新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月22日 その2 英語に見る階層別の変化

2019-09-22 08:01:16 | コラム
“What do you doing?”はどうか?:

このような質問が渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」の読者から私宛に投稿されたとお知らせ頂いた。質問者はアメリカで滞在したホストファミリーでは納得する答えが得られなかったそうで、このような文法的に怪しい表現を正す小言幸兵衛」のような存在が必要ではお考えのようだった。私は考え方にもよるが、かなり面倒な質問だと思った。そこで下記のようにお答えしたので、ご参考までにご一読願うことにした。

“難しいというか多くの要素を含んでご質問だと思います。先ず、お断りしておきたいことは「私は英語学者でも言語学者でもない」という点です。ただ単に幸運でアメリカの支配階層に通じる英語とその話し方を学べる機会が終戦直後の子供頃からあっただけだったことと、現実にアメリカの支配階層とアッパーミドルに属する人たちが中心で運営されていた会社で、我が国の英語教育では学び得ないようなEnglishの世界で過ごしてきただけでした。

その“What do you doing?”という表現には接したことがありませんでした。そこで言えることは、失礼に当たるかも知れませんが,そのホストファミリーがそのような階層にあるかが問題だと思います。あのIt's me.”について答えてくれたMaryの一家では、父親が息子が読んでいた雑誌を「一寸見せて」と言う時に“May I ~.“と言って話しかけていました。そういう人たちの家庭だったかと言うことでしょう。

私が転進した1975年のWeyerhaeuserの東京事務所では、毎月各部門の担当マネージャーたちが本部に送る“Monthly report”は先ず原稿を副社長補佐のJ氏(ワシントン大学のMBA)がチェックして赤字で訂正し、何度か書き直してからでないと完成版を送れませんでした。その理由は「もしかして、社長にまで上がるかも知れない報告書に初歩的な文法の誤りやおかしな言葉遣いか表現があってはならないから」でした。我々日本人社員は鍛え上げられました。

ご指摘のような「小言幸兵衛」の存在は必要だと思います。私は特に現在の名前があれほど読めなくなった珍妙としか言いようがない当て字ばかりだけではなく、重箱読みも横行している現象を見れば、国語教育が如何にお粗末になったかと嘆くばかりです。英語というかカタカナ語の粗製濫造を見ていれば、この分野にも誰かその奇妙さを正すか、正当な指導ができる存在が必要だと痛感しております。

What do you doing?と似たような文法的におかしな表現には、一寸異なる階層に属する者が多い場に行けば普通に出会います。例えば“How are you?”は最早死語で“How are you doing?”は一般的になってしまったとも言えるでしょうし、それに答えて“I'm doing real good. Thanks.”も普通です。このrealはreallyとしたくなってしまうのが普通だと思いますが。先日も例に挙げた“Don't say nothing."のような二重否定は肯定文として通用します。

私が転進た時の技術サービスマネージャーは部下の技師が客先でプリゼンテーションをした際に黒板に書いた文章に文法的な誤りがありと見た途端に平然として“Hey, Bill. It's pidgin. Correct it.”とお客様に聞こえるのを構わずに注意しました。我が国でもこのような厳格さは同じだと聞きましたが、一流会社(我が社は当時はトリプルAの格付け)は全アメリカで第40位の売上高があった誇り高き製造業の会社でした。

我が社の自慢をしているのではなく、言葉についてはかくあるべしだと思うと申し上げています。“


如何でしょう。ご納得頂けましたか。



ラグビーW杯開催に思う

2019-09-22 07:46:40 | コラム
ラグビーあれやこれや #2:

マスコミは騒ぎ過ぎだ:
昨21日には産経新聞が一面のトップの記事にしたのに驚いて見せたが、本心から言いたかったことは「世界のランキング10位の我が方が20位のロシアに勝つのが当然な当たり前の試合だったことをそこまで騒ぐな」だった。それは初戦で緊張しただろうが、それでも勝つのが本当に強いことを立証するのであって、産経だけではなく、多くのテレビ局も大騒ぎだ。かれらが皆そこを言わずしてもお祭り騒ぎするのは見苦しいと感じていたのだった。

世界の強豪国の試合振り:
21日にはオーストラリア対フィジーと決勝戦でも顔合わせをさせたいと言われたニュージーランド対南アフリカとの試合を興味深く観戦した。4ヶ国の代表テイームはそれぞれ作戦があってあのような真っ向から当たり合うと私には見えたゲームプランで臨んだのだろうとは思う。それ即ち、綺麗にバックスでのパス展開で行く先鋒ではなく、ボールキャリヤーは短い距離を端って敢えて相手でデイフェンスに当たりに行ってそこでモールだかラックを作っては出来る限り早い球出しをしてはまた突っ込んでいくという、素人目には単調で余り面白くない体力消耗戦のように見えた。

解説者の1人は「あのような当たり合いで相手のFWの体力の消耗を狙っているのだ」と教えてくれたが、世界最高と聞かされているニュージーランド代表(オールブラックス)でもそのプランだったようで、実力はあると見えた南アフリカをその力の差で退けていた。確かにニュージーランドは随所に世界でも著名だというBバレットのような名手の素晴らしさを見せてくれたが、当たり合いと体力消耗戦は日頃ラグビーに接する機会がないものには退屈に近い感想を持たせてくれた。

21日に勝っていたニュージーランド、南アフリカとオーストラリアは確かにラグビーでは世界的な強豪国だが、他の球技に属する競技では余り世界的な強さを発揮していない。それだけにこのラグビーのW杯には「賭けている」という印象が濃厚だと感じた。尤も、我が国やアメリカの野球にはオーストラリアの選手もいるし、我が国のサッカーでは常にオーストラリアとは厳しい試合展開となって苦しめられたとの実績はあるが、この国からは世界的なサッカーの名手は出ていないのではなかったか。

ラグビー関連の放送用語:
ラグビーの中継放送をするアナウンサーたちは「番狂わせ」のような下位のテイームが上位者に勝つことを近頃は“giant-killing”と称するようだが、私は長い間この現象を“an upset”だと思っていたので、この期に及んで英語の勉強をさせて貰えたと彼らに感謝した。だが、ラグビーでは滅多にgiant-killingは起こらないそうだ。それだからこそ、前回の大会で我が国が南アフリカに勝ったのは大事件だったと言うことだそうだ。

ここで一寸折角英語の講釈に入ったので、野球用語にも触れてみたくなった。多くの解説者たちが平気で言う「ワンバン」や「ショーバン」がある。これも実はカタカナ語を更に詰めてしまったもので、「ワン・バウンド」と「ショート・バウンド」だったのだ。アメリかでは「バウンド」は“hop”が使われていて“short hop”になっている。また、この関連では「イレギュラーバウンド」というのがあるが“bad hop”となっている。即ち、アメリかでは「バウンド」に規則的も不規則的なものはないと言っているようだ。


9月21日 その2 ラグビーに思うこと

2019-09-21 17:26:07 | コラム
ラグビーあれやこれや:

騒ぎ過ぎでは:

本21日の産経新聞には驚いた。一面のトップが我が日本代表の敢えて言うがクラブテイームが第1戦でロシアに勝ったと出ていたことだけではなく、31ページというか社会面がその関連で埋め尽くされていたことだった。我が国でサッカーのW杯が韓国の横やりで共催になってしまった時に、これほど多くのメディアが扱ったっけと思わずにはいられなかった。嫉妬だよと言われればそれまでだが、割り切れなかった。

試合そのものは前半だけ見た。ロシアはまるで策がないラグビーで、キックを多用して攻めるしか作戦はないのかと問いかけたくなった。これならば負けることはないと割り切れたのだし、閃きも「勝ち」と出たので体調不良もあって寝てしまった次第。我が代表のクラブはロシアの最初のパントキックの処理を15番が過ったのでいきなり失点となったが、実力はランキング通りの差があったと見た。ここから先も勝っていってほしいものだ。でも騒ぎ過ぎは願い下げにしたい思いだ。

ユニフォーム:
我が国では何故か伝統的になっているようで、関東大学の対抗戦グループも帝京大学を除いては、関西の強豪大学と共に、横縞の所謂ラグビーのユニフォームを着用している。ところが、イングランドも、ニュージーランドもオーストラリアも多くのヨーロッパの多くの強豪国も皆無地というか横縞ではないのだ我が国ではどうしてこうなってしまったのかが知りたいと思う時がある。先ほどまでオーストラリア対フィジーの試合を見ていたが、フィジーも矢張り白無地だった。

ラグビー用語:
ここにも野球用語式のおかしなカタカナ語表記が多いのは何故だろう。ここにも妙なカタカナ語製造者がいたのだろうか。例を挙げてみれば「ノットリリースダボール」がある。これを文法的に訂正すれば“not releasing the ball”となっているのであって、releaseをreleasingに出来なかったのは、原作者のUKに対して恥ずかしいと思わなかったかと尋ねたい。UK系だから仕方がないかとも思うが“knock on”という前にボールを落とすことを「ノックオン」とローマ字読みにしたのも、何でかなと思ってしまう。Oxfordを見ても,発音記号は「ナック」と表記したいようになっているではないか。

次はラグビーの専門語ではなくて、その関連する放送用語に「ターンオーバー」というのがある。大学で千葉勉教授に厳しく「連結音」が英語の品格の問題だと教えて頂いた者としては“turn over”には連結音が適用されて「ターンノーバー」と聞こえるように言って貰いたいのだ。いや「ターノーバー」と表記したいくらいだ。この辺りと似たような野球用語に、解説者たちが平気で言う「ワンバン」や「ショーバン」がある。これも実はカタカナ語を更に詰めてしまったもので、「ワン・バウンド」と「ショート・バウンド」だったのだ。因みに、アメリかでは”short hop”であるし、「イレギュラーバンド」は“bad hop”なのだ。

「もうその辺で良いだろう」という声が聞こえてきそうだと危惧するので、これまでで打ち止めにする。妄言多謝。

英語の教えかと学び方

2019-09-21 11:23:09 | コラム
英語は何の為にどうやって勉強するか:

昨20日に採り上げたMaryさんの“It’s me.”の文法的説明の後追いとして、彼女とその夫であるBob(決して「ボブ」とは言わない「バブ」が一般的である)とは本部の出張した時には必ず1度は昼食乃至は夕食会で語り合っていたし、時にはMaryとだけのこともあった。彼らが住んでいたシアトル近郊では最高の住宅地帯であるマーサー・アイランドのお宅にも何度もお邪魔していた経験を通じて、我が国の英語教育を一寸批判してみたい。

彼らとの会話の中で「何故私が英語で話せるようになったのか」との質問が出たことがあった。そこで、1945年の中学1年の時から「話せるようになる為」にGHQの秘書の方に教えられたことを説明し、秘書のHelenに先ず厳しく教えられたことが「言われたままの英語を覚え、それを日本語にして考えることをしてはならない」即ち、「英語で話す時には英語だけで考えるようにして、これから話そうとすることを日本語で思い浮かべてから英語に訳そうなどとしないこと」だった。

次に厳しく仕付けられたことは、未だ英語を学校で勉強するようになった13歳の子供が、意味が通らないかまたは文法的に誤っている文章を話すと返事もしてくれなかったのだったし、彼女とは日本語で会話することも許されていなかった点だった。更に言葉に詰まったら黙っていないで“Let me see.“と言って繋ぎなさいとも言われた。その他に厳禁されたことは話の間に”you know“を挟むことは絶対にしてはならないとの点だった。要するに「出来る出来ないの問題ではなく、英語だけで考えるようにすること」を徹底的に仕込まれたのだった。

この回顧談を聞いたBobとMaryの夫妻は「それは素晴らしい教え方だ。その秘書の方が立派だった」と賞賛された。このようなHelenの教え方は学校の英語教育とはかなりかけ離れた方法だったが、何故か彼女が週末に我が家に息抜きに来ていた間は、訳も解らずに英語だけで話をしていたことは、学校で教えられていた英語の勉強の妨げにはなっていなかった。即ち、中学と高校での英語の成績は「英語しか出来ない蹴球部の彼奴」として知れ渡ってしまった事からも立証出来ると思う。

私がずっと主張してきている「音読・暗記・暗唱方式」に移っていったのは記憶は定かではないが、単語帳だのカードだのということが面倒で手を抜いて勉強する為に中学の頃から始めていたと思う。これも既に回顧したことだが、文法は理屈っぽくて敵わないので適当にお茶を濁していたが、音読・暗記・暗唱方式で何とかなっていたし、英文和訳もほとんどやったことがないままに試験ではチャンと点が取れていた。英作文は受験対策も含めて何とかせねばと思って、佐々木高政先生の「英文構成法」には必死で真剣に取り組んで十分に成果は挙がったと思う。

この考えようによっては手抜きと聞こえる勉強法は大学1年の時から2年ほど家庭教師のアルバイトで教えた中学1年の男子は高校を出るまで英語は「オール5」だったそうだし、彼は高校卒業の時には担任に「英語だけが高校教育の狙いだったとしたら君は満点だ」と褒められた(くさされた?)程効果があったそうだ。また、リタイア後に1年ほど個人指導した某商社の若手もチャンと彼が所属した課で随一の使い手と認められるような現実的な効果があったのだった。

私がこれまでに何度も指摘して来たことだが、英語の勉強を「文法」、「英文和訳」、「英作文」、「英会話」等々に小分けして教えることもそれなりに良いのだろうが、現在までの我が国の学校教育のように「科学として英語」を数学のように教え、しかも一教科として生徒か児童を5段階でも何でも良いが、優劣の差をつける為に教えていたのでは「自分が思うままに外国人にも解って貰えるように話せること」あり得ないのだと言いたくもなる。それではどうするべきかと問われれば「英語というものを総合的に教えて、先ず基礎から固めてやるべし」と言うしかないと思う。

現在のように科学として教えた挙げ句に、その成果の程を英検だのTOEICだのTOEFLだのという、その科学としての英語教育の結果を試そうとするテストで縛り上げてどうするかと、嫌みの一つも言ってみたくなる。これも何度か採り上げたことだが、ある大手企業の人事部長さんが「当社はTOEICの点数を重要視していない。それは当社の海外部門で最高の成果を挙げている者は500点程度の成績だ。問題は如何に外国の取引先を説得するだけの論旨を効果的に組み立てられるかである」と指摘されたのである。現に、私はそういう論旨を組み立てられて日本語で交渉に臨まれ、私が通訳しながら唸っていた論客に何人も出会った。

それは同時に「ただ単にペラペラと英語で話せれば良い」ということでもなく、「英語のテストで高得点を取ってあれば良い」ということでもないのだ。また、我が国の学校教育の英語の勉強法に忠実に従われ、妙に単語の知識だけが豊富になって「口語と文語の言葉入り交じっていたり、アメリカ人たちがwordyと呼ぶ堅苦しい単語と熟語を多用した語り方や通訳の仕方になってしまう例にも接してきた。言いたいことは「何を目標にして、どのように外国を勉強するか」が問題であるという点だ。

これまでに何度も指摘して来たことだが、実際にアメリカ人の中に入って過ごしてみれば、平易な単語を使って難しい内容でもわかりやすく表現するのが普通なのだと解る。嘗て我が社の技術サービスマネージャーが高校3年の英語の教科書を見て「日本では高校の頃から英文学者にでも育てようとする気か。アメリカの学校ではこんな難解な文学作品を教科書には採用しない」と叫んだことがあった。それはそれで良いかも知れないが、実用性を身につけさせようとか、海外でも通じる英語力をつけさせようとするのならば、現在の英語教育には改革すべき点が多々あるのではないか。

文科省や我が国の英語教育の先生方は「アメリカの支配階層の中で、彼らの育ちと家庭教育と日常的に使われている英語の質を経験されていたのだろうか。アメリカ語と英連邦系の英語の何処がどのように違うかを身を以て経験されたのだろうか。アメリカでもUKでも同じだが、低層階級では当たり前のようにswearwordが使われているとご承知なのだろうか。それがslangとは別物だとご存じなのだろうか。こういうことを心得た上で英語を教えられる教師がどれほどいるのだろうか。小学校3年から英語を教えている場合かと問いかけて終わる。


9月20日 その2 「”It' me.”の文法的考察』の補完

2019-09-20 16:03:14 | コラム
実は要注意な点がある:

先ほど掲載したアメリカの婦人(仮にMaryとでもして置く)の説明は「自分の国の言葉をあそこまで平易に文法的に解説されたのには流石と感心するだけ」だった。私にはとても日本語の文法をあれほど誰にもで解るように分析出来るとは到底思えないのだ。「なるほど、It’s me.ではいけないというのはこのような事だったのか」と納得して感心された方もおられるかと思う。だが、正直に言えば,私はこの辺りに落とし穴が潜んでいると思っている。

それは、「Maryの分析は丁度我が国の学校教育における英語の教え方、就中文法の教え方にも似ているか」と思うのだから。即ち、「英語を理論的に考えようとする余りに『be動詞』の次に目的語が来る場合には代名詞の目的格ではなく、主格を持ってこなければいけないと理解し認識していると、”It is“と来たから次は meではいけなくて Iにしなければならないのだ」のような思考にとらわれてしまうのではないかと危惧するのだ。これでは中々滑らかに英語を話す事が難しくなるだろうという意味。

そこに登場するのが私が永年繰り返し繰り返し主張し強調して来た「音読・暗記・暗唱」なのである。より具体的に言えば、“It’s I.”のような文法的に正しい文章を徹底的に音読して暗記しておけば咄嗟の場面で文法的に誤りである“It’s me.”は出てこなくなるものなのである。この点は高校3年の時の英語の担任だった故鈴木忠夫先生は「重要な点は口から文法的に誤りである言葉の使い方や文章が出てこないように覚え込んでしまう事」と明確に言われた。もっと言えば「理屈は忘れて音読を通じて覚え込んでしまえ」という主張なのだ。解説などは後から付いてくれば良いこと。

更に具体的に指摘すれば、私はこのようにして文法的に正しい言葉遣いと文章を徹底的に暗記して暗唱出来るようにして見たのである。その意味は「単語をバラバラに覚えるのではなく、飽くまでも流れの中でどのように使うのが正しく且つ文法的に正確か」を音読・暗記・暗唱方式で覚えてきたという事。この方式に対しては「そんなやり方で英語が出来るようになるのか」との疑問を呈された方は諸賢のご想像通りに多かった。だが、何度も述べてきた事で「この方式では学校教育方式で学ばれた方たちよりも、実践的な効果が挙がった例が何件もあった」のである。

これも何度か述べてきたことで「私は文法などは後から理論付けしたものであると思っている。その理論に生き物である言葉を無理矢理にはめ込んでいくのは本末転倒ではないのか」なのである。故に“It’s me.”や“Me, too.”のような表現は覚えないようにしなければならないのだ、仮令それが通俗的には受け入れられ一部の階層では使われていても。

念の為に補足しておくと、MBAであるMaryの長男はハーバートでMBAを取得してIntelのdirectorであり、長女はIvy League のBrown Universityを経て一旦Intelに勤務した後でUCのバークレーで文学のマスターを取って大学教授であるという、絵に描いたようなインテリの一家である。余談だが、Maryは我が国では普通に「メアリー」とカタカナ表記されるが、事がGaryとなると何故か「ゲーリー」か「ギャリー」となってしまう。カタカナ語製造業者は何をやっているのかと何時も奇異に感じている。これは「ゲアリー」が正しいのだ