新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月11日 その2 アメリカで木材の供給不足だとは好景気だという事

2021-05-11 11:55:30 | コラム
担当外の分野のことだったが:

アメリカの木材の需要が好調で品薄だと報じられている。これは取りも直さず「アメリカ経済が好調であること」の表れであると思う。これまでに何度か述べたことだったが、往年のウエアーハウザーの経済調査部のアメリカ全土に広く知られたエコノミストのリン・マイケリスが常に我々に言い聞かせていたことが「アメリカの景気のバロメーターは自動車の販売と住宅着工の件数である。それは、この二つの分野で需要が伸びれば、その需要の伸びに従って多種多様の材料と原料と素材の需要が伸びるからである」だった。

私は紙パルプ部門に属していたので、言うなれば「門前の小僧習わぬ経を読む」的な知識しかない。その乏しい知識の中で言えることは「アメリカの個人住宅(シングル・ファミリー・ホーム)は殆どが2×4の製材品を使って建築されるのだから、アメリカ最大の林産物メーカーのウエアーハウザーは潤っていた訳だった。また、集合住宅(Multi family homeだったか)でもコンクリート建築は少なかった」位のことは言える。

そのアメリカで木材需要も価格も伸びているという事と、もう一方の柱であるGMの収益が伸びたそうだから、アメリカの景気は本物であり、トランプ時代から引き続いて好調なのかと思った次第である。しかしながら、ウエアーハウザーは最早1900年の創業時の材木だけの会社になってしまった上に、私が付き合いがあった林産物担当の人たちは皆引退した後なので「本当にそれほど好景気なのか」と尋ねる相手もいないのが残念なのだ。


菅首相のオリンピック開催の決意は固いのか

2021-05-11 09:02:28 | コラム
禅問答のようなこんにゃく問答のような:

昨10日は衆参両院の面白いようで全く面白くなかった、予算委員会の国会中継をずっと見ていた。興味の焦点は菅首相が「オリンピック・パラリンピックを開催するのか」と「ワクチン接種の遅れについて如何に釈明するか」にあった。「見ていた」とは言ったが、実際にはソファに寝転がっていたままにして、音声を聞いていただけだった。声だけ聞こえれば、誰が発言しているかは解る。

菅首相を枝野幸男、山井和則、斉藤蓮舫等々がここを先途と攻め立てていたが、結局は見出しのように「禅問答のようなこんにゃく問答のような形」に終始してしまった。菅首相は立憲民主党の強者(?)たちが手を変え品を変え「オリンピック・パラリンピックを、この悪条件山積の最中に開催するのか」と突っ込んでも「選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じ、安心して参加できるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく」との答弁を(私は数えていなかったが)12回繰り返していた。その辺りを捉えて、私は禅問答云々と言ったまでだ。

私の菅首相の答弁の解釈は「誰が何と批判しようと、一旦開催すると言った以上は開催するのだ」との固い決意のほどを、あの決して流暢ではない語り口で、決して固い決意を持っておられるとは見えない表情で答えておられたのでは、枝野以下はその真意を読み切っていても、不明確さに苛立っていたのだと思う。山井和則などは「日本語になっていない」とまで突っ込んだほどだった。要するに野党は開催されたくないのであり、首相は開催するとの表現を使わなかっただけだと思う。

最近は記憶力を誇った私も些かその能力も怪しくなったのが残念だが、昨日の質疑の中で出たことだったか、あるいは何処かでジャーナリストが言ったことか忘れたが、こんな問答があった。それは、かの上から目線とでも形容したIOCのジョン・コーツ副会長(に昇進されたと記憶)に「IOCは何が何でも開催するのか」と尋ねたところ「『貴国の総理大臣が絶対に開催すると言っていたじゃないか』と切り返されてしまった」という話があった。でも、菅首相は「決定権はIOCにある」と答えておられた。

ワクチン入手の不手際についてもほぼ同様な不明解な遣り取りがあっただけで、菅首相も田村厚労省も責任回避に終始していたと聞こえた。換言すれば、菅首相以下の閣僚の姿勢は寧ろアメリカ的でさえあって、自らの非を絶対と言って良いほど認めようとしない姿勢で臨んでいたと解釈した。当然だろうと思う。私はこのワクチンの不首尾については輸入という仕事を経験されたことがない首相が、単にワクチンは厚生労働省の管轄であると言うだけで、厚労省に担当させたことが、永年対日輸出を担当してきた者から見れば、致命的な判断の誤りだったと指摘したい。

誰が言ったことか失念したが「総理はその点を国民に謝罪すべきではないのか」という批判があった。だが、如何に「謝罪の文化」がある我が国でも「謝罪すれば免責」という訳には行くまいと思うのだ。