Fish On The Boat

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『記憶する体』

2023-02-01 14:10:14 | 読書。
読書。
『記憶する体』 伊藤亜紗
を読んだ。

目の見えない人や腕を切断した人、また、先天的に腕のない人。とくに幻肢痛に悩まされる方を多数取材されています。プロローグで述べられているのが、「体のローカル・ルール」という言葉でした。不自由になった中で、自分なりの世界の認識の仕方や感じ方を作り上げていく。たとえば目の見えなくなった人が出先の喫茶店に入れば、健常者だったとしたら視覚で状況を把握しがちですが、本書に登場する目の不自由な人の状況把握は、音の反響の仕方や、人の話し声の多さで店の規模や混雑具合を把握するのです。席に案内されれば、テーブルの手触りや椅子の座り心地を感じ、その素材について考えていたりするということでした。そういうことが、一人ひとりののローカル・ルールとして体の固有性を形作るまでにいたっていく。

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記憶は、蓄積という意味でも、喪失という意味でも、現在の体のあり方を大きく左右します。それは多くの場合、本人の手によってはどうしようもなく起こる変化です。そのどうしようもなさとどう付き合うか。
(p265)

つまり、体の記憶とは、二つの作用が絡み合ってできるものなのです。一つは、ただ黙って眺めるしかない「自然」の作用の結果としての側面。もう一つは、意識的な介入によってもたらされる「人為」の結果としての側面です。
(p271)
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(→障害の状態が変化したり病気になったりするような変化が「自然」の作用の結果としてのもので、試行錯誤の末に新たな工夫を手にしたり、他の誰かの助けを得て自分の体の可能性を発掘することが「人為」の作用の結果である、とp271の引用の前段にあります。)

本書はそのような、健常者が一般的な生き方をしていると見過ごしている先述のようなことにフォーカスし、平易な感覚で掘り下げ、暗黙のものだったそれぞれの「ローカル・ルール」をできるだけ言語化し一般に知らせてくれるような性格を持っていると思いました。

ただ、それぞれに共通項を見出すのはなかなか難しく、障害を持つ方がほんとうにそれぞれのあり方で生活していらっしゃって、ときに相反するような「ローカル・ルール」をお持ちの方が章をまたいで登場されていたりします。エピローグで著者が述べていますが、21世紀初頭の時点においての、日本の科学技術の状況を背景にした、体の記録といった書物としてのまとまりがあり、それぞれのケースを無理なくそのまま本に収めた体裁だといっていいのかもしれません。

こころにひっかかったエピソードは、たとえばエピソード1の視覚障害の方のところからもうありました。視覚障がい者に対する介助者の方の仕事って真面目で、細かくここがどうだとかこうなっているからとか上手に言葉で説明するのだそうです。それは過剰なほどとも障がい者の人にとっては感じられることがあるし、それを聴いてばかりいると自分を失くすような状態に追い込まれもする、と。また、介助者と円滑にやりとりするためには、障がい者が障がい者を演じなければならないようになってしまう、と。

なるほどなあと思ったのです。盲点とまでは言わないし、すべてそうだったとも言わないけれど、僕が自分の生活の中でこれまで流してしまってきた部分がここなのでした。それは僕の家のような在宅介護でも、どこまで手を貸すか、促してあげるかの程度もむずかしいのです。うちの母なんかは、「自分でする!」と強く言うときがあります。ああ、自分をなくす感覚なのだろうなあ、と本書を読みながらちょっとわかりました。

また、エピソード10の吃音当事者の方のところで、「引き込み現象」というものがでてきました。たとえば当事者が現在、自らの吃音の度合いがとても軽い状態だったとしても、他の当事者が重い吃音の症状に苦心しているさまをみてしまうと、自身も過去に重度だったときがあるので、他者の吃音が伝染するかのように自身にも過去の状態のような重い吃音が舞い戻ってきてしまう、というものでした。

このことについては、吃音ではないですが僕にも経験があるなあと思ったのです。それは小説用の文章を書いている時に、過去と比べるとそれなりに進歩した状態まで来たものだと自負していても、何年か前のまだまだ発展途上の未熟さの強い自作の小説作品の文章に触れると、その拙く感じられる文体が伝染してしまい、今の自分の文章も当時の状態に戻ってしまう。まるでこれまで築きあげた自分の文体が過去のある時点にリセットされてしまうかのようなのです。これを恐れて、僕はかなり前の過去作品を読むということをほとんどしません。なんというか、今の技量というか血肉化した文章感覚と、過去のそれとの距離が、なんとも絶妙な気持ち悪さの範囲にあると、引き込み現象が起こります。この絶妙な距離感をなんと表現していいのか、なかなかすぐに浮かんでくるものではなくて、どうやら暗黙の領域下にある感じなのです。

これは吃音の引き込み現象と同じように、言葉を使う領域だからそうなのでしょうか。それとも言葉で仕事をしない大工のような技術仕事や、サッカーなどのスポーツでも起こるものなのか。そこはどうにも僕にはわからないところです。ですが、言葉の領域である小説の文章についての個人的体験で言うと、ほんとうに初期の拙い文章に接したときは、もうそれをかなり克服しているというか、現在はそれを超越できている状態なので、引き込まれることはまずなく、逆に添削ができたりします。引き込まれるのは、言語化がままならず、それだけ現在と過去がちょっと重なり合いのあるときだと思います。また、現在に近い過去についても添削が利く感覚がありますから、やっぱり「絶妙に気持ちの悪い距離感」のところと干渉してしまうと引き込み現象が起こるようです。

というようなところです。ほとんど知らない世界のいろいろなエピソードが綴られていて、このような感想では一割もその内容を伝えることができていません。時間が自分を作っていく、というエピローグの金言に深く首肯するには、それまでのエピソードをよく読みながらの読書体験が不可欠でしょう。世界をより幅広く見るため、それまで数多くの人に見えていなかった視界を知ることのできる良書でした。本を読むうれしさって、こういった体験ができることに大きなところがあります。


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