Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

はみだした絵の具---ことばの限界について

2017-10-26 23:01:55 | 考えの切れ端
ことばとは、そんなに万能なものなのでしょうか?
ことばですべてがまかなえるのでしょうか?

ちょっと、そうではないなと思えるので、
そのあたりについて、考えてみます。

ことばを使用することで、
人の「輪郭」が浮かびあがってくる。

語彙の豊富な人の「輪郭」があり、
言葉が苦手な人の「輪郭」がある。
そして、それぞれに、
「輪郭」を眺めてその人や自分を知ったようになり、安心する。
でも、待て。
よく見りゃ、その輪郭からずいぶん絵の具がはみでているじゃないか。
無視しがちなそこも見ていこうじゃないか。

ことばって、
区画整理、分節作業、そういう性格があって、
ことばにすることで、
もともとのまるごとのものごとから
漏れてしまうものってでてきますよね。
ことば以外のところをも意識したり、
無いことにしたりしないことで、
なんかよくわかんないけど展開・運命が変わり
豊かになることはあります。

そういう、「よくわかんないけど」の部分を、
なんとかしてことばに変換していこうと地道な努力を重ねて、
ことばの範疇を拡げていこうとする道もあれば、
「よくわかんないけど」をよくわかんないままとらえて、
ことば以外でなんとかできちゃう力をあげていく道があるでしょう?

前者の、ことばの範疇を拡げる道は、
よりはっきりした「輪郭」を、
もっと大きくしていこうという道です。
後者の、ことば以外でなんとかしちゃう力をあげる道は、
「輪郭」からはみでた絵の具の部分を大事にして、
絵の具の色を変えたり濃くしたり、
もっとはみださせたりしていく道です。

論理性重視の人は、後者の道では足がすくむでしょうし、
感覚性みたいなものを重視する人は、前者の道がまだろっこしいでしょう。
……と、いま、感覚性みたいなって言いましたが、
後者には、勘のような、直観に導かれるような、
そんな感じがあると思います。
もちろん、偶然性だって含まれていると思う。

はたして、人生がおもしろくなるのは、
「輪郭」を墨守していく意識なのか、
それとも、
「輪郭」からはみでた絵の具を大事にする意識なのか。

いわゆる超能力のイメージに近く見える種類の、
つまり、よくわかんないけどなんとかしちゃうという
絵の具の部分については、これ以上深入りせずに話を進めます。
ちょっとややこしいし、論理がこんがらかる恐れがあるからです。
ここからは、感受する部分を中心に、
絵の具の部分について考えていきます。

たとえば、
風が触れた感覚、花の匂い、猫の甘える鳴き声、甘味や塩気、夕焼けの色。
ことばにするとこぼれおちてしまう、
五感で感じる生鮮なモノってありますよね。
それも、いまあげたものはすべて、ライブな感覚です。
でもって「輪郭」からはみでていますよね。

たとえば、
わかりあえたときの気持ち、彼氏・彼女と笑いあったとき、悲しみ、寂しみ。
それらだって、やっぱりライブな感覚のもので、
「輪郭」からはみでている絵の具でしょう?

ことばは、便利です。
合理的です。
いろいろと端折って楽にする。
それは、ものごとの骨の部分であり、
別の角度からの言い方をすると、
やっぱり、「輪郭」ですね。
「輪郭」はものの影とでも言えるかもしれない。
肉がついてこそ、生き生きとした生命感のある、
影ではない実体になる。
それでもって、絵の具は、見方を変えれば肉でもあるんです。

そしてまた、ことばというものはライブな感覚ではないです。
プロの小説家は、ライブではない「ことば」を使って、
読み手のライブな感覚の記憶にうったえ、
それを利用しつつ、
フィクションに生々しさを宿らせることをする。
つまり、ライブな感覚のものではないツール(ことば)で、
ライブな感覚か、それに近いものを創ります。
読み手は、そういった生のモノを欲するから、
そうするんですよね。

そこまで考えが進めば、わかってきます。

出だしに書いた、
>ことばとは、そんなに万能なものなのでしょうか?
>ことばですべてがまかなえるのでしょうか?
は、まったくそうではない、となります。

ことばとは簡便さのための表現であり、
簡略化したことで、
論理が組み立てやすくなったり、
情報などを伝達しやすくなったのが、
その、すごいところ。

でも、すごいや!すごいや!と
そのすごさばかりに気をとられていると、
「輪郭」しか見えないようになってしまって、
それじゃあ、人生、おもしろくないし、
丸ごとを見ていないということで、
きっと、判断もアイデアも間違ってしまいます。
それは困りますよね。

だけれど、一方で、「輪郭」に捉われてしまうのは、
実は絵の具部分のけた違いの情報量から身を守る、
フィルター効果というものがあるとも思うのです。
情報量の多さや濃さの荒波にのみ込まれないために、です。

結局は使い分けなんでしょう。
あるいはどのくらいの比率で意識するか。
「輪郭」を見て生きていく道は安全かもしれない。
絵の具しか見ないような道はリスクが高いのかもしれない。

では、リスクを嫌い、極端な安全の姿勢をとって、
はみでた絵の具を見ないことにしますか?
いやいや、リスクはあっても、はみでた絵の具があることを
忘れないでいるスタンスって大切だろう、とぼくは思うのです。
この場合の、リスクをとらない生き方が、
ほんとうに幸せな生きかたでしょうか。
そのあたり、じっくり考えてみるのって、
とても大事なことなのではないでしょうか。

たぶん、このあたりの考察をすることで、
寛容さや他者への敬意を持つこと、
互恵関係がどんなかたちになっているかを感じること、
そして、生きずらさを解消する方向へ進むことに
つながっていくような気がします。

というわけで、本日はここまで。
長めの文章、読んで下さりありがとうございます。

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