読書。
『真夏の航海』 トルーマン・カポーティ 安西水丸 訳
を読んだ。
カポーティが生前、
出版を望んでいなかったとされる幻の原稿がこの作品です。
10代の後半に書かれたものだということですが、
恐ろしいくらいに「カポーティとして成立している」と言えるのではないか。
たしかに、日本で言えば、新人賞を受賞した作品くらいの程度かもしれないですが、
そこにはもう、後年のカポーティに見られる才気の筆使いがあります。
もっと直しや推敲をほどこしていると、他のカポーティ作品のように、
他の作家の作品にはないような、宝石のような芸術品になったかもしれない。
ただ、カポーティ自身にはなにかひっかかるものがあり、
そこまで仕上げず、そして出版はしなかった。
僕が考えるところだと、
長編『遠い声 遠い部屋』を書きあげて名声をものにする、
その伝説的なストーリーのための、
影での努力の跡なのではないか、ということになります。
ひとつ踏み台があって、ステップ、ジャンプというかたちで
『遠い声 遠い部屋』を世に出したのだけれども、
そこには『真夏の航海』という仕掛け(習作)があった、
という筋道なのではないかな、と。
まあ、カポーティは『真夏の航海』という作品があることは公にしていたようなので、
その努力の痕跡がのこるものは他者の目に触れさせたくない、
ということだったのかもしれません。
それにしても、刺激的でした。
中盤からどんどんカポーティらしい言い回しや描写がほとばしりだして、
読んでいると、ぐらぐら揺さぶられるんですよ。
「そうくるのか……!!」というように感じる言葉たちを、
浴びるように毎行毎行受け取る読書になっていって、強烈でした。
でも、すべてが繊細なんですよねえ。
内容は、17歳のセレブの少女グレディを主人公とするひと夏の人間模様です。
メインは恋ですが、相手役や脇役たちのキャラクターに深みがあり、
特に相手役のクライドの家庭事情が明かされる段になると、
急に物語の陰影が濃くなります。
カポーティは最初、いろいろためしつつ書き、
中盤以降は物語を本気で、そして夢中になって深めていって横にも流れさせながら、
そして文章自体での高級な遊戯も忘れずに没頭したのではないかなと思えました。
村上春樹作品なんかを読むと、
書き手と自分の距離がすごく近く感じられる時があり、
自分は著者と昔からの仲間なのではないかという思いに近い「好意」を持ったものですが、
カポーティの場合は読んでみると自分と近いものがありながらも
そこにはまったく異質なものがしっかりとあり、
でも「そこが」すごく好きで惹かれて、以前は読んでいました。
カポーティに対して、
彼が自分と違う意見を持つ者であっても、
そういう意見だとか思想や主張以前に、
「この人を気にかけていたい」
「親しみを持っていたい」
「まるで関わりのない他人という感覚ではいられない」みたいな気持ちが生じて、
僕に彼の作品を何冊も読ませることになった。
それで『冷血』なり『ティファニーで朝食を』なり、
ほかにいくつもの短篇を読んでみた。
やっぱりどうしても距離があるのだけれど、
それでも繋がっていたいなにかが作品にはあった。
そこのところでもっと理解が進むと、僕は一皮むけるのかもしれません。
で、今回の『真夏の航海』では、
これまでよりもカポーティに近づけた読書になりました。それも格段にです。
それはどうしてなのか。
『真夏の航海』がカポーティの厳しさにはじかれた、
不合格作品として付け入るスキがあるからなのかもしれない。
また、僕自身の小説を読む力がその経験値の上昇であがったためかもしれない。
都会的なものと土着的なものが混淆してのち、
みごとに洗練されて独自の芸術的な領域を開拓されたのだと、僕は勝手に解釈しています。
そして、それはカポーティの内でなされたことです。
どうやってかはわかりませんが、
カポーティの知性、
それも、現実を知り、生きていく世知を知り、
さまざまな知識を消化し蓄えるということを、
質的にも量的にも高くこなし、おまけに早熟というスピードもあった。
くわえて、言語的なセンスがあり、物語の構築力がありといったように、
小説家になる素養がケタ違いに備えられていた人だという感じがする。
で、そういった技術を前面に出すのだけれど、
作品に秘められているのは、
都会性と土着性のどちらにも通低するものがあったりする。
『真夏の航海』には、
カポーティの華やかな創作での活躍のなかで、
そういった特徴的部分を示唆するところがあると思いました。
読んでよかった。楽しめました。
『真夏の航海』 トルーマン・カポーティ 安西水丸 訳
を読んだ。
カポーティが生前、
出版を望んでいなかったとされる幻の原稿がこの作品です。
10代の後半に書かれたものだということですが、
恐ろしいくらいに「カポーティとして成立している」と言えるのではないか。
たしかに、日本で言えば、新人賞を受賞した作品くらいの程度かもしれないですが、
そこにはもう、後年のカポーティに見られる才気の筆使いがあります。
もっと直しや推敲をほどこしていると、他のカポーティ作品のように、
他の作家の作品にはないような、宝石のような芸術品になったかもしれない。
ただ、カポーティ自身にはなにかひっかかるものがあり、
そこまで仕上げず、そして出版はしなかった。
僕が考えるところだと、
長編『遠い声 遠い部屋』を書きあげて名声をものにする、
その伝説的なストーリーのための、
影での努力の跡なのではないか、ということになります。
ひとつ踏み台があって、ステップ、ジャンプというかたちで
『遠い声 遠い部屋』を世に出したのだけれども、
そこには『真夏の航海』という仕掛け(習作)があった、
という筋道なのではないかな、と。
まあ、カポーティは『真夏の航海』という作品があることは公にしていたようなので、
その努力の痕跡がのこるものは他者の目に触れさせたくない、
ということだったのかもしれません。
それにしても、刺激的でした。
中盤からどんどんカポーティらしい言い回しや描写がほとばしりだして、
読んでいると、ぐらぐら揺さぶられるんですよ。
「そうくるのか……!!」というように感じる言葉たちを、
浴びるように毎行毎行受け取る読書になっていって、強烈でした。
でも、すべてが繊細なんですよねえ。
内容は、17歳のセレブの少女グレディを主人公とするひと夏の人間模様です。
メインは恋ですが、相手役や脇役たちのキャラクターに深みがあり、
特に相手役のクライドの家庭事情が明かされる段になると、
急に物語の陰影が濃くなります。
カポーティは最初、いろいろためしつつ書き、
中盤以降は物語を本気で、そして夢中になって深めていって横にも流れさせながら、
そして文章自体での高級な遊戯も忘れずに没頭したのではないかなと思えました。
村上春樹作品なんかを読むと、
書き手と自分の距離がすごく近く感じられる時があり、
自分は著者と昔からの仲間なのではないかという思いに近い「好意」を持ったものですが、
カポーティの場合は読んでみると自分と近いものがありながらも
そこにはまったく異質なものがしっかりとあり、
でも「そこが」すごく好きで惹かれて、以前は読んでいました。
カポーティに対して、
彼が自分と違う意見を持つ者であっても、
そういう意見だとか思想や主張以前に、
「この人を気にかけていたい」
「親しみを持っていたい」
「まるで関わりのない他人という感覚ではいられない」みたいな気持ちが生じて、
僕に彼の作品を何冊も読ませることになった。
それで『冷血』なり『ティファニーで朝食を』なり、
ほかにいくつもの短篇を読んでみた。
やっぱりどうしても距離があるのだけれど、
それでも繋がっていたいなにかが作品にはあった。
そこのところでもっと理解が進むと、僕は一皮むけるのかもしれません。
で、今回の『真夏の航海』では、
これまでよりもカポーティに近づけた読書になりました。それも格段にです。
それはどうしてなのか。
『真夏の航海』がカポーティの厳しさにはじかれた、
不合格作品として付け入るスキがあるからなのかもしれない。
また、僕自身の小説を読む力がその経験値の上昇であがったためかもしれない。
都会的なものと土着的なものが混淆してのち、
みごとに洗練されて独自の芸術的な領域を開拓されたのだと、僕は勝手に解釈しています。
そして、それはカポーティの内でなされたことです。
どうやってかはわかりませんが、
カポーティの知性、
それも、現実を知り、生きていく世知を知り、
さまざまな知識を消化し蓄えるということを、
質的にも量的にも高くこなし、おまけに早熟というスピードもあった。
くわえて、言語的なセンスがあり、物語の構築力がありといったように、
小説家になる素養がケタ違いに備えられていた人だという感じがする。
で、そういった技術を前面に出すのだけれど、
作品に秘められているのは、
都会性と土着性のどちらにも通低するものがあったりする。
『真夏の航海』には、
カポーティの華やかな創作での活躍のなかで、
そういった特徴的部分を示唆するところがあると思いました。
読んでよかった。楽しめました。