仕事で、
「この人は対外的にも対内的にも利害関係だけでコミュニケーションする」
と見える人がいるけれど、
そういう割り切りの方がビジネスのある方面ではうまくいくのだろう。
だけれど、すごくひっかかるし、
残念ながら僕にはとてもなじみにくいスタンスだ。
だって、その利害関係だけの愛想のよさや気配りなんかって、
利害関係じゃない場合の、
人間的なやり取りの文脈をダシにして使っているでしょう。
詐欺ですもんね。
たとえば
「いやいや、利害を考えての行動以外していません。こう宣言すると詐欺にはなりません」
なんて言われても、
そのドライさだって、
やっぱり人間的なやり取りの仕方の上に立脚していませんかねえ。
また、こういう、利害を第一に考えることをよしとする場合、
それを野生動物たちの「食うか食われるか」「弱肉強食」
みたいなことをラベリングして肯定する行為は、
社会を形成してやっていく社会的動物かつ知的動物である人間には
当てはまらないんじゃないかと思うわけです。
欲望のなすがままにならないようにルールを決め、
そしてルールに縛られ過ぎて窮屈になりすぎないように制度や権利を作ってきたこの人間世界で、
一日の大半を過ごす仕事時間をすべて、
利害関係の考え方で通すことの是非ってどうだろうと思ったんだけれど、
そこがこの世界のゲーム性なのかもしれない。
ただ、そのゲームに、
好きか嫌いかに関わらず全員強制参加っていう性格の強さ、
そういう今のあり方、はどうかと思うし、
それが人間世界の完成型ではないでしょう。
これだけ知能が発達しても、
競争社会一辺倒でそういった色合いの濃い世界なのは、
僕が思うに、知性の発達がまだ足りないからだ、ということになる。
僕が若い頃からあるけれど、
特に、異なる世代間での利害関係のみのコミュニケーションというか、
利得になるかどうかを考えただけで、
感情面を押し殺してコミュニケーションし選択し行動するというのは、
けっこう表面に出てきたりしてわかるときがある。
そんな、「ゲームである(と言えもする)人間社会」が殺伐とするのは、
利害関係での付き合い方の純度をあげたほうがプレイヤーとして有利だから、
という構造になっているからかもしれない。
ただ、利他行動が有利か利己行動が有利かは、
その時々によっての移ろいとしてあるらしい。
コンピューターを使ったプログラミングでの実験でそうでる、
と共進化の本で読んだことがあります。
そこも、どれだけ欲望が強く、どれだけ知性が強いかで変わってくるのでは
と思えるのだけれど。
また一日の大部分を、
そんな「ゲームである世界」で利害優先として生きて、
なおかつプライベートでもやっちゃうっていう良くなさはあります。
切り替えがきかない、
「仕事時間というものは利害を考えなきゃいけないゲームである」的な発想がまったくない、
だとかで私的時間すら利害の考え方に浸食されてしまう。
……と、こういうことを考えるのも、
世の中には、過ごしてきた学生時代、
少々問題はあったけれど周囲とも仲良くやれていたし楽しい時間を過ごせた、
というような人が、
仕事についてみれば周囲に食い物にされて疲弊してしまい、
脱出口がみつからないというように見えるケースが目につくからです。
職場で周囲に、
がみがみと注意されたり、あれこれ指図されたり、求めてもいないアドバイスを怖い顔でされたり、
というところまで追い込まれる人がいる。
これはきっと利害関係のゲームになじめないだとか
利害関係だとわからないだとか
対応できないだとかがその人の元にあるからだと思う。
そのくせ周囲も、
仕事時間は利害で動いている性質が強いことに気付いていないため、
そういう人を仕事時間外でも利害関係で縛ってしまう。
それはもう泥沼になっていくよなあと。
自明じゃないでしょうか。
そしてもう一つの視点から言うなら、
利害関係で動くというのは合理性が大きく前面に出てくる局面であり、
対して人間というものは本来不合理なものなので、
特に合理的な自分になりきるのがうまくない人は、
幸福感を得ずらいんじゃないかと思えるのです。
「利害で動く時間」=「合理性時間」から不合理時間に戻りたいのに、
そんな「不合理時間」=「プライベート」でも離してもらえないんですよ?
だんだんもっと合理性に対応できなくなっていくような気がしてきます。
なかにはそういうのがスパルタ式に効いて、
対応できる人もいるかもですが、それはわかりません。
僕はどうかというと、
仕事時間であっても利害関係100%でやっていくのは心苦しいので
(不合理時間の文脈をダシにして自分の利益を得る場面が特にいやなので)、
同僚とコミュニケーションをとりながら、
雑談もして、
雰囲気が窮屈ではない中で仕事をしたいほうですし、
できるだけそうしています。
ちなみに、雑談を奨励したほうが、仕事の成果があがる、
というのがANAが出した本に書いてありました。
どこだかのアメリカの大学の研究結果からもそういうエビデンスが得られる、
みたいな話だったと思います。
と、思うままに綴った「考えの切れ端」ではありましたが、
今回は、要は、それは利害行動なのかどうかを
各々が認識することが大切なのではないか、ということに収まると思います。
そして、人間は本来不合理だということをちゃんと覚えておくこと。
そういうことで変わっていくものはあるのではないでしょうか。
「この人は対外的にも対内的にも利害関係だけでコミュニケーションする」
と見える人がいるけれど、
そういう割り切りの方がビジネスのある方面ではうまくいくのだろう。
だけれど、すごくひっかかるし、
残念ながら僕にはとてもなじみにくいスタンスだ。
だって、その利害関係だけの愛想のよさや気配りなんかって、
利害関係じゃない場合の、
人間的なやり取りの文脈をダシにして使っているでしょう。
詐欺ですもんね。
たとえば
「いやいや、利害を考えての行動以外していません。こう宣言すると詐欺にはなりません」
なんて言われても、
そのドライさだって、
やっぱり人間的なやり取りの仕方の上に立脚していませんかねえ。
また、こういう、利害を第一に考えることをよしとする場合、
それを野生動物たちの「食うか食われるか」「弱肉強食」
みたいなことをラベリングして肯定する行為は、
社会を形成してやっていく社会的動物かつ知的動物である人間には
当てはまらないんじゃないかと思うわけです。
欲望のなすがままにならないようにルールを決め、
そしてルールに縛られ過ぎて窮屈になりすぎないように制度や権利を作ってきたこの人間世界で、
一日の大半を過ごす仕事時間をすべて、
利害関係の考え方で通すことの是非ってどうだろうと思ったんだけれど、
そこがこの世界のゲーム性なのかもしれない。
ただ、そのゲームに、
好きか嫌いかに関わらず全員強制参加っていう性格の強さ、
そういう今のあり方、はどうかと思うし、
それが人間世界の完成型ではないでしょう。
これだけ知能が発達しても、
競争社会一辺倒でそういった色合いの濃い世界なのは、
僕が思うに、知性の発達がまだ足りないからだ、ということになる。
僕が若い頃からあるけれど、
特に、異なる世代間での利害関係のみのコミュニケーションというか、
利得になるかどうかを考えただけで、
感情面を押し殺してコミュニケーションし選択し行動するというのは、
けっこう表面に出てきたりしてわかるときがある。
そんな、「ゲームである(と言えもする)人間社会」が殺伐とするのは、
利害関係での付き合い方の純度をあげたほうがプレイヤーとして有利だから、
という構造になっているからかもしれない。
ただ、利他行動が有利か利己行動が有利かは、
その時々によっての移ろいとしてあるらしい。
コンピューターを使ったプログラミングでの実験でそうでる、
と共進化の本で読んだことがあります。
そこも、どれだけ欲望が強く、どれだけ知性が強いかで変わってくるのでは
と思えるのだけれど。
また一日の大部分を、
そんな「ゲームである世界」で利害優先として生きて、
なおかつプライベートでもやっちゃうっていう良くなさはあります。
切り替えがきかない、
「仕事時間というものは利害を考えなきゃいけないゲームである」的な発想がまったくない、
だとかで私的時間すら利害の考え方に浸食されてしまう。
……と、こういうことを考えるのも、
世の中には、過ごしてきた学生時代、
少々問題はあったけれど周囲とも仲良くやれていたし楽しい時間を過ごせた、
というような人が、
仕事についてみれば周囲に食い物にされて疲弊してしまい、
脱出口がみつからないというように見えるケースが目につくからです。
職場で周囲に、
がみがみと注意されたり、あれこれ指図されたり、求めてもいないアドバイスを怖い顔でされたり、
というところまで追い込まれる人がいる。
これはきっと利害関係のゲームになじめないだとか
利害関係だとわからないだとか
対応できないだとかがその人の元にあるからだと思う。
そのくせ周囲も、
仕事時間は利害で動いている性質が強いことに気付いていないため、
そういう人を仕事時間外でも利害関係で縛ってしまう。
それはもう泥沼になっていくよなあと。
自明じゃないでしょうか。
そしてもう一つの視点から言うなら、
利害関係で動くというのは合理性が大きく前面に出てくる局面であり、
対して人間というものは本来不合理なものなので、
特に合理的な自分になりきるのがうまくない人は、
幸福感を得ずらいんじゃないかと思えるのです。
「利害で動く時間」=「合理性時間」から不合理時間に戻りたいのに、
そんな「不合理時間」=「プライベート」でも離してもらえないんですよ?
だんだんもっと合理性に対応できなくなっていくような気がしてきます。
なかにはそういうのがスパルタ式に効いて、
対応できる人もいるかもですが、それはわかりません。
僕はどうかというと、
仕事時間であっても利害関係100%でやっていくのは心苦しいので
(不合理時間の文脈をダシにして自分の利益を得る場面が特にいやなので)、
同僚とコミュニケーションをとりながら、
雑談もして、
雰囲気が窮屈ではない中で仕事をしたいほうですし、
できるだけそうしています。
ちなみに、雑談を奨励したほうが、仕事の成果があがる、
というのがANAが出した本に書いてありました。
どこだかのアメリカの大学の研究結果からもそういうエビデンスが得られる、
みたいな話だったと思います。
と、思うままに綴った「考えの切れ端」ではありましたが、
今回は、要は、それは利害行動なのかどうかを
各々が認識することが大切なのではないか、ということに収まると思います。
そして、人間は本来不合理だということをちゃんと覚えておくこと。
そういうことで変わっていくものはあるのではないでしょうか。