Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『窓の魚』

2015-12-27 22:41:53 | 読書。
読書。
『窓の魚』 西加奈子
を読んだ。

今年100冊目の読書は、この本になりました。
直木賞作家で、なんとぼくと同い年の西加奈子さん。
すごいひと、いるじゃないかと気持ちが引き締まります。

男女四人が宿泊した旅館。
あくる日、ひとりの死体が池に浮かぶ。
いったい、誰が、どうしたのか。
そのような謎が大きくひとつありながら、
四人それぞれの、一人称で語られる四つの章で見られる細部から、
同じストーリーでも、いや、同じ日を過ごした四人でも、
そこで考えていること、感じていること、
話の中身や表情などの受けとめ方なども異なっている、ズレがあることで、
それぞれの人生を感じることができて、
それぞれの人としての重みを感じることができるようになっている。
そこには、たとえば交差点で行き交う人みんなに人生があってドラマがある、
というようなことの具体的な表出があります。

誰かひとりが死んだのだが、
いったい誰が死んで誰が殺したのか、
そもそも他殺なのか自殺なのか。
そこのところについていろいろと多方向へ読者の想像力をかきたてます。
これだけ殺意の契機や自殺の衝動の契機になりそうなものが日常には潜んでいるのかな、
と思わせられるつくりにもなっている。

日常の薄皮一枚の裏には危うさがひそんでいて、
みんなそうなんだよ、っていう感覚を感じる。
当時30歳くらいの西加奈子さんは最初にそういうことを描こうと思って、
これだけの物語を紡いだのだろうか。
だとすると、その企みも構築力も発想もすばらしい。

というか、そんなにみんな自分や他人に「死」を重ねあわせて見てるのか。
あまり意識的に把握できないか、つかんでは逃げていくタイプの感情として
「死」を重ねるものがあるのかなあなんて客観的に考えてみる。
自分はどうだろう、たしかに日によっては「死」を多く日常に重ねて見る日もある…。

にくたらしいことを言う友人にむかって胸の内で「こいつ、死ね!」と思うときもあれば、
もっと軽く、熱い風呂にはいったときに「あっつ!!死ぬ!!」とやるときもある。
それだけ、「死」のイメージというか言葉というかは身近で、
へんな言い方だけれどカジュアルなものなのかもしれない。

それだけ「死」に捉われているのは、
死の強迫観念なのかもしれない。
自分が死んだり近しい人が死ぬのが怖いし、
どれだけ苦しくて痛いのかもわからないし、ましてや最期だし。
「死」になれようとするから、
つまり「死ならし」のために日常の裏にいっぱい「死」への契機があるのかもしれない。

そんなところにまで考えが及んでいくような小説でした。
全章に通して出てくる、すなわち串刺しになっている味付けの猫の鳴き声の伏線などが、
不思議な感じで意味合いとしてわからないからぱーっと解放されるような感覚があって、
そういうのはわりと好きです。
ぼくがそういうのを書くとしたら、意味はあるんだけれど、
書き終わって時間が経つと忘れてしまう類のネタだと思う。

まあ、ぼくはいいです。

そういうわけで、年100冊の読書目標を達成しました。
ぼくの今の環境で100冊くらい読むと、ちょっと読み散らかすみたいな感覚もあります。
もうちょっと穏やかに暮せていたらそういうこともないのですけども。
また、フルタイムで働きだしたりしたら、もっと読めなくなるでしょう。
それでも、限界突破じゃないけれど、ぼくの読書に使う能力が伸びたとは思います。


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