読書。
『つながる脳』 藤井直敬
を読んだ。
帯に、「池谷裕二氏、茂木健一郎氏絶賛」とあります。
著者は脳科学者。
第63回毎日出版文化賞受賞作。
2000年代に入りブームとなった脳科学ですが、
昨今は行き詰まり感が濃い分野になっているそう。
それはなぜなのか、脳科学研究者たちがぶちあたったいくつかの壁をまず明らかにし、
その壁を乗り越える端緒となるかもしれない研究や考えと、
それらを足がかりとして見えてくる
これからへの期待についての叙述というのが本書の主旨であり、
その基盤となっている、著者のかかげている研究目的が、
「社会的脳機能の解明」だったので、
タイトルは『つながる脳』となっています。
またそれだけではなく、
期待される侵襲型の脳研究方法であるBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)が
脳とコンピュータつなげるものであるので、
『つながる脳』はダブルミーニングでもあります。
これといった、決定打みたいな結論的箇所はあまりないのです。
途上のなかでこう考えている、という
著者の思考の流れを追体験するというか、共有するというか、
そういう読書体験をしながら脳科学に触れる感じです。
それでも、おもしろいトピックは多々出てきます。
たとえば、
<社会性とは「抑制」である>と著者が突き詰めて考えて得られた知見がありました。
また、サルを使った実験での上下関係の発生状況を見ると、
下位のサルほど頭を使うとも。
つまり、賢いのは上に立った者よりも抑制して下位にいる者だと。
社会性においての賢さですが。
上位にいると頭を使わなくなる。
下位の者を意識しなくなる。
ということは傍若無人的姿勢になってしまうようなのです。
人がいてもいないのと変わらないような脳の活動になるんだとか。
一方、下位の者は上位の者を意識する。
脳は抑制され、いろいろ考えだす。
これは人間でも同様ではないかと思いました。
以前目にしたツイートがソースではあるけれど、
社長くらいになると洞察力や共感力が落ちるとあった。
脳が下位の者を意識しなくなるから、頭も働かなくなる。
これはサルの実験で見られたことと一緒ですよね。
賢くありたいなら、できるだけ偉くならないほうがいいんでしょうね。
重ねがさね書きますが、社会性においての賢さという意味で、です。
初めは賢くて、
そのうちいつか権力を手中にし、
世の中をよくするために行使しようと考え、
そうなっていく政治家がいるとして。
いざ権力を手にした地位にあるときには、
その権力と引き換えに初心に備わっていた賢さは消え去っているのかもしれない。
……初心忘るべからず。
聖書の
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」という文言も、
こうやって見ていくと、
実は脳科学的に適合するような考え方じゃないかと思えてくる。
「偉い者」が賢いから偉いとするならば、
小さい者こそ社会的下位で、
抑制された脳の状態で生きているのだから賢く、ゆえに偉い。
社会性は抑制だ、
というテーゼを受容して世の中をみてみると、
どういう行動が反社会的なのかがいつもと違うわかりかたで見えてきます。
すぐ偉く振る舞う人、
マウンティングしてくる人なんかは、
実は社会性がとぼしい脳の状態を欲しているのかなあ。
社会性の賢さよりも、個人の利益を重視した賢さを選んでいるのかなと思う。
最後の章では、
脳科学の実験分野の話を離れて、社会性についての著者の論述が書かれています。
幸せとはなにか、それはカネなのか、といったテーマに、
明快かつうなずける論考がなされていました。
人間とは不合理なものであることはわかりきっているのに、
経済の世界では、合理的に判断していくのが人間(経済人)として規定され、
それを元に社会が作られてきたと著者は説明します。
金融工学が生まれたことは、それらを如実に物語っているのではないか。
たとえばアメリカは、そういった合理性を重視する経済的(ビジネス重視)な国だけれども、
そうやって人間個人の不合理に目をつむり社会の合理性を最優先した結果、
不合理な人間同士で営む結婚生活などは、離婚率が50%ほどにまでなっている。
他にもこの部分を読んでいて僕が気になったのは、
アメリカの犯罪率の高さと薬物依存などが、
こういった人間の不合理性を大事にしない代償なのではないかということでした。
生きづらくない社会を構築するには、
今後、不合理性の扱いをどうするかが大きなポイントなのかもしれません。
著者は、そこのところは、トップダウンではなく、
ボトムアップで探っていく方が向いているのではないかとの意見を述べていました。
僕も賛同するところです。
『つながる脳』 藤井直敬
を読んだ。
帯に、「池谷裕二氏、茂木健一郎氏絶賛」とあります。
著者は脳科学者。
第63回毎日出版文化賞受賞作。
2000年代に入りブームとなった脳科学ですが、
昨今は行き詰まり感が濃い分野になっているそう。
それはなぜなのか、脳科学研究者たちがぶちあたったいくつかの壁をまず明らかにし、
その壁を乗り越える端緒となるかもしれない研究や考えと、
それらを足がかりとして見えてくる
これからへの期待についての叙述というのが本書の主旨であり、
その基盤となっている、著者のかかげている研究目的が、
「社会的脳機能の解明」だったので、
タイトルは『つながる脳』となっています。
またそれだけではなく、
期待される侵襲型の脳研究方法であるBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)が
脳とコンピュータつなげるものであるので、
『つながる脳』はダブルミーニングでもあります。
これといった、決定打みたいな結論的箇所はあまりないのです。
途上のなかでこう考えている、という
著者の思考の流れを追体験するというか、共有するというか、
そういう読書体験をしながら脳科学に触れる感じです。
それでも、おもしろいトピックは多々出てきます。
たとえば、
<社会性とは「抑制」である>と著者が突き詰めて考えて得られた知見がありました。
また、サルを使った実験での上下関係の発生状況を見ると、
下位のサルほど頭を使うとも。
つまり、賢いのは上に立った者よりも抑制して下位にいる者だと。
社会性においての賢さですが。
上位にいると頭を使わなくなる。
下位の者を意識しなくなる。
ということは傍若無人的姿勢になってしまうようなのです。
人がいてもいないのと変わらないような脳の活動になるんだとか。
一方、下位の者は上位の者を意識する。
脳は抑制され、いろいろ考えだす。
これは人間でも同様ではないかと思いました。
以前目にしたツイートがソースではあるけれど、
社長くらいになると洞察力や共感力が落ちるとあった。
脳が下位の者を意識しなくなるから、頭も働かなくなる。
これはサルの実験で見られたことと一緒ですよね。
賢くありたいなら、できるだけ偉くならないほうがいいんでしょうね。
重ねがさね書きますが、社会性においての賢さという意味で、です。
初めは賢くて、
そのうちいつか権力を手中にし、
世の中をよくするために行使しようと考え、
そうなっていく政治家がいるとして。
いざ権力を手にした地位にあるときには、
その権力と引き換えに初心に備わっていた賢さは消え去っているのかもしれない。
……初心忘るべからず。
聖書の
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」という文言も、
こうやって見ていくと、
実は脳科学的に適合するような考え方じゃないかと思えてくる。
「偉い者」が賢いから偉いとするならば、
小さい者こそ社会的下位で、
抑制された脳の状態で生きているのだから賢く、ゆえに偉い。
社会性は抑制だ、
というテーゼを受容して世の中をみてみると、
どういう行動が反社会的なのかがいつもと違うわかりかたで見えてきます。
すぐ偉く振る舞う人、
マウンティングしてくる人なんかは、
実は社会性がとぼしい脳の状態を欲しているのかなあ。
社会性の賢さよりも、個人の利益を重視した賢さを選んでいるのかなと思う。
最後の章では、
脳科学の実験分野の話を離れて、社会性についての著者の論述が書かれています。
幸せとはなにか、それはカネなのか、といったテーマに、
明快かつうなずける論考がなされていました。
人間とは不合理なものであることはわかりきっているのに、
経済の世界では、合理的に判断していくのが人間(経済人)として規定され、
それを元に社会が作られてきたと著者は説明します。
金融工学が生まれたことは、それらを如実に物語っているのではないか。
たとえばアメリカは、そういった合理性を重視する経済的(ビジネス重視)な国だけれども、
そうやって人間個人の不合理に目をつむり社会の合理性を最優先した結果、
不合理な人間同士で営む結婚生活などは、離婚率が50%ほどにまでなっている。
他にもこの部分を読んでいて僕が気になったのは、
アメリカの犯罪率の高さと薬物依存などが、
こういった人間の不合理性を大事にしない代償なのではないかということでした。
生きづらくない社会を構築するには、
今後、不合理性の扱いをどうするかが大きなポイントなのかもしれません。
著者は、そこのところは、トップダウンではなく、
ボトムアップで探っていく方が向いているのではないかとの意見を述べていました。
僕も賛同するところです。