新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月19日 その3 反安倍内閣のテレビ局の企みか

2015-07-19 14:28:20 | コラム
安保法制案反対のために長渕剛の効用を狙っていたのか:

19日午前中に適当に合わせたチャンネルで松本人志の隣に座っている柄の悪い男が「我々も何時鉄砲を持って出ていくかも解らないような戦争に導く法案は絶対に反対。我々が経験した戦争の悲惨さを思え。出身地である鹿児島の知覧の跡を訪れると不戦の誓いをするものだ」と熱を込めて語っていた。何処かで見た顔だったと思えば、それが長渕剛だった。他には長嶋一茂と石原良純もいたが、敢えて異を唱える勢いはなかった。

私はこれはこの局が長渕剛の口を借りて安保法制案をなき物にしようと企んでいるのだなと思った。実は、私はこの歌手(なのだろう?)売り出した頃にはそういう国内の流行歌乃至はそれに類似した分野の出来事などに気を配っているほど暇ではなかったので、長渕剛なる歌い手がいることすら知らなかった。しかし、今ではその筋では大立て者で、一部の国民の皆様に対しては絶大な影響力があるらしいくらいは承知している。

私は更に我が国のマスコミと言うかメディアはある分野で名を為した方々を崇め奉り、事ある毎に有識者の範疇にお入り戴いて有り難いコメントを押し戴く傾向がある傾向があるものと承知している。私はある分野で成功者であっても専門でもない領域のことや、ましてや政治・経済・防衛・外交にまで政治家や専門の学者さん以上の見識の持ち合わせがあるとは思っていない。その意味では先日宮崎駿をこき下ろしたばかりだ。

こういう傾向は明らかな錯覚であるが、罪なき一般大衆にとっては崇拝する大先生の有り難いお言葉だと受け止めてしまう危険性が極めて高いだろうと憂慮している。今朝の長渕剛のお言葉もそういう効果を狙ったテレビ局の狙いがあったと解釈している。さらに、その悪い影響はそう遠からぬ時期に意図的な「世論調査」の結果となって安倍政権に不利になって出てくるとまで考え過ぎている。野党の党首たちは今頃ほくそ笑んでいるかも知れない。

余計なお世話かも知れないが、傘下に著名な芸人やタレントを抱えている組織と関連がある与党は、この局に負けないような強力な防衛策を講じておかないと参議院では案外な結果になってしまうかも知れないと危惧する。しかし、何処の局でだったか「参議院では党議拘束を外せ。与党内でも意見が割れているのだから、あの悪法を葬り去ることが可能」と示唆された、確か元東大教授だった者がいた気がする。

話題は変わるが、実は入院以前に頂門の一針の読者の方に私のジャズ論を語るとお約束していたのを忘れてはいないの、丁度久し振りに余り沢山あるので何処にしまったか解らず漸く探し出した”Wynton Kelly trio”の”Smokin’ at the Half Note”をかけてこの原稿を打っているので、その約束を果たそうと思う。Kellyとして往年の輝きと勢いが失われかけていた1965年のアルバムだが、ここでの彼のソロは私の贔屓の彼のソロとしては上位に入ると思い愛聴している次第だ。

1950年代初め頃から中学の2年上だった鳥山親雄さん(後に寺部頼幸とココナッツアイランダースのボーカル兼ギター担当だった)の影響で、ハワイアンからジャズに入っていった私には矢張り50年代のジャズが好みではあるが、94年1月のリタイヤー後にはその領域を離れて、HMVで親しくなっていた店員に勧められるままに現代のクラシカルから手をジャズに伸ばしてきたヨーロッパのピアニストたちのCDも喜んで聴いている。

だが、数あるあの往年のピアニストたちの中でもWynton KellyはBill EvansやOscar Petersonたちと変わらぬ頻度で聞いていたというか、幅の広いピアノジャズ好きであると自認していた。50年代のジャズが好みだとは言ったが、あの頃にJohn Coltraneが出てきた際にはその余りの前衛振りに呆れ果てて「もうついていけない。ジャズは聴かない」とジャズ仲間にも宣言して、転身したアメリカの会社の仕事に専念することにした。

これ以上語り始めればキリがないので、今回はここまでに止めるが、今では2006年1月の心筋梗塞で入院した際に見舞いにと戴いたモーツアルトの10枚組CDのセットに影響されて、中学入学以前に聴いていたクラシカルを専ら原稿書きのBGMにかけている「二刀流」に変節している。いや、もしかすると本卦還りの変形かも知れない。

7月19日 その2 「個人的なつぶやき」

2015-07-19 10:11:50 | コラム
「我が国民を救わんと」:

昨日の「世の英語教師よ、恥を知れ」はブログではアクセスが増えることはないと半ば諦めの境地で載せました。それはこの場では今までに英語関連の話題は数の上では評価されないようで、アクセスが増えたことがなかったからでした。

果たせるかな、今朝の結果では、前日の「安倍総理が乗り出してきた」との対比では訪問者数が71.9%に、閲覧者数に至っては31.3%に激減していました。「矢張りか」と特に失望することなく更に調べますと、私のブログ中の人気ランキングではこの「世の英語教師よ、~」が「安倍総理が~」を抜いて第1位だったのです。何故数字的には低迷しても1位なのかは知りませんが、意外な結果には単純に喜んでおります。

ご理解とご支持賜った方々に心から感謝しております。この場を借りて御礼申し上げます。

私はこれまでにもカタカナ語というか、あのおかしな造語を批判し且つ排斥してきました。だが「日本語の一部と化してしまっているから使い続けるという方はご随意に。但し、これらが本当の英語ではないと知った上で」とは言ってきました。しかし、あのようなカタカナ語か英語として考えた場合に矛盾だらけだと気が付かない感覚には恐れ入っていたのです。

今朝の反応を見るに及んで、もしかすると長年続けて来たささやかな批判と排斥運動が少しは効果が出てきたかと、秘かに勝手に解釈して自負している次第です。そして、これからも昨日のような分析を続けて何処かにおられるだろう「濁れる海に漂える我が国民(クニタミ)を救わん」と努めていく所存です。宜しくご支持のほどをお願い申し上げます。

「安保法制案反対」を考える

2015-07-19 10:01:57 | コラム
「法案が広く国民の理解を得ていない」を考えれば:

困ったことに安倍総理までがこのような趣旨の発言をされたので、野党は言うに及ばずマスコミは安倍内閣批判と安保法制案反対の絶好の材料を得たと捉えて全国展開を繰り広げている。私はこの反安倍の悪意あるキャンペーンというかその詭弁の勢いには弾みがついていくと真剣に危惧している。

そこに畏メル友尾形氏からご意見交換先のY氏からの、

「60年安保闘争で反対運動し、デモ をした多くの人の中で、新しい安保条約を読んでいた人はいなかったのではないでしょうか。」

との見解を聞いたと知らせて頂いた。

私はこの意見を支持するものだ。当時でも安保条約が何かを知らぬ者がデモに参加していたのが事実だったと聞かされていた。私は当時就職後5年目の会社員で、新橋の駅の付近で怒濤の如きデモをボンヤリと眺めていた。そして、彼らが過ぎ去った後にハイヒールの片方が路上に残っていたのが印象的で、今でもその光景を覚えているほどだ。私は水野成夫氏率いるグループ企業の社員であっても、言わば古い言葉で言う「ノンポリ」で、帰宅途中に偶然にデモに出くわしただけのことだった。

尾形氏は更に反体制派というか安倍内閣不支持者を、

<現在のままでいいじゃないか。これまでも平和で自由で繁栄を 享受できたのだから」 「別に集団自衛権の行使容認などをしなくとも、これまで通り日本の安全はアメリカが守ってくれる筈だ 「中国も、日本を占領し支配するような無茶なことはしないだろう」

などと漠然と信じているだけではないでしょうか。つまり、「アメリカは何か起きれば、米国の若者の血を流して日本を守ってくれる筈だ」、ということであり、「共産中国は、無法な事はしない筈だ」という事です。

世界の現実や歴史を見れば、「そんな身勝手で、バカな事が・・・」と考えるのが世界の常識だと思いますが、これが平和ボケ日本の現実なのです。>

と批判しておられる。私は何年前だったかに富沢元陸幕長の講演で「日米安保条約では我が国が何処かの国に襲われた場合には真っ先に防衛に出ていくのは自衛隊であると規定されている。誤解無きように」と聞いた記憶がある。この記憶が正しいかどうかは別にして、反体制派であろうとなかろうと、安保条約を完全に理解するほど熟読した国民が全体の何パーセントいるのだろうかと思う。

何が言いたいのかと言えば、この度の安保法制案を熟読して理解している国民もどれほどいるかとの疑問と、「我々の子供や孫を戦場に送る法案反対」論者は、集団的自衛権を何処まで認識し理解して国会前でデモを仕掛けているのかとの疑問でもある。徴兵制を採っていない我が国で何で一般の国民の子弟が戦争に送り込まれるのだろうか。国会の質疑での野党の言葉尻を捉えた質問の延長上にある詭弁だ。だが、無知な罪なき人たち一般受けするのが怖い。

先程も張本勲の「喝」を見るかとTBSにチャンネルを合わせたところ、少し早過ぎて毎日新聞の岸井がここを先途と安倍内閣の横暴さを強調している時間帯に遭遇してしまった。この関口の時間を見ないに越したことはないと思うが、このように見る機会を偶然にでも作らない事には、彼らが如何に反安倍の急先鋒であるかを知る機会を失うことにもなるかと再認識出来た。私は一人秘かにこの事態の成り行きを怖れている。

私は毎日新聞の世論調査で内閣支持率が更に下がったというのはニュースではないと見なす。この新聞はそういゥ世論形成の為に存在している状態にあるのだから。

世の英語教師よ、深く反省せよ

2015-07-18 16:14:59 | コラム
新宿駅西口の雑踏の中で思ったこと:

18日の午前中には徒歩で新宿住友ビルから西口のデパートを経由してJRで帰宅した。成毛真氏だったかが書いておられたが、今時は何処に行っても中国人と覚しきアジア人が大声で喚きながら(とは言うが我々にそう聞こえるだけのことで、あれが彼らの普通の会話の音域なのだ。何分にも国土が広大だから大声でないとお互いに聞こえないのか)”trolley case”を引きずりながら歩き回っている。大声とあのケースを引きずる音が「コラボ」(立派なカタカナ語だ!)するのだから騒音公害をまき散らしている。

ここであらためて言うが、あれは「キャリーバッグ」では断じてない。何処のデパートだったか忘れたが、エスカレーターに乗ると「キャリーバッグをお持ちの方はご注意を」とのアナウンスが聞こえる。あれは何処かの無知蒙昧なものがまき散らした誤ったカタカナ語が立派に戸籍を得てしまったものだ。あのスーツケースに脚輪を付けたものは”trolley case”と言うのが普通の英語である。私には何故英語の通りでいけないのかが解らない。

それを何を血迷ったか、無理に英語で書けば”carry bag”とした虚け者が何処かにいて、それをまたまともに受け止めて英語でもそう表現すると思って「キャリーバッグ」としてしまったらしい。少しでも正常に英語が解っていれば、”carry”という動詞の後に目的語のような”bag”が来ているが「はて、主語は何処にあるのだろう」と「意味を為していない」と疑って普通だ。それを何の躊躇もなくデパートの店内放送にまで使う神経は正常ではない。

次に槍玉に挙げたいのが「メジャー」である。これは何度も繰り返して指摘してきたことだが”major”であり、発音記号は”méiʤə(r)”となっていて、誰がどう読んでも「メィジャー」であり、断固として「メジャー」ではない。「メジャー」に近い発音の単語を敢えて探せば”measure”があり、その意味はOxfordによれば”to find the size, quality, etc. of ~ in standard units”という計測の意味しか出てこない。「大きい」ではない。何処の誰がおかしな表記にしたのかを問いたい。

この手のおかしなカタカナ表記を挙げればキリがないが、「安全」という意味で近頃マスコミも政治家も濫用する「セキュリティ」も奇怪至極だ。「某通信社よ、発音記号をよく見てからカタカナ表記を考えろ」と怒鳴りたいほどおかしい。辞書には”sikjú(ə)rəti”となっており「セキュアラティ」と発音するのが常識だろう。それともこの表記を導入した輩は、我が日本人には「セキュアラティ」が発音出来ないかもと妙な仏心でも出したのかと真剣に軽蔑する。

もう一つおかしな表記を挙げよう。それはW杯女子サッカーの何処かの国に”Holiday”という人がいた。アナウンサーは躊躇うことなく「ホリデー」と言っていた。私はあれで良く大学、いや中学や高校で英語の単位が取れたものだと、寒心していた。これはOxfordの発音記号でも「ハラディ」と読める。それにも拘わらず、我が国では何処かで誰かがローマ字読みにしてしまった。

英語教育に携わってきた方々に伺いたいのは「『キャリーバッグ』なる言葉が流行り出した時に、何と言う恥ずかしいカタカナ表記であるかとは感じなかったのか。かかる出鱈目で文法無視な言葉が出来たとは自分たちの教え方に至らざる点があったのか」とは思わなかったのかという点だ。

「メジャー」もそうだ。あれほど学校では単語重視で教えたはずなのに、アクセントを何処に置くかという難しい試験問題を沢山出したのに、何で”major”が”measure”になってしまったのかと、脅威に感じなかったのかとも尋ねたい。”holiday”だってそうだ。何故辞書を丹念に引けと教えたはずなのにローマ字読みにして、ありもしない「ホリデー・イン」が存在するようになってしまったかと反省しなかったのかと問いたい。

この程度のごく普通の発音すら教えきれなかった人たちが、TOEICだのTOEFLだ英検だのと試験ばかりに熱中し、「ろくに外国人に通じない」と嘆く卒業生が多い教育を少しでも改めようとしないのか。その前に「妙なカタカナ表記を排斥しようとしないのか」とも問いたいのだ。昨日も何処かのテレビで、通りがかりの白人に「何処の国から来たのか」が言えずに四苦八苦する芸人を見た。

芸人だからまともに言えなかったことを責めるのではなく、この程度の疑問文すら覚えることが出来なかった教え方を恥じ入って貰わねばならないと私は考えている。このようなことだから、おかしなカタカナ表記を何ら疑うことなく日本語の一部に組み込んでしまう結果になるのだ。私はこれを「英語教育の欠陥だ」と指摘したい。そうだから、クリステル・チアリの国辱的な恥ずかしい英語の車内放送をあれほど蔓延らせてしまうのだ。尤も、あの人はインターナショナルスクール出身のようだが。

私の言いたい放題に反論したい方とだけではなく、賛成して下さる方もおられると良いのだかと思いつつ終わる。