Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『村上朝日堂』

2023-02-17 21:29:51 | 読書。
読書。
『村上朝日堂』 村上春樹 安西水丸
を読んだ。

1984年刊。『日刊アルバイトニュース』に連載された、安西水丸さんが挿絵を手掛けた村上春樹さんのエッセイ。挿絵で1ページ、エッセイで2ページの計3ページが1篇の分量です。

村上春樹さんって、思ってたよりもずっと外向的だなあ、とこのエッセイから感じられました。アウトサイダーってほどじゃないまともな感じがしてる。なんか、とっても健康なんです。

80年代。こういった、くだらなさと嘘と雑学と気楽さとが混ざり合った空気感の創作物で笑ったり楽しんだりする、というのがおそらく生まれでたのが80年代ですよね。僕は77年生まれなので、物心ついてから小学校を卒業するまで80年代の(でも地方の)空気にどっぷりと染まって育ちました。だから、このエッセイを読むと、当時のどこか空っぽというか、飄々としたというか、そういったすかすかなおしゃれさの、ポジショニングがとても高いところにあったような印象が甦るのです。それは都会的なのでした(まあ、村上さんはそんなおしゃれさから片足をはみ出している感じはあります)。

今読んでみると、またそれとは別の、今だからこその違った感想も、先述の当時を想起して甦るものと並走して立ち上がってくるのでした。並走するもの、それはまず、けっこうな力業で軽業をこなしている感じがあります。書く人は、当時は当時の枠組みの窮屈さを感じていたのでしょうけれども、それでも自由闊達さがそこにはまだある。未知の荒野が眼前に広がっているなかで書いている。

つまり、今と比べてやりにくさというものもあったのだろうけれど、別の意味で今と比べてやりやすさがあったはずで、そのやりやすさはたとえば、書いた文章が売れても密やかな空間で躍動していられる、というのではないかと思う。今と80年代の、衆目というものの違い。今ってとくに情報も文章もバイアスがかけられた状態で広まりやすいだろうから。

今って良くも悪くも、すべてが同一空間に並べられやすい。みんなおしなべてまな板の上の魚にされやすい。1984年って、いくつもの小さなまな板が点在していて、それらはそれぞれの場所で密やかだったのではないか。サブカルの異空間がぽつぽつと別々にあったというみたいに。

だから、それぞれ密やかで目立つことなく、異空間の仕切りで区切られていたから、『村上朝日堂』のようなある種のやりたい放題的散文(そこにはちょっとした放縦ゆえの小さな解放感がある)がエンタメとして成立していたのかもしれない。というかまあ、そのやりたい放題が当時の若さの一面なんだろうね。本書刊行時の村上春樹さんは35歳前後だし、大人として書いているのだけど、それでも今の僕が読むと「まだまだ青さがあるぞ」と読めてしまう。そして、どことなく乱暴さをうっすらとはらんでいる。それはこの時代に許されていた(あるいは抑えられていなかった)、無知のゆえの乱暴さではないか。無知というか、当時、未だ知られていないものが多すぎて、許容されざるを得なかったものや議論されずにいたものたちの自由さ(勝手さ)からくる乱暴さ。文化人の中で、武闘派でもない、たぶん穏健派に仕訳されるような少数の人たちのなかにも、そういった「腕力」が簡単に見受けられる時代だったのでしょう。いや、現在の時代性からくる価値観で眺めると、そこに「腕力」が見えるだけで、当時はとても平和的なものとして目に映っていたと思います。こういうかたちで時代の変化を体感するとは、思いもよりませんでした。

本書のような、放縦な創作。それは、現代では抑圧がすごくてなかなか作る気にならないというか、たぶん視野の外にあるような創作論からできている。現代のこの息苦しさを認めてしまっていいのかなあ。ほどほどに放縦できるくらいが生きやすい。枠内にばかり収めようとせず、ボーダーライン上だとかグレーなところだとかを狙っていこう、と言いたくなってくるのでした。

……と論じてみてもまあ、これは完全に後出しじゃんけんであります。今回は言いたい放題ぽく書いてみました。


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