Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

フットボールヲメタデ解コウトシタンダガ、ワカリニククナッテシマッタ

2004-07-30 23:39:17 | スポーツ
レアル・マドリードのサッカー。
U-23日本代表のサッカー。
日本A代表のサッカー。

これらを「会話」「対話」の観点で見てみる。

そしてさらに、「会話」「対話」に「創造」「建設」の視点を加えてみる。


昨日行われたジェフ市原対レアル・マドリーとの試合を、
マドリーの側から「会話」「対話」の部分でみてみる。
「会話」というのは、選手間でのもの。
「対話」というのは、チーム同士でのもの。



攻守にわたって選手は、パスを使い、ボールのキープの仕方や位置取りを使い、会話しあっている。

サルガドさんが右サイドの前線に流れていこうとしている。
中央でボールを持ったフィーゴさんの視界にサルガドさんの動きは入っているだろう。
オフサイドにかかるかもしれないけど、スルーパスを出せなくもない。
あるいは浮き玉のスルーパスがギリギリ通るかもしれない。もしもパスが通ったら、
絶好のチャンスになる。ラウルさんはそれみて、ペナルティエリアの右に寄っていくかもしれないし、そのままゴール前まで突っ走るかもしれない。ペナルティエリアの後ろに引いてパスを欲しがるかもしれない。
そしてその動きのどれもが、相手のディフェンダーをひきつけるためのものかもしれないし、もしもそんな状況でパスが来ても、新たな攻撃のサジェスションをするだろう。

ベッカムさんはそれを見て、一連の攻撃のあとのリバウンドを拾うため、あるいはカウンターに備えるために、ペナルティエリア後方に居座ったままかもしれない。あるいは、サルガドさんのフォローに回るかもしれない。

そうモリエンテスさんが考えていたとする。

ロベカルさんが上がってきてもいいし、フィーゴさんがドリブル突破を試みてもいい。
どんな動きでも、それに対応して、自分も皆も動くだろう。

とモリエンテスさんが考えていたとする。

チーム内の会話は抽象的に進む。

ボールを持った選手の一挙手一投足は、発言である。
ボールを持たない選手は、その発言に対してモーションで返答する。

チーム内の会話はスムーズにストレスなく進むことが好ましい。
ピッチに立った11人すべてに発言権が与えられている。
「お前はしゃべるな」というような抑圧はないほうがいいし、そう考えないほうがいい。
また、「語り」もないほうがいい。


「お前はしゃべるな」という抑圧は、周囲に動きを限定させられるプレイのことである。動く場所はそこしかない、だとか、パスを出すのはそこしかないとかだ。そして、抑圧を考えないほうがいいというのは、限定したプレイの後に、創造的な動きをしないことだ。

お互いの意見を聞きながら、自分の意見もだせるという環境であるのが、レアル・マドリーだと思う。



U-23日本代表チームは、お互いにプレーで意見を出し合うチームだ。
ボールを持っていないときの動きもプレイである。
だが、まだ若いせいか、お互いの意見を聞きながら意見を出すことが少ない。
いいところまで会話して、結論を急ぐきらいがある。
結論を急ぐとは、「語り」である。
フィニッシュが近づくと、とたんに創造をやめて、自己顕示にむかってしまうところがあるし、回りが意見をださなくなって、語るハメになることもある。
意見は、溢れるくらいがいい。
そしてその意見溢れる会話を楽しむほうがいい。
平山選手は、そういった意味で、会話のうまい選手だと思う。
常に10人に向かって意見を放ち続けているように見える。それでいて、
10人の意見を渇望しているように見える。
思うのだが、平山選手が目立ちに目立つようなチームがあれば、相当に楽しく強いサッカーをやるチームなんじゃないか。
国見のことを言ってるんじゃないですが。
闘莉王選手も、良い。彼は誰よりも強く意見を放つ。

日本A代表の場合。たぶんに、会話がレアルよりもu-23よりも、もっと秘密裏に行われている。寡黙である。地味である。しかしそこにはちゃんと会話があるのだ。
ただ、建設的、事務的、論理的なだけのようでいて、しっかりと創造性を秘めている。
そういうところが、日本的というか、そんな感じがする。
日本らしい、日本サッカーってものが生まれつつあるんじゃないかと思うのだ。
ただ、その寡黙さ、事務的さ、論理的さから、11人が美を生み出そうとしなければ、恐ろしくつまらないサッカーをするチームになってしまう。
つまり、建設、建設と繋いでいく会話のラストがこれまた建設で終わってしまうサッカーになってしまう。
会話のラストに創造を持ち込んで、それまでの建設部分さえもそのラストゆえに意味合いを変えさせられてしまうような創造性が大事なのだと思うし、要求されているんじゃないか。
微塵も見えないくらいに隠された会話を、選手たちがちゃんと読めているかどうかが焦点であり課題であると思う。
伝えていない、伝わっていないようならば、平山選手のように、わかりやすく訴求するプレイを皆で試みてみないだろうか。

A代表はトルシエの頃よりも弱くなったと、言われることがあるが、
決してそんなことはないだろう。
今すぐ、トルシエ時のサッカーに戻してみるならば、2002年時のレベルまでにはすぐ到達するだろう。だが、トルシエのサッカーはあそこまでだ。その先はない。
トルシエとジーコのサッカーの目指す高みはまるで違う。
ジーコのサッカーにはトルシエがビビって進めいれない先がある。
それはヘビと龍くらい違う。
トルシエのサッカーには創造性が薄かった。
中田ヒデ以外には建設的な動きしか要求していなかったからだ。
ある意味成功したのは、W杯を目前として、構造的には保守路線ですすんだのと、時運にのったためじゃないか。
創造性を重視したサッカーよりも、建設性を重視したサッカーのほうが、選手たちに負荷が少ないからだ。中村俊輔を選抜していたならば、
トルシエサッカーはバランスを崩していただろう。他の選手がそのレベルについてこれないからだ。
だからといって、創造性にチャレンジしないでいれば、日本のサッカーはスポイルされてしまうんじゃないだろうか。

A代表は、どこまで会話できるかだ。
派手なプレイだけが発想ではない。

点で合わせていくサッカーをやるならば、アタックをかける前に、
会話が済んでいなくてはならない。

明日はヨルダン戦だ。どうなるだろう。




あぁ、対話について書くには時間がなくなってしもた。
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