携帯電話の所有者にとっては、誠に意地が悪い時代になったものだ」と言ってきた。そのうちに、間違いなく「ワクチン接種証明書」か「パスポート」の類いは、スマートフォンに装備されるようになるだろう。と同時に「こうすることによって、貴重な天然資源を消耗する紙類も節約できる」と謳って。

言いたくはあるが、これも「ほぼ間違いなく見当違いの世迷い言だ」と敢えて言っておこう。世間では屡々「我が国は資源小国」などと卑下する傾向が見られるのも遺憾だ。我らが紙パルプの原料になる針葉樹や広葉樹は、確かに我が国には潤沢にあるとは言えない。故に、当方が在職中にはウッドチップも製紙用パルプも、特に針葉樹ものは、大いに輸入に依存していた。我がW社などはその我が国向けの輸出の巨頭だった。言いたい事は「我が国で消費されている紙・板紙類の原料は、アメリカを始めとする海外の森林資源に依存していたのだ」という事。

ここから先は解りやすくするために極端な表現を用いるが「我が国で環境問題論者が貴重だと指摘する紙・板紙類の節約は、何の事はない海外の余所の國の森林資源を節約しているのと同じではないのか」と言うこと。現在では多くの製紙会社は海外に自社林を開発して、そこからのウッドチップ類を持ち込んでおられるのだ。勿論、北海道その他の広葉樹林を自社で育成して原料にされることも続いている。

かく申す私は恥ずかしながら、W社の自社林や製材所やウッドチップを造る現場を見たことはあるが、我が国の森林地を訪れたことがないほど、一般人には縁がない業種だと思う。紙類の消費を節約すると言われる方々は、何処まで現場と我が国の製紙会社の現場を見ておられるのかと思ってしまう。一度でも良いから、ワシントン州とオレゴン州に行って、600万エーカー(1エーカーは約1,200坪)というW社の森林を見てくるが良い。何度も指摘したが、ヘリコプターで1時間ほども社有林に上を飛んでいたのだった。

新大久保駅の売店のことを語ろうと思って書き始めたのだったが、ついつい永年の鬱憤を晴らそうという気になってしまって、筆ではなかった、指が滑ってしまった。同じ日に馴染みの薬局でスコッテイの太巻きにした8本入りのトイレットペーパーの狙いは「これにより、包装に使うフィルムと巻メート数を増やす代わりに紙管を細くして紙が節約できるのだ」と解説された。

結構なことだと思うが、それによって節約されるプラスティックと紙の量はどれほどかと思わずにはいられなかった。でも、環境を保護して地球温暖化を防止する大義名分の前には、当方は世迷い言を言っているに過ぎないと反省しきりだった。つい先日も、世界の新聞用紙の需要の衰退振りを採り上げたが、世間様は何処まで紙類を虐げられる、失礼「節約される」でした、ご意向なのかとやるせない気分になった。


良い時代になったものだ!?

2021-05-22 14:32:39 | コラム
現金でのお支払いは出来ません:

一昨日のことになってしまったが、通院の帰りに新大久保駅前でバスを降りて、週刊誌でも買って帰ろうかと後ろを振り向くと、1年ほど前に新装なった(奇妙なカタカナ語にすれば「リニュウアルオープンされた」とでもなるか)駅舎の中に、今度は売店が開設されたのが見えた。てっきり従前の売店かと思って近付けば、見出しのような掲示がされていたのだった。「ヤレヤレ」と思って中も見ずに引き返したのだった。確認はしなかったが店員さんはいないようだった。

恐らくスイカであるとかパスモの類いをスマートフォンに落とし込むか、所謂電子マネー式のものでお支払いをと言う方式で、人件費も節約になっているのだろう。当方はパスモは持っているが、憎き新型コロナウイルスの流行以来、殆どJRにも私鉄にも乗らないので、チャージはしていないのだ。スイカも持っているが、パスモばかり使っている間に無効になってしまったので「最寄りの駅である新宿か高田馬場のみどりの窓口で再度手続きをして有効にして下さい」と言われてしまった。という事は、新大久保駅には売店は出来たが、みどりの窓口はないという事らしい。

以前から「時代はスマートフォンによる包囲網が縦横無尽に張り巡らされ始めて、旧式の(誰が言い出したかも知らない「ガラパゴス携帯」などと言う下卑た名称は採らない)二つ折りの携帯電話の所有者にとっては、誠に意地が悪い時代になったものだ」と言ってきた。そのうちに、間違いなく「ワクチン接種証明書」か「パスポート」の類いは、スマートフォンに装備されるようになるだろう。と同時に「こうすることによって、貴重な天然資源を消耗する紙類も節約できる」と謳って。

言いたくはあるが、これも「ほぼ間違いなく見当違いの世迷い言だ」と敢えて言っておこう。世間では屡々「我が国は資源小国」などと卑下する傾向が見られるのも遺憾だ。我らが紙パルプの原料になる針葉樹や広葉樹は、確かに我が国には潤沢にあるとは言えない。故に、当方が在職中にはウッドチップも製紙用パルプも、特に針葉樹ものは、大いに輸入に依存していた。我がW社などはその我が国向けの輸出の巨頭だった。言いたい事は「我が国で消費されている紙・板紙類の原料は、アメリカを始めとする海外の森林資源に依存していたのだ」という事。

ここから先は解りやすくするために極端な表現を用いるが「我が国で環境問題論者が貴重だと指摘する紙・板紙類の節約は、何の事はない海外の余所の國の森林資源を節約しているのと同じではないのか」と言うこと。現在では多くの製紙会社は海外に自社林を開発して、そこからのウッドチップ類を持ち込んでおられるのだ。勿論、北海道その他の広葉樹林を自社で育成して原料にされることも続いている。

かく申す私は恥ずかしながら、W社の自社林や製材所やウッドチップを造る現場を見たことはあるが、我が国の森林地を訪れたことがないほど、一般人には縁がない業種だと思う。紙類の消費を節約すると言われる方々は、何処まで現場と我が国の製紙会社の現場を見ておられるのかと思ってしまう。一度でも良いから、ワシントン州とオレゴン州に行って、600万エーカー(1エーカーは約1,200坪)というW社の森林を見てくるが良い。何度も指摘したが、ヘリコプターで1時間ほども社有林に上を飛んでいたのだった。

新大久保駅の売店のことを語ろうと思って書き始めたのだったが、ついつい永年の鬱憤を晴らそうという気になってしまって、筆ではなかった、指が滑ってしまった。同じ日に馴染みの薬局でスコッテイの太巻きにした8本入りのトイレットペーパーの狙いは「これにより、包装に使うフィルムと巻メート数を増やす代わりに紙管を細くして紙が節約できるのだ」と解説された。

結構なことだと思うが、それによって節約されるプラスティックと紙の量はどれほどかと思わずにはいられなかった。でも、環境を保護して地球温暖化を防止する大義名分の前には、当方は世迷い言を言っているに過ぎないと反省しきりだった。つい先日も、世界の新聞用紙の需要の衰退振りを採り上げたが、世間様は何処まで紙類を虐げられる、失礼「節約される」でした、ご意向なのかとやるせない気分になった。


朝乃山の不行跡に思う事

2021-05-22 09:29:51 | コラム
相撲と言う興行の世界も変化すべき時代なのか:

私は50年以上もの間「相撲という世界はスポーツに分類されるべきではない。何となれば、相撲は江戸時代から我が国の歴史と伝統に輝く興行であるからだ。更に言えば、我々一般人が暮らす世界とは異なる文化(ある集団乃至は団体の言語・風速・習慣等を言う)の下にあるのだから、我々が彼らの規範や行動に介入しても無意味だ」と主張してきた。だが、この趣致うについては、遺憾ながら21世紀の今日に至るも賛同者は極めて極めて希であると思う。

即ち、NHKなどは未だにニュースの時間でスポーツを採り上げる際に先ず相撲から入っていく。私は「相撲ニュース」という枠を設けるべしと唱えてきた。彼らの部屋や茶屋の制度と全国を本場所を含めて地方を幟を立てて巡業している様子であるとか、稽古と称する練習やその基本技を見ていれば、ウエイトトレーニングや食事との科学的な練習方法と訓練とでも訳したいトレーニングによって運動選手(近頃はこの言葉は死語と化したようでアスリートに取って代わられた)を養成する本来の「スポーツ」の在り方とは余りに違い過ぎる。

それでも、相撲協会は世間の荒波に揉まれ始め、以前は協会にベッタリだったマスコミも批判的な記事を書き始めた時代の変化に合わせて、色々と改革めいた行動を取るようにはなってきた。要するに、何処までも歴史と伝統を守っての興行の道を進み続けるのではなく、多少世論にも迎合するように変化したのだ。だが、私が常に批判してきた各種の競技に見られるように、組織を経験したことがない元の名選手ばかりで構成された協会が統治能力不足を曝したと同様に、元関取ばかりの相撲協会にもその能力の欠如は明らかだった。

言い方を変えれば「現在の相撲協会には過去の歴史と伝統を守り抜いて、世間様が何を仰ろうと我が道を行く」という頑なな姿勢が少しずつ薄れ始めたのだった。だが、かと言って横綱になればどれほど負けようと休場を続けようと罰則がないという規定を変えきれずに、白鵬を放置した儘という不合理な制度を頑固に維持している。

そこに何とか言う力士の夜遊びがあって、番付の遙か下位に落として見せたばかりの時に「将来の横綱」と期待されているような朝乃山のキャバクラ通いを、週刊文春にすっぱ抜かれてしまった。私に言わせれば「文藝春秋社は相撲界が一般社会の常識に従って運営されているのではない異文化の世界だと承知していても、話題性と週刊誌の売れ行きが伸びることを目指したのだ」のではないかと推測している。別な言い方をすれば、異文化の世界の出来事だから看過すべき案件だったにも拘わらず、余計なちょっかいを出したのである。

相撲協会にも最早「我々の世界の内部の出来事だ。余計な内政干渉は止めろ」と言うだけの気力もなく、朝乃山を休場させてしまった。私には断定できないが、姑息的な対応だったと思えてならない。もしかすると、直ちに彼を出席させる記者会見でも開いて「悪う御座いました。この馬鹿者は即刻大関から(例えば)十両に落としますし、本人も十分に反省しておりますから、ここまででご勘弁を」と世間様にお詫びすれば、事は穏便に終わったかも知れないのだ。

そこで朝乃山である。私は滅多に相撲の中継放映は見ていないが、夕方6時前の一般のニュースが余りこれという話題を取り上げていない時間帯だけ見ている。彼は近頃非常に増えてきた大卒の力士だ。言ってみれば、それなりの社会人としての常識は備わっているべきではないかと思う。だが、彼は平幕(と言うのか)で優勝して地位が上がってくるのに伴って、顔付きがドンドン傲慢になってきた。

言うなれば思い上がってきたと見えたのだった。そこにあの世間の常識から見れば「怪しからん」とされる現在の時短の時期の夜遊びだ。相撲の力量もテレビタレント的でもある舞の海に「是正すべき欠陥ばかりで基本が・・・」と酷評されていた。

長々と述べてきたが、結論を言えば「相撲界は未だに彼ら独自の文化に固執し、世間の常識に迎合しているかのように振る舞ってみせるときもあるが、この度の朝乃山が見せてしまったように、実態というか中身は未だ未だ変わってはいないのだ」なのである。

彼らはそう遠くない時期に「頑なに我が道を行く方針」を貫くか、「近頃流行りの社外役員を入れる会社が増えたように、協会の役員にも一般社会の人を多数派にして、稽古場にもウエイトトレーニング室を設け、トレーナーを採用し、管理栄養士を入れて食事を改革し、体重100 kg以下の筋肉質の力士しか認めないといったような二択を考えるべき」かも知れない時が来たのかも知れない。だが、近代化された相撲を誰が拍手喝采するのだろうか。でも、マスコミはそう言っているのに等しい論調ではないのかな。