Fish On The Boat

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「干渉」が跋扈する世の中。

2021-12-27 11:11:21 | 考えの切れ端
たとえば僕は、「干渉」されるのが好きではありません。親からの過干渉、友人からの干渉、そして仕事上での干渉ですら受け入れられないときがあります。今回はそんな「干渉」を見ていきます。

世の中ってものは「干渉」だらけであることが改めて理解できると思います。そして、意識の底あるいは無意識に密着した「干渉」をうまく対象化できたならば(できるだけ、ということですが)、自制や自律が利いた、より生きやすい世の中に変わるではないかな、と考えます。

そうなんです、「干渉」がまるで秘密裏に市民権を得て人中であぐらをかいている今の世の中は、息苦しかったり生きずらかったりしませんか。より生きやすく、ベターな居心地の世の中になればいいのにと思っての論考です。

「干渉」にはさまざまな形のものがあるのですが、「干渉」というものに分別がないのが今の社会でしょう。まずよくあるのが、親からの「干渉」です。こうしなさい、ああしなさい、などの指示や命令によって他律性を押しつけられる形の「干渉」。いわゆる「お仕着せ」です。重松清さんの小説に、父親(祖父だったかもしれません)からの「過干渉」によって小さな子どもにチック症状が起こるものがありましたが、「干渉」によって自律性を損なわせることは精神的な危機に直結するのだと思います。これがひどいことになると、難癖をつけたりでっちあげたり屁理屈を使ったりしてまで理由をこしらえて「干渉」するタイプの人もいます。これは家庭のなかに限らず、クレーマーやモンスターと呼ばれるタイプの人が似た精神構造をしていると考えています。支配欲があったりします。もっといえば、支配したり自分の思うままに他人を動かさないと自分が不安になるタイプなのではないか。また、こういうケースもあります。不安に長くさらされながらその不安に正面から対峙して解決しようとせず逃げていると「認知の歪み」が生じると言われます。認知が歪むと、なんでもないようなことなのに、その事柄に対して自動的に、これは悪いことだ、と捉えるようになるそうです。そうなると、その悪いことが葛藤になるので(認知的不協和)それを解決するために他人に干渉を始めるものもあるでしょう。

次に仕事上での「干渉」を。上司から、「それじゃダメだ、やりなおしてくれ!」と言われることは珍しくないことでしょうけれども、そういった上下関係による命令・指示は「干渉」の仲間です。仕事によくないところがあったのだから悪いのは「干渉」されるほうだ、と考えるのも珍しくありません。しかし、よりお仕着せ的な「干渉」を行いやすくする下地として、そういった命令・指示は機能しているのでは、と考えられます。まあ、仕事がうまくいかない人に、こうやれ、ああやれ、と口を出し始めればそれはもう正真正銘の「干渉」です。そして、そういう場面はとても多いです。

続いてネット世界などでの「干渉」を見ていきます。ネット掲示板でのコメント欄がにぎやかであれば、多くの人がその件あるいはそのニュースの当事者たちに「干渉」を行っていると見ることができます。炎上もしかりです。赤の他人なのに、やんややんやといろいろな言葉を浴びせる。これ、「干渉」です。同様に誹謗中傷の書き込みが怒涛のように押し寄せられるのも、すべて「干渉」です。さらに考えれば、ツイッターなんかでのエアリプですら「干渉」の性質の強い行動だったりします。

さらに見ていきましょう。TVショウの司会者やゲストの人たち、コメンテーターの人たちが政治や社会現象・社会問題に対してあれこれ発言します。これも良い発言や共感を呼ぶ発言だったとしてもやっぱり「干渉」なんです。社会に積極的にコミットしていく、という多くの場合には「社会参加」よりも「干渉」になっているきらいがあるのではないでしょうか。

まだまだあるでしょうけれども、最後にしますが、広告も「干渉」です。この商品はいかがですか、などと尋ねてもいないのに商品の説明を聞かされたり読まされたりする。また、ケータイに広告メールが入って個人の時間に侵入を受ける。これらは、広告による「干渉」です。

現代は「干渉社会」なのです。では、みんなそんなに「干渉」が気にならなかったりするのでしょうか。いやいや、そうじゃないから息苦しく生きている人が多いのです。ただ、「干渉」には人と繋がりたい欲求がこじれて発現してもいます。つい声をかけてしまう、お節介を焼いてしまう、そういったことは人と繋がりたい気持ちの現れで、「干渉」にならないようにもっとうまくやろうすると、難しくてどんな行動を取ればいいのかわからなくなるでしょう。つまり、受け入れた方がよい「干渉」もあれば、断固拒否するべき「干渉」もあるのだ、と。「干渉」についてわかってきたから全部はねのけよう、ではなく、いいよ全部受け入れよう、でもない、ケースバイケースであたっていくべきです。1か0ではないです。またはもっとグラデーションで考える。パーセンテージですね。これはこれだけ良くない「干渉」の性質が含まれているけど、でも行動するべき「干渉」だと思う、と各々が判断する。そのためには認知の歪みをできるだけ少なくし、自己省察をやってみることが大事になります。自分を省みるのは、自分の向上のためだけではなく、社会のなかでいろいろと良い反射を生む行動なのではないでしょうか。相互に影響を受け合うものですからね、社会は。

というように、まるで集団的無意識のように、みんなの心の中にしれっと潜みこんでいる干渉行動。干渉への疑問が低かったり、もともと無かったりします。そのあたりにメスを入れてみませんか。知るだけでも大きな一歩です。そのちょっとした補佐になれますように、という記事でした。おそまつ。
Comments (2)
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