Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『きみの家へ、遊びにいくよ。』 後編

2017-10-08 18:00:02 | 自作小説6
 早く楽しみな朝を迎えたいからもう寝てしまおうと布団に入ったのだが、リョウスケはやはりというべきか、なかなか寝付けない。
 モトヤ君が明日うちへ来ることのインパクトは、遠足や運動会の前夜のように気持ちも身体もふつふつと興奮させるくらいだった。血液が、酸素や栄養素といっしょに興奮まで体中にばらまき続けていた。
 最後に時計を見たのは午前二時過ぎで、それからほどなくして、ようやくリョウスケは眠りに落ちた。だから、いつもならばお母さんが起床する六時半にリョウスケも自然といっしょに起きるところを、お母さんが出勤する三十分前の七時半にお母さんから起こされるまで起きられず、寝坊してしまった。
「いい?モトヤ君はお昼くらいに着くようだから、そしたらさっき作っておいたチャーハンと昨日のコロッケをチンしていっしょに食べなさい。帰りのこともあるからあんまり長くはうちにいられないだろうけど、あんまり遅くなるようだったら、うちに泊っていってもらうよういいなさい」お母さんがここまでいってくれるのは初めてだった。というより、こういう状況が初めてだったから、こんなにお母さんの懐が深いなんてことは知りもしなかった、お母さんはいつだってやさしいのだけれど。
 いつも、リョウスケのほうから遠慮して、自分の融通を通そうとしないことが多かった。お母さんが週に六日フルタイムで働きながら、家事をこなし、自分の面倒をみてくれているのに、わがままなどいえなかったからだ。
「うん、ありがとう」リョウスケが幸せそうな顔をしてそういうと、お母さんはにっこりして彼の頭を撫でた。そして、八時過ぎに送迎バスに乗って工場へと向かっていった。
 家にひとりになったリョウスケは、あまりの自分の落ち着かない気分を前にして、落ちつけ、落ちつけ、と心の裡で自分を諭した。しかし、何の効果も得られない。お母さんにいわれたお昼ごはんを冷蔵庫の中に確認したり、机の上の整理をし始めたり、靴下やジャージに穴が開いていないか探したりしてしまう。まだモトヤ君が出発する予定の九時前の段階で手持無沙汰になってしまい、またもや昨日と同じように家の中をぐるぐる歩き回り始めた。モトヤ君が来る、自転車で来る、モトヤ君が来る、いっしょにゲームする。
 リョウスケもモトヤ君も、ケータイを持っていなかった。モトヤ君が道中、いまここにいるんだよ、と連絡してくることもないし、リョウスケが家の電話から、そこの坂を越えたらもう大きな坂がないから安心して、と励ますこともできなかった。
 そのかわり、リョウスケは、揺るぎなく、モトヤ君を信じた。太くて強靭な、約束の綱が、二人をしっかりつないでいることを無意識に確信していた。絶対に来るんだ、と。
 気がつけば、十時になるころだった。歩きまわっていたリョウスケは、さすがにこれはバカみたいだと思い、ソファに腰かける。急に歩くことを止めてみれば、いつしか呼吸が弾んでいたことがわかった。すこし荒い呼吸で自分の気持ちを確認しつつ、目を閉じて、今度こそ落ちつこう、と思う。モトヤ君は、新しいゲームとそれに対応するゲーム機を持っていくといっていた。モンスターがたくさんでてきて戦って仲間にできるゲームシリーズの最新版だった。
 リョウスケは、中古で買ったモノポリーのTVゲームが大のお気に入りで、モトヤ君にやり方を教えて対戦してみたかった。モノポリーはお母さんとも勝負するのだけれど、お母さんは甘っちょろくて、AIのプレイヤーよりもずっと弱い。ちょっとお母さんに不利な条件で物件のやり取りの交渉をしても、お母さんはその条件を飲んでしまうのだ。これでは、お母さんをダシにして、AIを蹴散らすだけのゲームになってしまうのだった。ときにまるで言葉が通じないかのように交渉に応じなくなるAIを相手にするのではなく、当たり前だけれど人間味のある、人間のプレイヤーたちと、張りのあるほんとうのモノポリーをいつかしてみたい、とリョウスケは願っていた。大丈夫かな、モトヤ君、モノポリーに興味をもってくれるかな。それに、モノポリーをする時間はあるかな。
 こうやって、いろいろ考え始めれば、期待と不安がないまぜだけれど、心苦しくも楽しい。モトヤ君を待っている間に、AI相手に一勝負して暇をつぶそうかな。リョウスケは、一瞬、そう考えたのだけれど、モトヤ君ががんばってペダルを漕いで長い道のりをやってきているのに、自分だけがへらへら遊んでいるのは申し訳ないような気がして、やめた。
 モトヤ君はいまどこだろう。出発から一時間ちょっとだから、まだまだ三分の一もこちらへ近づいていないのではないか。気が揉んだ。でも、待つしかない。
 窓から射しこむ日光が絨毯に陽だまりをつくっていた。それに気がついたリョウスケはなんとなく日光を浴びたくなり外に出て、外気を深く胸に吸い込んだ。秋晴れの快晴で、澄んだおいしい空気だったが、気温はそれほど高くなくて、日陰ではワニの目みたいに空気は冷たかった。
 国道の、学校方面へ下っていく方向を眺める。なだらかな下り坂。車が、一台、二台と走り抜けていき、何もいなくなりしんとしたころにまた一台、二台と下って行ったり上ってきたりする。道端には赤や黄色の落ち葉がふえた。国道を挟む山の木々の中には、もう裸になりかけているものもいる。
 ジャージ姿だったリョウスケは寒さでみるみる身体がこわばり、縮こまるような恰好になっていた。息が白くなるほどではなかったが、冴えた寒気はすうっとジャージの生地を通りぬけて肌に達してくる。
「さむさむさむさむ……」早口で呟いて、リョウスケは駆け足で家に戻った。思っていたよりずっと寒いな、モトヤ君は大変だぞ。お昼までにもっと気温が上がるといいんだけどなあ。ずずずと音を鳴らして洟をかみながらリョウスケはモトヤ君を慮るのだった。
 何をするでもなくモトヤ君を待ち続け、眺める時計の針は十二時を指した。出発から三時間経った予定時刻になった今もモトヤ君は到着しない。
 モトヤ君の家からリョウスケの家に来る道のりは上り坂が多い。きっと予想よりもハードな道のりになっているのだろう。自転車を降り、歩いて坂を上りながらこちらへ向かって、時間がかかっているのかもしれないし、バテてしまい何度も休憩しているのかもしれない。モトヤ君がケータイを持っていないのが実に残念だった。今、どこ?大丈夫疲れてない?ゆっくりでいいから頑張って!かけたい言葉が鮮明に浮かんでいた。
 リョウスケはでも、モトヤ君がまもなく到着する可能性も十分あるからと、お昼ごはんは食べずに待つことにした。せっかくなんだからいっしょに食べたい。モトヤ君だって、お腹をすかせながらこっちに向かってるんだ。自分だけ食べてしまうなんてできないよ。リョウスケは、冷蔵庫のコロッケが大好きだからって、その誘惑に負けたりはしなかった。モトヤ君もコロッケ好きかなあ?好きだといいなあ。お母さんのコロッケ、最高だから。あくまでいっしょに食べるんだ。その予定は崩れなかった。
 十二時半頃に電話が鳴った。お母さんが職場からかけてきたのだ。
「モトヤ君は着いた?」
「まだだよ」
「そう。大丈夫かしらね」
「上り坂が多いから、時間がかかってるんだよ」
「そうかもしれないね。あとでまた休憩のときに電話するから」
「うん、わかったよ」電話は切れた。
 そうだよなあ、お母さんも心配してるよなあ。もともと反対してたんだし。きっと一時までには着くよ。そうだよ、来るさ。
 しかし、一時になっても、モトヤ君はあらわれなかった。到着時間がどんどん遅れていくにつれて、リョウスケの期待も少しずつしぼみ始める。どんどん遊ぶ時間が減っていくからだ。
 モノポリーが無理だったら、モトヤ君のゲームを見せてもらって終わりになるかもしれない、と予定の修正を自然と始めていた。
 そして一時半になる。どうにも遅すぎる。いや、小学四年生の自転車ならまだ到着しなくても不思議じゃない。リョウスケの考えはせめぎ合いを始めていた。一時間以上前から、そろそろ着いてもおかしくないな、と構えていたのだ。それがとうとうぐらんぐらん揺れだしている。そのうち、ふと、ある思いが胸をよぎった。モトヤ君は、途中でくじけて引き返しているのではないか、と。20kmの道のりは無理だったのではないか、と。
 もはやリョウスケの期待感のほうがくじけてきていた。そわそわ、居ても立ってもいられなくなり、朝みたいに家の中をまたぐるぐる歩きまわりはじめるのだった。
 二時を回った頃、また電話が鳴った。お母さんかな、それとも引き返したモトヤ君から〝ごめん〟の電話かな。受話器を取ると、聞きなれた女の子の声がした。
「リョウスケ、何してた?」
「別に何も。アスミちゃんは?」
「わたしも何も。今日はずっと家にいるのよね」
 土曜日や日曜日には、たまにアスミちゃんが電話をくれる。リョウスケはたいてい家にいたし、なかなか暇だったりするんだ、とアスミちゃんに話していたから、四年生から六年生までの複式学級にリョウスケがあがって間もない今年のゴールデンウィークのとある日から電話をくれるようになった。
「リョウスケ、こないだ見てた図鑑、おもしろそうだったね」
 リョウスケは一昨日図書室で、恐竜や太古の絶滅した生きもの、それも造形のおもしろいタイプの生きものを紹介する図鑑を読んで夢中になっていたのだった。
「すんごいのがいたよ。口から剣が生えてるサーベルタイガーなんて強そうでとくにおもしろかったよ。あんなのが今も生きてたら怖くてしょうがないよね」
「あの本さ、ちらっと見えたんだけど、強そうですごく大きくて気持ちの悪い感じの虫も載ってたでしょ。絶滅した昔の生きものって、今のふつうの生きものと違って危険の度合いっていうのかな、そんなのが強いように感じてわたしは好きだな。ぞくぞくする。リョウスケは二回目になるだろうけど、来週、またいっしょに読んでみようよ」
「うん、いいよ。こないだ全部読み終わったわけじゃないしね」リョウスケは続けて、「話は変わるけど」とモトヤ君を待っていることをアスミちゃんに教えた。
「えっ?リョウスケの家、遠いじゃない。誰かに送ってもらうの?」
「いや、自転車で来てくれるんだよ。ほんとうは十二時到着予定だったんだけど、まだ着いてなくてさ、ちょっと心配なんだよ。もしかすると引き返しているかもしれない」
 そこで、アスミちゃんはしばらく沈黙した。どうしたのかな、とリョウスケは「アスミちゃん?」と問いかけると、
「このあいだ、クマがでたっていうの」落ちついた声が不穏な内容を語りはじめた。「雪が積もる前の時期、だんだん寒くなって紅葉が進んでいくと、クマたちは冬眠のために食いだめをするようになるのよ。シカを襲って食べたりもするけれど、いつもはクワの実やどんぐりなんかを食べているのよ。だけど、今年はどんぐりが不作でクマが人間の住んでいる区域までよく下りてきているってニュースでやってたの。それでね、やっぱりこのあいだ、農家のひとが国道付近でクマをみて役所に届け出を出したようなの」
 リョウスケだってこの街に長く住んでいるのだから、クマについての知識はすこしはあった。それでも、急に汗ばむのを感じながら、
「でも、クマって朝早くだとか夕方だとか、出てくるときって太陽の高い時間帯じゃないっていうよ?」と反論する。
 アスミちゃんは負けない。
「お腹をすかせたクマは、時間帯なんて気にしないの!」
 そのとき、電話のアスミちゃんの後ろから
「アスミ、誰と何を話してるの?」という大人の女のひとの早口でしゃべる声がして、
「あ、ママ、リョウスケだよ、なんでもな……」とアスミちゃんの答える声が途切れ、それから
「なんでもなくないでしょ!ちょっと代わりなさい。あ、リョウスケくん?いつもアスミと遊んでくれてありがとうね。アスミのママです。なんだかアスミがへんなことをいっていたようだけど、気にしないでね。アスミはたまにひと怖がらせる癖があるのよ。ちゃんといっておくから、本当にごめんなさいね。またアスミと仲良くしてあげてね、それじゃ、お母さんにもよろしくね」と一方的に話をされて電話は切れたのだったが、アスミちゃんのママの話した内容などリョウスケの耳には残っていなかった。
 リョウスケの頭の中は、クマでいっぱいだった。国道にクマがでただって?今だって、道路脇からクマが躍り出てもおかしくはないのだろうか……。
「ヤバイ」受話器を握った手が冷たくなっていた。
 いつものアスミちゃんの決め台詞である「だから、気をつけなさい」で締めくくられなかったせいもあって、リョウスケは呪縛にかかったままになっている。それから、ばくばくと心臓が高鳴りはじめた。
 リョウスケは、なんだかよくわからないけれど、とにかく外に出ようと、いつの間にかこわばってしまいうまく動いてくれない足をやっと動かして玄関に行く。すると、救急車がけたたましいサイレンを鳴らしてすごいスピードで家の前を走りぬけた。そして、救急車とクマがリョウスケの頭の中でひとつにつながっていくのだった。
 転びそうになりながらなんとか靴を履いて外に出た。生きた心地なんかしなかった。玄関先の石段に腰かけて、リョウスケは両膝の間の地面を眺めるように顔を落とした姿勢で、祈った。もしも、モトヤ君がクマに襲われて大けがをして、そこに救急車が駆けつけに行ったのだとしたら……。
 クマじゃなくても、交通事故だって有りうるじゃないか。どうしてぼくは、モトヤ君に遊びに行っていいかといわれたときに危ないからだめだと断れなかったのだろう。20kmの道のりだって、自分が自転車でいくんじゃないから、つまり他人のことだからって、深く考えもせずに大丈夫だろうとたかをくくってしまった。いや、それどころか、どうしても遊びたくて、その欲目に負けて、モトヤ君の命の危険など考えていなかったのだ。ぼくは馬鹿だ、ほんとうに馬鹿だ、と、自分を責めた。そして、モトヤ君は無事でありますように、と何度も祈るのだった。寂しかったのだ。あまり友だちと遊べず、休日には家にいることが多く、留守番だって多い。遊び相手を渇望していたのだ。近頃、その存在を疑りはじめるようになっていた神様に対してさえ、代わりに自分が不幸になってもいいからモトヤ君の命は助けて、とお願いした。
 そうこうしているうちに、国道の下り側からプーっと大きな警笛が聞こえてきた。何かを避けるようにしてダンプカーが走ってくる。顔をあげたリョウスケに、ママチャリを漕ぐちいさな人影が見えた。うあっ、と声にならない声が出た。急に現実感が薄らぎ、まるで願望をかなえてくれる種類の内容の夢を見ているかのような気分になった。
 あれは、たぶん……モトヤ君だ。いや、モトヤ君という名の英雄に違いない!瞬間、リョウスケはおーい!と大声を張り上げて両手を振っていた。
 英雄が、なだらかな上り坂を、ママチャリを漕いで、若干ふらつきながらも少しずつこちらへ近づいてくる。これはほんとうのことだ。やっとそのときがきたんだ。
 カチリと頭の中で音が鳴りでもしたかのように現実感のスイッチがはいったリョウスケは、自然とその体中に力がみなぎりだして、体育の授業で走るよりもずっと力強く、モトヤ君のほうへと駆け出していく。ダンプカーはリョウスケを避けるようにかわし、ブオーンという音と砂煙をまき散らして走り去っていった。
「モトヤ君!」それ以上の言葉は出てこなかったし、必要なかった。
「リョウスケ君!」しばらく、何度もお互いの名前を叫びあい、二人の距離が縮んでいく。
 モトヤ君は引き返していなかった!クマはただの悪い想像でしかなかった!約束通り、ちゃんとぼくの家へ来てくれた!そういった思いが絡み合い、リョウスケの胸はパンパンにふくらんでいた。
 大声を出さなくても話ができるぐらいの距離になってから、モトヤ君は息を切らしながらいった。
「思ってたより……、大変、だったんだよ。途中で、チェーンが、外れもしたんだ。ごめん……、遅くなって。ゲームは……、持ってきた」
「そうなんだ!無事でよかった!心配してたんだ。早く家に入ろうよ。休んで、休んで。ほら」目を潤ませながら、でも、涙はこぼすまいと必死にこらえるリョウスケだった。
 玄関前に自転車を止めたモトヤ君は、太ももを両手でさすって
「明日は、筋肉痛で、パンパンになりそうだなあ。今でも、なんか変な感じ」と息を整えつつこぼす。
 そりゃ、20kmくらいもがんばったんだもん、すごいよ、などとリョウスケは興奮冷めやらぬ口調で、英雄を讃え続けた。
 モトヤ君は、家に上がると、そのまま、疲れたー、と玄関先にどっしりと腰をおろした。前髪が汗で額にへばり付いている。リョウスケは、モトヤ君が到着してほんとうに嬉しかったのだけれど、もうすぐに遊びたくてうずうずしてしまい、そんなモトヤ君を休ませもせず部屋に連れていこうとする。
「ちょっと、待って。このまま、もう少し休ませて」ほんと、ごめん、と謝っているように苦い笑顔で、モトヤ君は懇願した。
 そこで気がついたリョウスケは、モトヤ君をそのままにして、遅いお昼ごはんの用意を始めた。
「お母さんがさあ、お昼ごはんにってチャーハンを作ってくれてたんだ。モトヤ君のぶんもあるから、落ちついたら食べようよ」
「そうなんだ、うん、ありがとう、でも、もう少し待って。……あのさ、水もらえない?」くたびれたままのモトヤ君が、土間に足をなげだした姿勢でいった。
 リョウスケはモトヤ君が喉をからからにしていることに気が回らなかったことを恥じて、急いでコップに水を汲んで玄関まで持っていった。はい、どうぞ、と喉の渇きに苦しむ英雄に水を渡す。喉を鳴らしてまたたく間に飲みほすその飲みっぷりがまた、事をなした英雄然としていて、眺めるリョウスケはなんだか、うれしくて誇らしい気持ちになるのだった。
 モトヤ君が落ちつくまでにしばらくかかった。リョウスケもいっしょに座ってじっくりと待った。モトヤ君が不意に、
「いま何時かな?」と尋ねた。
「二時五十分」
「もう、そんななのか、だめだ、帰らなきゃなんない」
「えっ、遊んでいけないのかい?」
「これだけ時間がかかったんだから、もう帰らないと帰れなくなる」モトヤ君の目には、すでに先ほどまでとは違う決意の光が宿っている。
「モトヤ君、ねえ、うちに泊ってったら?明日帰るってどう?うちのお母さんもそういってたんだ。あまり遅くなるようだったら泊っていってもらいなさいって」
 モトヤ君はリョウスケの言葉をしっかり聞き、それから一呼吸おいてその言葉をあたまで咀嚼したあとにいった。
「でも、家に母さんひとりになるからね。おれがいたほうが、防犯の意味でも安心なんだ。だから、帰らなきゃ」
 リョウスケは、モトヤ君が小学四年生ながら自分のお母さんを守る意識を持っていることに、自分よりずっと大人なんだなと少なからず驚くとともに尊敬の気持ちを覚えた。
「そっか。それならしょうがないか……。でも、せっかくだから、三十分でも二十分でもいいから、もう少しうちにいて欲しいな。だめかい?」胸に詰まった喜びと期待が、現実の針先であいた穴からしゅるしゅると音をたてて、空虚さの闇へと流れ出ていった。でも、そんなお願いが無理だとわかっていても、リョウスケにはそうせずにはいられなかった。
 しかし、そのお願いを聞いて、
「わかった。二十分だけだけど、いるよ。なにする?」とモトヤ君はいってくれた。たちまちリョウスケの胸の穴が塞がる。
「ほんとはね、モトヤ君とモノポリーがしたかったんだ。モノポリーって知ってる?」
「知らない。ゲームなの?」
「うん、ボードゲームなんだけど、ゲームソフトで持ってるんだよね。サイコロ投げてコマをすすめて、土地を買って建物立てて、あとでその土地のマスにとまるひとから利用料をもらってっていうような、簡単にいえばそういうゲームなんだよ。覚えるとおもしろい」
「難しくないの?それ」
「一度やってみれば覚えられるよ。時間があればさあ、二人で一度やってみて、それから次が本番だよってやれたんだけど。今日はできなくても、いつかやろうよ!」
「うん、いつかやろう。リョウスケ君がおもしろいっていうんだから、やってみたいな」言葉とは裏腹に、表情は冴えなかった。
「モトヤ君は、あのゲーム持ってきてくれたの?」
 あ、と気づいて、モトヤ君は傍らにおいたリュックサックに手を伸ばして中から携帯ゲーム機を取りだした。
「持ってきたんだよ。買ったばっかりだから、まだあんまり進んでない。見てみる?」
「うん、見たいな」
 それから二人は、ひとつの携帯ゲーム機の小さな画面に、顔を並べて見入るのだった。モトヤ君が操作しながら、いろいろと説明してくれる。リョウスケの中では、こうやって自分の家でモトヤ君と遊んでいるうれしさや楽しさと、まもなくモトヤ君が帰ってしまうさびしさがまぜこぜになり、せっかくのモトヤ君の説明もそんなフクザツな気持ちでは上の空だった。そのうち、モトヤ君が帰ることばかりが頭を埋めて、さびしいだけになった。条件反射的にモトヤ君の言葉に対して応答するのだけれど、まったく気持ちが乗っからない。それというより、気持ちの起伏が生じないのだった。かけがえのない、いっときの遊び時間が過ぎていった。
「さて、と。おれ、そろそろ帰るよ」モトヤ君は話したり遊んだりしていた玄関のその土間に立ちあがる。
「もう時間かあ。しょうがない、しょうがない」リョウスケは自分にいいきかせるようにつぶやいた。
 外は、まだ薄暗くはないが、秋の夕明りの時刻だった。外に出て、ママチャリにまたがり別れのあいさつをするだけになったモトヤ君がこっちを向いている。リョウスケは歩み寄り、
「今日はほんとうにありがとう。来てくれてうれしかったよ」とうつむく。
「おれもうれしかった。また月曜日だね」
 その声を聞いてリョウスケは、表情が崩れないように気をつけて顔をあげる。
「またね、気をつけて」気がつけば、右手を差しだしていた。
「うん、じゃあまた」モトヤ君はその手をつかみ、かたく握手をした。
「暗くなるから、ほんとに気をつけて。家に着いたら電話して」
「うん、わかったよ。それじゃ」離した手を頭上に振りながら、オレンジ色の光に包まれたモトヤ君は国道のなだらかな下り坂を走っていった。
「じゃあねー!」遠くなるモトヤ君に、リョウスケは声を張り上げる。
 モトヤ君が見えなくなると、リョウスケはやっぱり寂しくなった。またいつもと同じ土曜日に戻った気がしたのだけれど、でもそれは一時で、今まで味わったことのない不思議な充実感が心を満たしはじめていた。

 それから二日後の月曜日の朝。授業が始まる前の教室で、リョウスケはモトヤ君の登校をまだかまだかと待っていた。自転車通学のモトヤ君は、いつも始業時間の十分前くらいに教室に入ってくる。バス通学のリョウスケはそれよりずっと早く、教室に到着している。モトヤ君はたぶん、なんらいつもと変わらない時間に教室にはいってくるだろう。待ち焦がれるあまり、ずいぶん遅刻しているみたいに感じられた。それは、土曜日にモトヤ君を朝から待ち続けていたときにはなかったいらだちだった。自分の席に着き、机をごしごしこすってみたり、そうかと思うと立ちあがって窓の方へいき、とくに目的もなく外を眺めまわしたり、そんな所在なげなリョウスケを見て、アスミちゃんが声をかけた。
「どうしたの?もう帰りたいみたいな感じなの?今日は放課後に図書室であの図鑑をいっしょに見ようっていったでしょ?まさか早退しないでしょうね?」
「違うんだよ。バスの中でもいったけど、モトヤ君、土曜日にうちに来たんだ。ちゃんと来てくれたんだよ。だからさ、モトヤ君、まだかなあって」まだそわそわしながら、アスミちゃんの顔だってろくに見ずにリョウスケは応えた。
「なにが〝だからさ〟なのかよくわかんないけど、そんなに浮ついてたら、転んだりぶつかったりして怪我するんだから、気をつけなさい」
 そう注意を受けたところで、教室の戸が開き、モトヤ君がはいってきた。とくに機嫌よくニコニコなどしていないし、ぷりぷり怒ってもいない、いたってふつうの表情で。リョウスケはすぐさま
「モトヤ君、おはよう!」と手を振り、小走りで駆け寄ろうとするのだが、途中で腰を机の角にぶつけて定位置から大きくずらしてしまった。それを元に戻していると、 アスミちゃんがリョウスケのその動作を眺めて
「〝だから、気をつけなさい〟っていったじゃない」と、笑いそうになりながらつぶやく。そうこうしているうちに
「おはよう」とモトヤ君はリョウスケのところまでやってきて、笑顔になった。
「もうなに、見つめあってにやにやしてるの、二人とも。気持ち悪いじゃない!」腕組みをしたアスミちゃんが、見たくないものを我慢して見ているような目つきで二人を見まわした。
 そこへ、上級生のジョウ君もやってきて、そして、つられてやってきたタケシ君が「おまえたち、なんかあったの?」と質問したのだけれど、その質問でリョウスケとモトヤ君のにやにやが、ますます嬉しそうに、はっきりしたものとなる。
「ぼくら、親友なんだ。親友になったんだ」
「そうなんだ。ぼくら、親友になったんだ」
 二人はこれまででいちばん活きいきとした表情をして、瞳を輝かせていた。頬が紅潮しているのは、嬉しさとすこしの照れのためだろう。二人はまた視線を交わすと、かたく握手して、それから肩を組んでみせた。
「いいわね、男の子って」もう飽きた、とでもいうようにアスミちゃんは自分の席へと戻っていった。
 ジョウ君とタケシ君は目を丸くしたまま事の次第を聞きたがったのだが、そこへ先生が教室にはいってきたのでお開きになった。
 それからの一週間、その年初めての雪が降った日があったが、リョウスケには輝けるあたたかな日々だった。たとえ二言三言だけだったとしても、言葉を交わしあう行為がこんなに楽しいなんて知らなかった。お母さんとの関係とはまた違う対等な立場。お互いにとても興味をひかれあいながら、信頼しあうなかでのモトヤ君とのやりとりを、リョウスケは身体全体を使ってやっているかのようだった。
 モトヤ君の声が、言葉が、表情が、しぐさが、波紋のようにリョウスケの身体中を波打っていきわたり、リョウスケはそれらを身体全体で理解する。そして、今度は瞬間的に生まれでるモトヤ君への反応が、リョウスケの体中から、声、言葉、表情、しぐさへとごくわずかな時間で逆流し、すぐさま凝固して発現する。
 モトヤ君はモトヤ君で、リョウスケと親友になってからの付き合いは、体中に心地の良い電流のようなものが走りまくるようなものだと感じていた。それは、二人の心がぎゅっと近くなったがゆえ、いろいろな影響を与えあっている証左だった。

 二人が親友となって十日目のことだった。モトヤ君はいつもと違って伏し目がちで、リョウスケが話しかけても、あまり目を合わさない。二時間目の算数の授業が終わって休み時間にはいってすぐ、モトヤ君は席を立ち、そよ風のようにリョウスケに近づいた。
「あのさ、ちょっと、いいかな。ええと」言い淀んでいるのがすぐにわかる。
「どうしたの?」
「なあ、トイレ、付き合わない?」こんなに挙動のおかしいモトヤ君ははじめてだった。廊下を並んで歩いていると、おもむろにモトヤ君がいった。
「リョウスケ君、おれ、引っ越すんだ、札幌に」
 リョウスケの頭にこの言葉はガツンと響いた。
「えっ?いつ?どうして?」混乱が始まっている。
「再来週の土曜日に引っ越すっていわれてる。兄ちゃんがちょっと調子悪いんだ。それで札幌で部屋を借りてみんないっしょに住もうって。母さんの仕事が決まったから、再来週にはもうあっちへいく」
「いやあ、急だよ」リョウスケは頭が真っ白で、それ以上は何もいえなかった。
「ごめん」二人の間に沈黙が訪れた。そのまま押し黙った二人はぎこちなくトイレで小用を足し、教室への廊下を重い足どりでたどっている。そんなところでモトヤ君が切り出した。
「リョウスケ君、おれさ、自転車できみの家に行ったろ?あの日にはもう引っ越すってわかってたんだ。あの日の何日か前に母さんにいわれてたんだ」
「なあんだ。だから無理してわざわざ来てくれたのかい?」
「実はそうなんだ。ためらってたら雪が降ってしまう時期だったから。あの日はほとんど遊べなかったけど、行ってよかったってほんとうに思ってる」
「ぼくも来てくれてほんとうによかったって思ってるよ。でも、どうしてなんだい?どうして急にぼくなんかの家に?」
「……おれ、あんまりひとと遊ばなくてさ。でも、それなりに寂しいとは思ってたんだ」気がつけば、モトヤ君の目が潤んでいた。
「それは、ぼくも同じだよ」リョウスケはモトヤ君の潤んだ目には気づかないふりをして、正面に顔を戻した。
「やっぱりそうかい?リョウスケ君も寂しそうにみえてたんだ。いや、気を悪くしないで。でさ、おれたち同学年じゃ二人きりの男子だろ?決意してさ、家に行くっていったんだ。よくわかんないけど、この一歩は、ただの一歩じゃなくて、大きな一歩になる。そんな気がしたんだ」終いのほうは力強く、でも照れながらモトヤ君はいった。
「三年生までは、モトヤ君とはわりと教室でしゃべったりしてた。クラスが上がってからちょっと離れてたね」申し訳なくてリョウスケの声が小さくなる。
「いや、いいんだ。おれ、自分が悪いの、わかってるから」
そんなことない、悪くないよ、ごめん、と心の裡でリョウスケは謝るのだった。
「じゃ、お別れ会か。モトヤ君、みんなに別れのあいさつしなきゃだね。おもしろいあいさつじゃないとだめだよ」空元気でけしかけた。
「そんなのできないよ。寂しいです、って正直にいおうと思う」モトヤ君は指で目をぬぐう。
「……ぼくだってめちゃくちゃ寂しいよ」リョウスケの空元気はどこかへ吹き飛んでしまった。
 その日の帰りに、先生からモトヤ君が転校することがみんなに告げられた。アスミちゃんも、ジョウ君も、タケシ君も、ほかのクラスメイトも誰もがおどろき、残念がっていた。

 モトヤ君とお別れをする日。教室では、フルーツバスケットをしたり、ケーキを食べたり、習いたての合唱をしたりしたし、ジョウ君とタケシ君などはネタバレの憂き目にあってみんなに笑われながらもハンカチを消す手品を披露してくれて、モトヤ君はとても喜んでいた。
 最後に一言、と先生に促されてモトヤ君が短いあいさつをすると、気丈にふるまっていたリョウスケの目からも涙がこぼれた。君の残してくれた思い出は、絶対に忘れることはないだろう。タケシ君もジョウ君も泣いていた。モトヤ君は必死に涙に耐えていた。
 帰り際、元気でね、忘れないでね、とクラスメイトが最後の言葉をかけるのに、うん、ありがとう、とモトヤ君が応じている。リョウスケが寄っていくと、モトヤ君は、そのうち札幌に遊びに来いよ、といってくれた。目をきらきらさせているが、表情は晴れやかだ。手紙書くよ、とリョウスケはいう。ときどき、電話していいかい?とモトヤ君がいう。そこへアスミちゃんが
「あんたたち、最後なんだから、ハグしなさいよ。握手だけじゃさびしいじゃない。さあ」とうれしい提案をしてくれる。
 二人はがっちりとハグをして、また絶対会おうな、とそのときはもう笑顔で約束をした。
 こうして、モトヤ君は札幌に引っ越していった。

 二年後の秋、リョウスケは札幌のモトヤ君のアパートの部屋へ向かう車内にいる。モトヤ君がお兄ちゃんの中古の軽自動車で迎えに来てくれて、そのままモトヤ君の家に向かっているのだった。久しぶりに会うモトヤ君も、リョウスケも、あの頃よりもずっと背が伸びていて、リョウスケよりもすらりとしたモトヤ君のほうは、顔つきも大人びてどこか凛々しさを感じさせた。モトヤ君のお兄ちゃんは度の強いメガネをかけた、見るからに温和そうなひとだった。車中では、よくリョウスケを気づかってくれて、学校はどうだい?とか、好きな食べものは?とか、いろいろと質問をしてくれたり、電話や手紙じゃわからない、最近のモトヤ君の様子を教えてくれた。
 たまの電話でわかってはいたのだが、モトヤ君は声変わりしていた。リョウスケはまだ二年前のままの声だったので、低音のモトヤ君の声を実際に聞くと、リョウスケにとってはその〝大人を感じさせる響き〟が二人の距離を遠くするような心持ちがした。でも、なにせ、別れた頃から、ふたりの友情の熱は冷めていなかったから、その声の響きは、同時にモトヤ君との新たな関係の予感を感じさせもしたのだった。
 部屋に着いたときにはもう星空で、モトヤ君のお母さんが
「よく来てくれたね」とやさしい笑顔で迎えてくれた。おとなしそうだけれど、きれいなお母さんだった。
 すぐに夕飯になり、モトヤ君のお母さんは、餃子をたくさん焼いてくれた。かりかりに焼けた粒の大きめの餃子を箸でつまみ、酢醤油をつけてがぶりと噛むと、中から熱い肉汁が飛び出してくる。リョウスケは、はふはふと口の中で何度も転がしながら、テーブルを囲むみんなにそれぞれ「おいしい!」といい、口の中の熱さのために、そして団らんの温かさのために涙を浮かべた。
 その夜は、布団にはいってからも遅くまでモトヤ君とおしゃべりをつづけた。暗い部屋の中でずいぶん話が弾んだのだったが、明日は朝から動物園だからもう寝ようとお互いにいいあって、それから静寂に包まれるのだけれども、しばらくするとどちらともなくまた話を始めてしまう。ちゃんと寝付くまでそれを何回も繰り返してしまった。
 それでも、あくる日の動物園は、冴えた秋の空気に頬を撫でられっぱなしのためか、リョウスケはぜんぜん眠気を感じなかった。
 ハケでひいたような薄い雲がすうっと空に膜を張っている。するどい鳴き声を聞いてそばのサル山を振り向くと、すばやく走り回る数匹のサルが見える。ケモノの匂いが混じった冷たい空気を思いきり吸い込むと、今日は特別な日なんだなあという実感がわいた。近くに囲われているキリンたちの、木の葉を食むゆったりとして機嫌のよさそうな一連の動きは見ているだけで気持ちよかった。
 モトヤ君が行こうというので、エゾヒグマ館にはいった。たくさんのヒグマたちが、退屈そうにそこらに座ったり歩いたりしている。
 リョウスケは、モトヤ君を待ち続け、そして来てくれた日のことを思い出していた。
 なんとなしに見つめていたクマの一頭と目があったような気がして、視線をモトヤ君に向けた。リョウスケの視線を受けたモトヤ君の、なに?という表情を見て、
「……ほんと、クマはこわいね」とリョウスケはしょぼしょぼした苦笑いの顔を返したのだった。

【終】
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