Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ヒドゥン一九九四』 最終話

2017-10-02 18:00:01 | 自作小説5
 明けたその日の午後、一通の手紙が届いた。差出人は折田みさおとあったが、きっと大道みさおのことだと直観した。住所は夕張市ではなく札幌市だった。林が僕の電話番号を入手したのに続いて、今度は大道が僕の住所を知ったのか。実家に問いあわせた以外に考えられないから、今になって父の対応が軟化し始めて漏れ出ているのだろう。本来なら、そんな最近の父の対応に苛立って文句を言いに電話をかけるのだが、ただ今回に関してだけは自分勝手にありがたく思った。なぜなら、大道と連絡を取りあうのも悪くない気がしたからだ。なにせ、近頃見る夢によく出てくるのだから。大道への親近感を思い出し、懐かしくも温かな気持ちで手紙を読み始めた。


 お元気ですか?
 結婚して「折田」に名字が変わった、大道みさおです。わたしのこと、覚えていてくれてるといいけれど。
 だって君は、高校卒業以来の約二十年間、同窓会に顔を出したこともないじゃない?林君には、君は年賀状のやりとりさえ誰ともしなくなったって聞いています。林君は覚えてる?念のために書くと、生徒会長をやった林君だよ?

 わたしは君と小学生から高校生までいっしょでした。
 小学生のころは、実はけっこう君と話したことがありましたが、覚えていないかな。
 でも、中学に入った頃になると、男子と話をするのが恥ずかしくなってできなくなったんです。純情少女ですね。そんな昔の純情な自分を、今のわたしは抱きしめてあげたくなります。
 わたしの見ていた限り、君も純情少年でした。わたしはずっと君のことを見ていました。君が富川悠香を見ていたのと同じように。
 ……どきっとしたかな?

 わたしは、二十歳の同窓会のとき、思いきって、それまであまり話したことのなかった悠香に話しかけてみました。君がずっと見つめていた富川悠香はどんな女の子なんだろうと興味があったからです。
 もちろん、彼女への嫉妬心もありました。でも、高校を卒業して、君に会えなくなって、嫉妬していてもしょうがなかったのです。それよりも、君の視線を独り占めしていた富川悠香がどんなひとかを知りたかった。

 悠香は、大人しそうな見た目そのままに人見知りで、でも、他人に圧力を感じさせないやわらかい雰囲気をもつ女の子でしたよね。ちょっと話をしただけで、わたしは悠香を好きになったし、彼女もわたしを気に入ってくれて、それからというもの、電話やメールをするようになり、二人で映画を見にいったり、温泉宿へいったりしました。意気投合しちゃったんですね。
 あの頃は、二人とも札幌に住んでいました。悠香は大学の看護科に通っていました。わたしは事務の仕事をしながら、社会保険労務士の勉強をしたり行政書士の勉強をしたり、とにかくなにか資格を取ろうと躍起になっていました。

 大学を卒業した悠香は、札幌市内の病院で看護師になりました。はたから見ていても、真面目に仕事に取り組んでいるように見えました。でも、四年くらいで、夜勤などの勤務体系や人間関係に疲れてしまったようでした。
 彼女の身体は、強いと言えるほどではなかった。むしろ、やっと普通と言えるくらいだった。
 ある日、久しぶりに悠香とお茶していると、「夕張に帰ろうと思ってるの」と打ち明けられました。実家の病院の手伝いをすると言うのです。もうその頃には、悠香と私はともに仕事が忙しく、なかなか遊んだりできなかった。だから、札幌と夕張に離れても、それほど変わらないのではないか。というより、もしかすると、悠香の仕事が楽になる分、週末には時間の都合がよくなって、これまでよりも会うことができやすくなるのではないか。札幌と夕張は車で一時間半ちょっとくらいの距離だし。楽観的なそんな考えを悠香に言えば、悠香も「そうだよね」と微笑んでくれました。

 その後、実家で働く悠香はみるみる元気を取り戻していきました。血色もよくなったし、頬もふっくらとしました。まるで、高校生の富川悠香に戻ったみたいでした。
 夕張に戻った悠香と、君の話をしたことがあります。いったい悠香は、ひっそりと自分を見つめ続けていた君のことをどう思っていたのだろうと知りたかったから、わたしから話題をふりました。わたしはずるく立ちまわって、わたしが君を見つめ続けていたことは伏せておきました。そうじゃないと、過敏な悠香のことだから、なにか言葉を濁し始めるかもしれなかったから。
 悠香は、君をはっきりと覚えていました。なんと、君のことが好きだった、とまで照れながら告白しました。
 わたしはびっくりして、
「悠香はいつも一緒に駅まで歩いて帰っていた佐藤君とつきあっていたんじゃなかった?」と訊きました。
 悠香が言うには、佐藤君には告白されたことがあったけれどそれは断って、あくまで友だち付きあいでいてください、と強くお願いして、佐藤君もそうしたのだそうです。お互いの家に行ったり来たりしたこともなかったそうです。

 驚いたでしょう?

 君はわかったかな?言い寄られても撥ねのけた悠香のこころに誰がいたのかを。

 今回、手紙を書いたのは、このことが言いたかったからではありません。これらのことは、いわば、前談なんです。でも、この長い前談までを含めて伝えないといけない。それが悠香のためなんだ、とわたしは考えたから。

 悠香は一年ちょっと前くらいから身体を壊しました。さきほど書いたとおり、彼女の身体は強くないのです。とくに寒さは堪えるみたいでした。
 そして、今月にはいって、急激に加減が悪くなっていきました。それは、あっけにとられるくらいすぐにでした。悠香の意識がなくなったと悠香のお母さんから電話をもらい、入院していた札幌の病院に駆け付けたときには、もう逝ってしまったあとだった。
 亡くなる直前にはうっすらと意識が戻って、見守る両親を眺めてわずかに微笑んで安らかに逝ったそうです。わたしが見た悠香の顔も、やせ細ってはいたけれど、とても穏やかでした。

 これが、君に伝えたかった話です。
 君には受けとめてほしい。
 できれば、悠香の実家に行って悠香のために線香をあげてほしいくらいです。ひとりで行きにくければ、わたしが付き添います。私の番号は090-xxxx-xxxxです。

 もしも、今の君に、昔の君の名残があるなら。

 それじゃ、考えてみてください。

 折田みさお(大道みさお)


 僕は嗚咽していた。
 わななく手で握りしめた手紙。高校生の頃の僕は、情けなくて、間が悪くて、見るべきものが何もかも見えていない最低の人間だった。それどころか、二十年経った今の僕も、ほとんど最低な人間のままだった。
 とどまることなく涙が溢れ、洟やよだれまでたらし、膝から床に崩れ落ちて泣きつづけた。

 気分が優れなかった。夜半過ぎても寝つけず、ベッドにうずくまっていた。後悔の念が、つよく、つよく僕を責め立てた。
 もしも、富川と僕がうまくいっていたとしたら、今の現実とは違う現実の中にいたはずだ。可能性としてあった別次元の現実も、大道の手紙を読んだあとならば、たんなる夢想以上の、選び損なった、手の届くところにあった現実のように思えてくる。
 そのパラレルワールドでは、僕が今歩く世界とはなんらかの運命の変化による大きな違いだってあっただろう。僕と富川が触れあう時間を持つことで、富川が若くして病に倒れる運命だって変わったかもしれない。
 僕が選びとったのは、外れくじのほうの世界。結果として、誰も幸せにしない、愛がひからびていく生活を送るほうの未来を選択した。
 気がつけば、虚無感が僕を取り囲んでいた。濃い霧のように遠回しな毒。そもそもの始まりも、虚無感からだった。虚無感に対して、ほとんど抵抗もせず、打破する方法を考えもせず、それにどろりと浸かってきた。僕は自分の生活を、虚無感に蝕まれるままにぼんやりと遂行していく技術だけを覚えていった。虚無感と妥協してだした答えしかなかった。
 こうして虚無感の霧の奥まで見通していくと、突然、言いきれないほどの腹立たしさが湧き起こってきた。感情にかられるまま勢いよく身体を起こしてテーブルを脚でひっくり返す。湯呑茶碗や急須が割れ、破片が台所まで飛び散っていった。CDラックを床に倒して、何枚ものCDがケースから飛び出して床に転がった。なかには砕けたものもあった。虚無感の膜を突き破ってまでとめどなくこころに噴きだす怒りを抑え、身体を震えさせながら、僕はその場に立ちつくした。
 こんなことをしたってなにも始まらないし、なにも変わりもしない。だからといって、諦めたくない。諦めることは、虚無感に屈することだ。ベッドに戻り、ゆっくりと、これまでみてきた一九九四年の夢を振り返る。夢の中身の半分くらいは忘れかけているけれど、地下繁華街のことや、空中遊泳のことははっきり覚えている。そして、駅へと歩く富川のことも。彼女の隣は佐藤ではなく、僕であるべきだったのだ。
 目を閉じて、また夢の中身を反芻する。何度も何度も富川を想いうかべるが、その顔だけがよく見えない。
「今回が最後だからな」鍋島先輩がやさしく僕の肩を叩いた。地下繁華街の中央通路にいる。大道みさおもいた。
「あの、大道……」声が小さくなってしまった。大道は無言でこちらを振り向く。
「ありがとうな。ほんとうにありがとう」頭を下げ、気持ちを込めてそう言った。
「なあによっ!」と大道は手で僕を叩く仕草をし、はじめ驚くように笑っていたが、そのうち顔を手で覆い洟をすすり始め、ついにはしゃくりあげるのだった。
 鍋島先輩がそんな大道へと歩み寄っていって、何か小声でささやく。大道はうんうんと頷いていたかと思うと顔を覆う手を離し、その表情は八の字に眉を下げながらも笑顔だった。
 鍋島先輩が「ちょっと落ち着こう。またそこの食堂に入ろう」と誘うので、三人でのれんをくぐった。テーブル席に着き、なにか飲み物でもと考えていると、店員の女が手に水を持ってやってくる。
「いらっしゃい」明るい声だった。それも、聞き覚えのある声だ。おもむろに店員の女の顔を見れば、やはり知っているという覚えがある。歳は四十くらいで、髪を頭の上に結い、花柄のワンピースにエプロン姿だった。その恰好にすら、強い既視感があって、あっ、とこころの中で小さく叫んだ。母だった。若くて、まだ健康な頃の。
「ここ、よく見つけたね」と母が言うので、この店のことか、地下繁華街のことか、とわからずにいると
「そうじゃないの、ここのこと。ここまるごとのことよ」と教えてくれた。
「母さん。母さんがこんなところで働いていたなんて、全然知らなかった」
「まあね。ベテランってほどじゃないけど、まあまあ長いのよ」
「そうなんだ。元気そう……」そこまで言うと、鼻の奥がきゅうと痛んで声が出なくなった。目にはいつもより多くの水分が潤ってきている。
「あんたも元気にやってるね。そうだ、今日はね、メロンがあるから食べていきなさい」
 てきぱきと家事をこなしていた昔の母そのままだった。話し方だって、ちょっと早口だった昔のままだった。
 鍋島先輩と大道は、メロンが食べられると聞いて、やったー!とばんざいしている。
 すぐに、四分の一サイズにカットされたメロンを大きなお盆に三皿のせた母が戻ってきた。
「どう?いいメロンでしょう?〝秀〟だよ、〝秀〟」〝秀〟に格付けされた極上の夕張メロンのオレンジ色の果肉が輝いて見えた。
「わあ、おいしそうだね」向かいの大道がスプーンを手に、早く食べたそうにもじもじしている。
「さあみんな、食べなさい」母がそう言うと、僕ら三人はいただきます、と挨拶をして食べ始めた。柔らかくてとても甘い。おいしい。
「母さんね、あんたが自分の進みたい道を、しっかり歩く姿をずっと見ていたかったの。いろいろとね、思うようにならないときって人生にはあるものなんだけど、そういうときにもめげないで、また立ちあがって前をむいてくれるひとになってくれたらなあ、ってあんたを育ててきたんだよ。もしもね、母さんがあんたの足手まといになって、母さんに関わると前を向けないようなことになったら、迷わずあんたは自分の道を行きなさい。母さんはあんたの世話になるためにあんたを産んだんじゃないんだからね。それでも、母さんは幸せなんだから」
「ありがとう、母さん。感謝してるよ」それだけ応えるのがやっとだった。
 母さんに会えて嬉しかったよ、これだけはどうしても恥ずかしくて言えなくて、涙をこらえつつ味わうメロンの味が、よくわからなくなった。

 母さんにさよならを言い、母さんからは「しっかりね」と背中を押され、地下繁華街から地上に出た。
「ここからはもう付いていってやれないんだよ。しっかりな!」鍋島先輩が喝を入れてくる。
「がんばって」大道も、弾ける笑顔で手を振ってくれた。
 これから僕が成すべきことはもうひとつしかない。ひたすらに信じて高校へと歩いた。
 校門に人影があり、近づくと富川がひとりきりで立っているのがわかった。僕は声をかける。勇気など要らなかった。
 富川は幾分上目遣いに、警戒したような視線を僕に向けた。
「きみと話がしたいんだ。駅までいっしょに歩かないかな。というか、いっしょに歩いてほしい。お願い」
 彼女は意外そうな表情を浮かべて、でも、「うん、いいよ。ちょうど帰るところだったから」と頷いた。
 僕は富川悠香と並んで学校の敷地を出た。どこから話そう、どこまで話せばいいのだろう、やっと二人きりになっても、なめらかにはいかない。
「一年生のときに、同じクラスだったよね?覚えてる?君に数学の問題の解き方を訊かれたことがあったんだ。二次関数のグラフの書き方だった。その問題が片付いてから、君とちょっと話をした。他愛のない雑談だったんだけど、僕は嬉しかったんだよ」
「わたしも覚えてる。あなた、須藤先生のちょっとした悪口を言ったでしょ、もう」
 富川にあのときのおどけた僕の印象は良くなかったのかなあと不安になって彼女の顔をのぞきこむと、可笑しそうに頬を緩めていた。その微笑みが愛くるしかった。
 そのときの僕は、これが夢であることを承知していた。だけれど同時に、一連の一九九四年の夢はふつうの夢ではないことも理解していた。これらの夢のなかには、一九九四年に隠してきたもの、隠されてきた多くのものが、その長い隠ぺい期間から解き放たれて表に出てきたように僕には思えた。さらに不思議ではあるけれど、三十九歳の僕が生きる現実と密接にリンクしていると感じていた。こうして夢を生きるうちに、現実の僕のなかでなにかが秘密裏に進行していく。僕のなかに知らないなにかが築き上げられていく。それは予感に似ていたけれど、確信だった。
 富川とこうやって肩を並べて歩いていると、隣で彼女のたおやかさをひしひしと感じた。彼女はしっとりとしてほんのり甘い空気をまとっている。その瞳は幽かな憂いを帯びていてきれいだった。肩までの黒い髪を素直に褒めると、彼女は何も言わずうつむいて頬を赤らめた。
 今しかなかった。この夢しかなかった。富川に正直な気持ちを打ち明けるのは、この機会しかなかった。
「あのさ、急に変なことを言うけどさ、僕ってね、ずるい人間なんだよ。思いあがって言うわけじゃないんだけど、僕はそんな僕のずるさで君を翻弄してきたと思うんだ。すごく迷惑だったと思う。今、謝っても、謝りきれなくて」
 彼女は僕を振り向き、「そんなことない」とすべてをわかっていたと思わせる口調で言った。
「わたしこそ、あなたを苦しめたりしていないか、心配していたよ。一歩踏み込めばいいんだと思っても、そうできなくて。ごめんなさい。あなたの人生を狂わせてしまったかもしれない」彼女はそこまで言うと涙を零した。
「僕に必要だったのは、虚ろさに打ち勝つことだったんだよ。そうしないで、情けなくて弱っちい自分であり続けたことが、さらに虚ろさを呼んでしまったんだ。君のせいなんかじゃない」
「ううん、たとえそうだとしても、わたしならあなたを助けられたかもしれないのに……」彼女は左手のひとさし指で涙をぬぐった。
「僕こそ、君を救えたかもしれなかった……」夕焼けの陽射しが僕ら二人を焦がす。僕の頬は熱く、きっと彼女の頬も熱かったはずだ。
 僕は弁明や謝罪だけをしたかったわけじゃない。でも彼女も、僕の言葉が引き金となって胸の裡にあった悔いる気持ちを吐露してしまい、結果、状況は硬直してそこから進まない。この状況下でいやというほどわかったのは、僕と彼女は、ほとんど同じことで苦しんできたのかということ。僕は僕で、彼女は彼女で、振り切ったようでいて、こころを一九九四年に隠したまま、取り忘れてきたのだ。
 僕らはもう駅舎の近くに到着してその入り口が見える交差点の歩道に立ち止まったままどうすることもできないでいた。
「あのさ」やっとのことで声をかける。彼女は潤んだままの瞳をこちらへ向ける。
「いろいろ言ったあとでこんなことを言っても、しらけるだけかもしれないけど」
 覚悟を決める。大道からの手紙で、彼女と僕とは両想いであった事実を知ったのだから、まるで後出しじゃんけんのようで情けなかったのだけれど、それでもこれを言わなきゃ、後悔する。いや、後悔だなんて、それだって軽すぎる。逃げる気持ちなんか微塵もなかった。絶対に全うしなければならない筋書きがあって、いまそれを遂げる。迷うことのない100%の確かさで、僕は言った。
「二年になってクラスが変わって、それで気づいたんだ。過去形じゃなく、今現在そして、これからもずっと、君が好きです。富川悠香、君を愛してる」
 僕は嘘いつわりのない気持ちそのものだった。
 濡れた瞳を、一瞬大きく見開いた彼女は
「わたしも、あなたが好きです。ありがとう」と左目から再び涙を一筋流して応えた。
 やっと、果たせた。胸がいっぱいだった。僕は両手でやさしく彼女を抱きしめた。包み込むように、そしてこのまま彼女が消えてしまうことのないように抱きとめていた。……まだ、消え去らないでほしい。
「わたし、すごく幸せよ……」僕の胸に顔を埋める彼女がつぶやいた。
「……富川」名前を呼ばれて富川悠香は顔をあげてこちらを見る。その唇に、僕はキスした。
 柔らかな唇は、拒む素振りをすこしもうかがわせることなく、それどころか僕を求めていた。僕らはずっと唇を重ねあった。とても幸福で、時が溶けていく気分だった。永遠に、今が続いてほしかった。
 それから長い時間が経ち、僕らは唇をほどいた。
 理不尽にもいつしかあたりには夕闇が落ちてしまい彼女の顔がはっきりとは見えなくなっていた。ようやくこの瞬間、僕と富川につながりが生まれたっていうのに。それも夢や現実をも超えたつながりだっていうのに。彼女は微笑んでいるのか、泣いているのか、まるでわからない。僕から離れた彼女は、「帰らなきゃ。汽車が来ちゃう」と明るく言ったが、寂しげでもあった。
 彼女は横断歩道を渡って、駅舎の入り口で立ち止まり僕を見た。
「さよなら」手を振った。
「さよなら」僕も大きく手を振った。
 さよなら、富川悠香。

 目覚めると涙に濡れていた。胸が苦しかったけれど、それでもどこか清浄な気分だった。覚悟は決まっていた。僕は地元に帰る決意をしていた。

 家族三人が久しぶりに実家にそろって、紅白歌合戦を見ていた。昨日、横浜から帰ってきて、今日は午後から買いだしに行ったり大掃除を手伝ったりした。
「それでさ、メロンなんか出してくれたんだよ。〝秀〟だよ!って母さん言ってさあ。旨かったなあ」茶の間に笑いの温かな波紋が広がる。
 僕は何度も続けてみていた夢の話の一部を、母にしていた。
「メロン食べたいねえ。ねえ、買っておいでよぉ」母の言うことは冗談なのか本気なのかよくわからない。
「来年の夏になったらな。みんなで食べよう。しかし〝秀〟はちょっと高いかな。ははは」上機嫌の父が口をはさんだ。
 富川悠香の実家には、年が明けてから行こうと思っている。大道みさおと一緒に行く約束をした。仏前で富川になにを言おう。できればすべてを語りたいくらいだった。いや、でも、天国へ旅立っていった富川はもうすべてをわかっているのではないだろうか。あの夢の感触から、そんな気持ちになっていた。
 僕はこうして夕張に戻った。その判断が良いほうに出るか悪いほうに出るかは、今後の僕次第だ。母の介護の助けをしながらだと時間の都合のいい求人はかなり少ない。でも、最初は苦労するだろうけれど、そのうちうまくいくだろう。楽観的すぎるかもしれなくても、大丈夫、僕はだいぶ強くなったから。
 テレビでは紅白初出場を決めたリバルブ・ラブがステージに立っているところだった。
「この間、彼女たちの記事を書いたんだよ。ライブを見てさ。僕の最後の仕事で、最高の仕事になったんだよ」
 ほう、ほう、どれどれ、と父も母も感心して画面に集中しだした。ちょうどグループ最大のヒット曲『ヒドゥンプレイス』のサビが始まった。


 Ah かけがえのない 君の名を呼ぶ
 僕を待つ場所 hidden place
 I love you も I need you も言えなかった
 いまはずっと I miss you

 Ah 夢の果てに 僕の名を呼ぶ
 君が待つ場所 hidden place
 さよなら 虹色の世界には
 帰れないの? I don't wanna go

 僕ら お互いに あの隠れ処で わかりあった
 あの気持ちを 決して忘れない


 その夜は遅くまで僕たち家族は語らいあった。
 あくる日の元日、まだ解いていないダンボールを片付け始める。本ばかりだった。そういえば、あの時計がまだでてこない。ひと月ほど前にリサイクルショップで買ったばかりの、人型蛙人形が片手をあげて時報代わりをするあの置時計だ。それは、何箱目かのダンボールの中身の一番上に乗っかっていた。ガムテープをびりびりとはがして浮き上がったふたのなかにその影が見えたのだ。あの人型蛙、夢の中にまで出てきたなあ、存在感のあるヤツだからな、とちょっと愉快な気分になって、ふたを全開にする。すると人型蛙人形の姿はなく、ただの置時計だけがあった。取れちゃったか、とそれからダンボールの中を隅から隅までひっかきまわしても、見つからなかった。
 あの人型蛙人形は忽然と消えていなくなってしまっていた。他の箱も含め、夕方まで何度も探しまわったけれど、結局、ヤツは出てこなかった。


【終】
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