浄土宗大本山 増上寺:
今週は多事だった。中でも白眉は23日(月)の港区芝の増上寺拝観だった。親戚の者が執事長を勤めていた関係があり、長年の取引先の方々3人と施設部の主任の方(といっても僧侶だが)に案内して頂き一般人では容易には入れないところも拝観出来たし、懇切丁寧な説明があって、思いがけない徳川時代の歴史の勉強まで出来てしまった。何度も火災と戦災に遭って往時の規模から大きく縮小された由だが、荘厳にして華麗な大殿(本堂)等々予想以上のものがあり一同大感激の約1時間半の拝観だった。
終わりには増上寺の顔として知られている「三解脱門」にも上らせて頂けて上層部に安置されていた釈迦三尊像、十六羅漢像も見る機会を与えられた。その上層部から回廊に出れば、嘗てはそこから先が海だったと聞かされたJRの高架が見えたし、道路を見下ろすことが出来たのは壮観だった。私は寡聞にして知らなかったが、日テレの加山雄三の散歩の番組では彼も上がっていたと、後刻専門商社の知人が教えて下さった。
その他にも徳川将軍家霊廟、鐘楼堂、経蔵、宝物殿等も見せて頂けた。経蔵では内部の輪蔵を「一度回すと一年、二度で二年、三度で死ぬまで生きていられる」との説明を受けて一同汗をかきながら四度回して長生きを保証して頂けたのだった。
私たちが非常な感銘を受けたのが宝物殿で、中でも以前は門外不出だった狩野一信の「五百羅漢図」が良かった。この狩野一信(1816~1863年)の全100幅の絵は3年ほど前に両国の江戸東京博物館で公開された由だったが、現在は61~70までの10幅が展示されていた。私はそもそも絵画だの美術だのには全く知識はなかったが、テレ東の「お宝鑑定団」のお陰で、先頃まで上野で公開されていた伊藤若冲等の存在を知るようになっていた。解説ではこの狩野一信の絵は若冲に勝るとも劣らない名作だとのことで、その素晴らしさには圧倒された。
何処かどう素晴らしいのかと尋ねられても納得いく説明は出来ないが、「その前に立てば動けなくなるような色彩感覚、羅漢さんたちの表情、飛んでいる鳥の描写等に凄さがあるのだ」くらいは言える。また長年、紙の業界にいた者としては150年も前の紙が未だに完全な状態である事、絵の具が色落ちがしているようには見えなかったことにもただ感心するだけだった。若冲の絵はそれこそテレビの画面でしか知らないが、狩野一信の絵にも「これほど圧倒的な色使いの描写が良く出来たものだ」と言いたい凄さがあった。実は、全く比較の対象にはならないが、この10幅を見て想起した絵があった。それはマドリッドのプラド美術館で見たベラスケスの絵だった。関係ないか?
この宝物殿と徳川家の霊廟では、それまで全く知識がなかったことの不勉強を恥じるような徳川家の家紋の変遷や犬公方と無能のように聞かされていた五代将軍綱吉の実態は決してそうではなかったとの説明を受けて、今回の拝観が単なる拝観ではなかったことを知った次第だ。余談かも知れないが、宝物殿の内装の壁画というのか、篠田桃紅さんの墨一色の迫力の素晴らしも忘れられない。
広い境内で印象的だったのは案外に外国人の姿が散見されたことで、彼らも我が国の仏教文化を楽しんでいるかと思わせられた。拝観を終えて感動した一同で語り合った事が「この広い東京には未だ未だ見るべきであり、訪れるべき名所旧跡があるのだろう」だった。増上寺や上野の寛永寺などは取引先の関係で葬儀等で訪れることは間々あったが、今回のように始めから「拝観」が目的で訪れれば得るところ誠に大だったと知り得た次第だった。言うなれば、何も京都まで行かずとも楽しめるものだと悟ったのだった。東京タワーやプリンスホテルが見えなければ、奥に入れば入るほど「ここが東京か」と思うほどの静寂さがあったのだった。
今週は多事だった。中でも白眉は23日(月)の港区芝の増上寺拝観だった。親戚の者が執事長を勤めていた関係があり、長年の取引先の方々3人と施設部の主任の方(といっても僧侶だが)に案内して頂き一般人では容易には入れないところも拝観出来たし、懇切丁寧な説明があって、思いがけない徳川時代の歴史の勉強まで出来てしまった。何度も火災と戦災に遭って往時の規模から大きく縮小された由だが、荘厳にして華麗な大殿(本堂)等々予想以上のものがあり一同大感激の約1時間半の拝観だった。
終わりには増上寺の顔として知られている「三解脱門」にも上らせて頂けて上層部に安置されていた釈迦三尊像、十六羅漢像も見る機会を与えられた。その上層部から回廊に出れば、嘗てはそこから先が海だったと聞かされたJRの高架が見えたし、道路を見下ろすことが出来たのは壮観だった。私は寡聞にして知らなかったが、日テレの加山雄三の散歩の番組では彼も上がっていたと、後刻専門商社の知人が教えて下さった。
その他にも徳川将軍家霊廟、鐘楼堂、経蔵、宝物殿等も見せて頂けた。経蔵では内部の輪蔵を「一度回すと一年、二度で二年、三度で死ぬまで生きていられる」との説明を受けて一同汗をかきながら四度回して長生きを保証して頂けたのだった。
私たちが非常な感銘を受けたのが宝物殿で、中でも以前は門外不出だった狩野一信の「五百羅漢図」が良かった。この狩野一信(1816~1863年)の全100幅の絵は3年ほど前に両国の江戸東京博物館で公開された由だったが、現在は61~70までの10幅が展示されていた。私はそもそも絵画だの美術だのには全く知識はなかったが、テレ東の「お宝鑑定団」のお陰で、先頃まで上野で公開されていた伊藤若冲等の存在を知るようになっていた。解説ではこの狩野一信の絵は若冲に勝るとも劣らない名作だとのことで、その素晴らしさには圧倒された。
何処かどう素晴らしいのかと尋ねられても納得いく説明は出来ないが、「その前に立てば動けなくなるような色彩感覚、羅漢さんたちの表情、飛んでいる鳥の描写等に凄さがあるのだ」くらいは言える。また長年、紙の業界にいた者としては150年も前の紙が未だに完全な状態である事、絵の具が色落ちがしているようには見えなかったことにもただ感心するだけだった。若冲の絵はそれこそテレビの画面でしか知らないが、狩野一信の絵にも「これほど圧倒的な色使いの描写が良く出来たものだ」と言いたい凄さがあった。実は、全く比較の対象にはならないが、この10幅を見て想起した絵があった。それはマドリッドのプラド美術館で見たベラスケスの絵だった。関係ないか?
この宝物殿と徳川家の霊廟では、それまで全く知識がなかったことの不勉強を恥じるような徳川家の家紋の変遷や犬公方と無能のように聞かされていた五代将軍綱吉の実態は決してそうではなかったとの説明を受けて、今回の拝観が単なる拝観ではなかったことを知った次第だ。余談かも知れないが、宝物殿の内装の壁画というのか、篠田桃紅さんの墨一色の迫力の素晴らしも忘れられない。
広い境内で印象的だったのは案外に外国人の姿が散見されたことで、彼らも我が国の仏教文化を楽しんでいるかと思わせられた。拝観を終えて感動した一同で語り合った事が「この広い東京には未だ未だ見るべきであり、訪れるべき名所旧跡があるのだろう」だった。増上寺や上野の寛永寺などは取引先の関係で葬儀等で訪れることは間々あったが、今回のように始めから「拝観」が目的で訪れれば得るところ誠に大だったと知り得た次第だった。言うなれば、何も京都まで行かずとも楽しめるものだと悟ったのだった。東京タワーやプリンスホテルが見えなければ、奥に入れば入るほど「ここが東京か」と思うほどの静寂さがあったのだった。