読書。
『アート鑑賞、超入門!』 藤田令伊
を読んだ。
絵画をみるときに、
いろいろな作品をそれぞれ数十秒という短い時間で眺めていって、
「ああ、癒されたあ」という見方がもっともがさつな見方なのかもしれない。
よくみる、時間をかけてみる、なぜこうなのだと問いかける、
などを自分なりにやって浮かびあがるものが絵画・美術品にはあるようだ。
と、以上がぼくが前半部を読んだ段階の感想なのですが、
要所要所や終章で、著者は、
そんなざっくりした気分転換の見方だっていいんだよ、と寛容に言っている。
そりゃあ、深い鑑賞の仕方もあって、
そういうやり方で、作品と相対する鑑賞者としての自分が磨かれもするのだけれど、
「レベルの高い見方をしないといけない」という強迫観念を持ってしまえば、
アートとの心理的な隔たりが生まれて、アートに親しむことができなくなる。
少しずつ、自分の興味の度合いを確かめながら、鑑賞の仕方のレベルを考えればいいわけです。
おおきく、感性的鑑賞、知性的鑑賞、知識的鑑賞という三つを紹介しています。
さらに、批判的な見方だって悪いわけじゃないという納得の論を述べていて、
加えて、アート鑑賞によって他者の視点というものへの気づきが得られること、
そして、他者そのものの心理になる「寄り添い」
という鑑賞について触れている。
このあたり、ぼくは読書で近いことをやっているなあと再確認することになった。
とくに「寄り添い」は、文章をなぞりながら、作者の考えやイメージを
自分の中に再現しようとするような読み方をしていることがある。
また、肯定と批判のあいだをゆれ動く心理でいることについても述べられている。
そういうゆれ動きのブレって、実はほんとうの姿勢なんだってぼくもそう考えている。
「すべての道はローマに通ず」のように、
違ったジャンルの考え方やノウハウが、
他のジャンルでも役に立つっていう例になりますね。
途中、名画を図示して、
いろいろと読者に考えさせるところが折に触れてでてくるのですが、
その図がカラーであればなおよかったなと思います。
ま、それでも、事足りてましたけども。
この本に書かれているような姿勢が一般化すると、
世の中もっとこなれて成熟してくるよなあという感想です。
『アート鑑賞、超入門!』 藤田令伊
を読んだ。
絵画をみるときに、
いろいろな作品をそれぞれ数十秒という短い時間で眺めていって、
「ああ、癒されたあ」という見方がもっともがさつな見方なのかもしれない。
よくみる、時間をかけてみる、なぜこうなのだと問いかける、
などを自分なりにやって浮かびあがるものが絵画・美術品にはあるようだ。
と、以上がぼくが前半部を読んだ段階の感想なのですが、
要所要所や終章で、著者は、
そんなざっくりした気分転換の見方だっていいんだよ、と寛容に言っている。
そりゃあ、深い鑑賞の仕方もあって、
そういうやり方で、作品と相対する鑑賞者としての自分が磨かれもするのだけれど、
「レベルの高い見方をしないといけない」という強迫観念を持ってしまえば、
アートとの心理的な隔たりが生まれて、アートに親しむことができなくなる。
少しずつ、自分の興味の度合いを確かめながら、鑑賞の仕方のレベルを考えればいいわけです。
おおきく、感性的鑑賞、知性的鑑賞、知識的鑑賞という三つを紹介しています。
さらに、批判的な見方だって悪いわけじゃないという納得の論を述べていて、
加えて、アート鑑賞によって他者の視点というものへの気づきが得られること、
そして、他者そのものの心理になる「寄り添い」
という鑑賞について触れている。
このあたり、ぼくは読書で近いことをやっているなあと再確認することになった。
とくに「寄り添い」は、文章をなぞりながら、作者の考えやイメージを
自分の中に再現しようとするような読み方をしていることがある。
また、肯定と批判のあいだをゆれ動く心理でいることについても述べられている。
そういうゆれ動きのブレって、実はほんとうの姿勢なんだってぼくもそう考えている。
「すべての道はローマに通ず」のように、
違ったジャンルの考え方やノウハウが、
他のジャンルでも役に立つっていう例になりますね。
途中、名画を図示して、
いろいろと読者に考えさせるところが折に触れてでてくるのですが、
その図がカラーであればなおよかったなと思います。
ま、それでも、事足りてましたけども。
この本に書かれているような姿勢が一般化すると、
世の中もっとこなれて成熟してくるよなあという感想です。