読書。
『地下室の手記』 ドストエフスキー 江川卓 訳
を読んだ。
ロシアの文豪・ドストエフスキーの、
五大長編へ続くターニングポイントと位置付けられるような作品。
人間は不合理な本性を持つものであることを暴くように描いています。
著者は、ゆえに、理性できれいに作られる世界なんて絵空事である、
というようなことを第一部では主人公に語らせている。
人の不合理性と世の中が合理性へと進んでいく、
その齟齬を見つめているところは、
現代の僕らがあらためてなぞっておいたらいい。
また、私欲とか理性のくだり、
人間の行動原理についてのところですが、
著者と議論したかったなあと。
<人間は自分にとっての善しか行わない(それは周囲からしたら悪だとしても)>、
<悪だとわかるには無知を克服していくことが必要>、
<人は他律性を嫌う>、
それら三つをドストエフスキーにぶつけてみたいと思いました。
きっとスパークするものがあったはず。
というか、僕のこういった思考の源泉、基盤となっているものの多くには、
たぶん以前読んだドストエフスキーの五大長編があるのでしょう。
だから、彼に育てられて、後を引き継いだところはあるのだと思います。
この『地下室の手記』を書いたドストエフスキーの年齢と、
それを読む今の僕の年齢がいっしょ。
だからこそ、わかる部分や響く部分ってあるかもしれない。
でも、僕も著者くらいわかっていることはあれど、
彼ほどうまくプレゼン(独白調文体でのだけれど)はできないかな。
すごく饒舌なんですよね。
私語を慎みなさい、と口を酸っぱくして言われ、
それに従わなきゃと、自分を抑えて大人になったぶん、
そういった「饒舌の能力」は育ちがよくなかったです。
言葉の巧みさと、
パソコンでたとえるならメモリの容量の大きさ、
そこが強いと思いました。
また、「地下室」のたとえも、
「こういうことなのか」と読んでわかると、
村上春樹氏が地下室のさらに地下みたいなことを言ったその意味が、
より確かにわかってくる。
それにしても、主人公の自意識がすごいのです。
自意識のすごい描写や独白部分を読むと、
自分の自意識の強い部分が刺激され、
いくらか客観的といった体で知覚されて、
恥ずかしくなります。
小さくなりたい、自分もバカだ、と思い知るような読書になりました。
第二部では、主人公の青年時代の回想になります。
バランスを崩しながら、
そのバランスをうまく平衡状態にもどすことができずに(いや、しようともせず)、
そのまま生きていくことで、
雪だるま式に不幸と恥を塗り重ねていくさまを読み、たどっていきます。
著者は「跛行状態」と書いていますが、
跛行ってたとえば馬の歩様がおかしいときにそう表現します。
なんらかの肉体的なトラブルを抱えてしまった時なんです。
それを、人生が跛行している、というように形容するのは、
バランスを崩している、というよりも上手な表現だなあと思いました。
もう、醜悪で、みっともなくて、性悪で、露悪的で、
どうしようもないアンチヒーローな主人公なんですけども、
それこそが人間だろう、とドストエフスキーは言っているんじゃないかな。
利己的だったり支配的だったりするし、
また、他律性を嫌っているのだけれど、
かといってそれを自覚できていないから、
心に引っかかるものがある状態でうらぶれる。
そして、うらぶれていると癪に障ってくるので他人を攻撃しだす。
そうすることでしか、自分を確かめられなくなっている。
つまり、それが、さっきも書いた「跛行状態」なのでした。
自律に失敗している。
自制がきかない。
そこまでバランスを失ってしまった人間が、
たどり着いてようやくなんらかの安定を得たのが、
「地下室」でもあったでしょう。
それは醜悪な自分を許容することで
入室することができた地下室だったのではないかと思います。
第一部は思想をぶちまけていて、それはそれで面白いのですが、
第二部の後半への、一気に膨らんで破裂するような、
物語がほとばしる感覚、そこはすごいなあと感嘆しましたし、
エキサイティングでした。
『地下室の手記』 ドストエフスキー 江川卓 訳
を読んだ。
ロシアの文豪・ドストエフスキーの、
五大長編へ続くターニングポイントと位置付けられるような作品。
人間は不合理な本性を持つものであることを暴くように描いています。
著者は、ゆえに、理性できれいに作られる世界なんて絵空事である、
というようなことを第一部では主人公に語らせている。
人の不合理性と世の中が合理性へと進んでいく、
その齟齬を見つめているところは、
現代の僕らがあらためてなぞっておいたらいい。
また、私欲とか理性のくだり、
人間の行動原理についてのところですが、
著者と議論したかったなあと。
<人間は自分にとっての善しか行わない(それは周囲からしたら悪だとしても)>、
<悪だとわかるには無知を克服していくことが必要>、
<人は他律性を嫌う>、
それら三つをドストエフスキーにぶつけてみたいと思いました。
きっとスパークするものがあったはず。
というか、僕のこういった思考の源泉、基盤となっているものの多くには、
たぶん以前読んだドストエフスキーの五大長編があるのでしょう。
だから、彼に育てられて、後を引き継いだところはあるのだと思います。
この『地下室の手記』を書いたドストエフスキーの年齢と、
それを読む今の僕の年齢がいっしょ。
だからこそ、わかる部分や響く部分ってあるかもしれない。
でも、僕も著者くらいわかっていることはあれど、
彼ほどうまくプレゼン(独白調文体でのだけれど)はできないかな。
すごく饒舌なんですよね。
私語を慎みなさい、と口を酸っぱくして言われ、
それに従わなきゃと、自分を抑えて大人になったぶん、
そういった「饒舌の能力」は育ちがよくなかったです。
言葉の巧みさと、
パソコンでたとえるならメモリの容量の大きさ、
そこが強いと思いました。
また、「地下室」のたとえも、
「こういうことなのか」と読んでわかると、
村上春樹氏が地下室のさらに地下みたいなことを言ったその意味が、
より確かにわかってくる。
それにしても、主人公の自意識がすごいのです。
自意識のすごい描写や独白部分を読むと、
自分の自意識の強い部分が刺激され、
いくらか客観的といった体で知覚されて、
恥ずかしくなります。
小さくなりたい、自分もバカだ、と思い知るような読書になりました。
第二部では、主人公の青年時代の回想になります。
バランスを崩しながら、
そのバランスをうまく平衡状態にもどすことができずに(いや、しようともせず)、
そのまま生きていくことで、
雪だるま式に不幸と恥を塗り重ねていくさまを読み、たどっていきます。
著者は「跛行状態」と書いていますが、
跛行ってたとえば馬の歩様がおかしいときにそう表現します。
なんらかの肉体的なトラブルを抱えてしまった時なんです。
それを、人生が跛行している、というように形容するのは、
バランスを崩している、というよりも上手な表現だなあと思いました。
もう、醜悪で、みっともなくて、性悪で、露悪的で、
どうしようもないアンチヒーローな主人公なんですけども、
それこそが人間だろう、とドストエフスキーは言っているんじゃないかな。
利己的だったり支配的だったりするし、
また、他律性を嫌っているのだけれど、
かといってそれを自覚できていないから、
心に引っかかるものがある状態でうらぶれる。
そして、うらぶれていると癪に障ってくるので他人を攻撃しだす。
そうすることでしか、自分を確かめられなくなっている。
つまり、それが、さっきも書いた「跛行状態」なのでした。
自律に失敗している。
自制がきかない。
そこまでバランスを失ってしまった人間が、
たどり着いてようやくなんらかの安定を得たのが、
「地下室」でもあったでしょう。
それは醜悪な自分を許容することで
入室することができた地下室だったのではないかと思います。
第一部は思想をぶちまけていて、それはそれで面白いのですが、
第二部の後半への、一気に膨らんで破裂するような、
物語がほとばしる感覚、そこはすごいなあと感嘆しましたし、
エキサイティングでした。