Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『果しなき流れの果に』

2020-06-19 23:52:09 | 読書。
読書。
『果しなき流れの果に』 小松左京
を読んだ。

SFの大家である小松左京の傑作とされる作品。
手塚治虫『火の鳥』を子どもの時分に読んでいたときに、
びしびし受けとった強大な知的な刺激と似たような感覚の刺激を
本作からも受けながら読んでいきました。

太古を描いたプロローグを皮切りに、
1965年ころ(執筆当時の時代)の日本から本編がはじまります。
とある古墳内部の白亜紀の地層からでてきた砂時計。
どうしてこんなものが、といった問いから、壮大な物語がスタートする。

現代編の序盤こそ、なんだか文章がうまくないと感じる部分はあったのですが、
SF色が濃くなった段階から、水を得た魚のように筆致が冴えていきます。
それどころか、展開される話のスケールのダイナミックさと、
それを上滑りさせない説得力が、ぐんぐん読み手を夢中にさせていく。
また、内容のぶっとび具合と現実的に書いていく部分の両輪がしっかりしていて、
地に足がついたような状態で、ふわふわするはずだったSF世界を歩いているような、
味わい深い濃密な没入感を感じることができました。
そして、論理性と直観性が卓越しているなあと。

以下、ちょっとネタバレになるんだけれど、書き残しておきます。

知的生命の存在のレベルに「階梯」があると仮定して描き、
知覚され得ないような、より高次の存在をとらえようと試みたのですね、小松左京は。
小松左京的な「高次の存在の実在」を是とすると、
偶然・虫の知らせ・セレンディピティなどの「たまたまなこと」に意味を付与できます。

「たまたまなこと」が連続するとそれに意味を見出したくなる人っていて、
答えを求めて妙な方面へ歩いて行っちゃうこともあります。
だから、意味のないことにわざわざ意味を引きださないことって大切。
だけど、小松左京は虚構の範囲内に、物語に包んだかたちで意味を引き出してみせた。

「虚構の範囲内」という距離の取り方と、
「物語に包む」という咀嚼とアレンジの仕方で、
うまく料理しないと毒になるものを摂取可能にしたのだと思う。
ただ、小松先生自身は、僕が思うに、
「階梯」の概念は現実におそらく信じていたのではないかという気がする。
それだけの見事さがあります。

それにしたって、
これだけの大風呂敷をひろげて読み手にしっかり期待させておいて、
その期待に期待以上に応えるかたちでちゃんと幕を閉じる。
それをやったのが34歳くらいの段階の人ですよ。
すごい!! と冗談抜きで脱帽しちゃいます。
そのうち、また別の小松作品を味わいたい気がむくむく起きました。
おもしろかった。

ちなみに、読んだ版は1997年版の2014年・第10刷版です。


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