読書。
『颶風の王』 河﨑秋子
を読んだ。
明治の初めの頃でしょうか。東北の庄屋の娘が雪崩の被害に遭いながら、偶然生じた雪洞の中に乗ってきた馬と共にまぎれる。助けの望めないまま、長い間馬とその雪洞に過ごす娘は、空腹のためにその馬を食べ、生き延びるのだけれど……。
娘が生んだ捨造は一頭の馬と共に開拓民を募集していた北海道に渡り、以後、根室にて主に馬の生産で食べていく。その捨造から5代にわたる家族の話です。
力強いストーリーテリングでした。僕が通ってこなかった道に咲いている言葉の花たちを多く所持しているような著者、という印象がまずありました。時代小説として始まることもあり、その語彙の種類や言葉の用い方が、僕のカバーしていない領域にあるものみたいな感じなのでした。しかし、自分と近い言語感覚では無いから面白くはないということはなくて、序盤から惹きつけられるのです。すごかったです。そして、語彙や文体や内容から、著者はこれまで手を抜かずに生きてこられたのではないかなぁというような強い感じを受けました。
作者のデビュー作なのですが、その時点での持てる力を最大限に発揮してつくった、自身として渾身かつ最高のものといったような、力のある作品という感じで第一章を読み終えました。第二章も素晴らしく、第三章に入ると舞台は現代にうつるので現代小説といった向きが強くなり、文章の持つ匂いが少々薄まったように感じられましたが、読み進めるうちにそんな第三章の現代小説の文体になれてきたためか、その奥からそれまでの章に宿っていた匂いが再び立ち現れてくるのでした。
物語を作ることへの「挑む」というその精神のあり方がうかがえて、「素晴らしいな!」と作家を一人の人として見た分へのリスペクトの気持ちが生まれます。これってたぶん、作家の生きる態度なんでしょう。負けてられないぞって思っちゃいます。
フィクションを作るのって、油断すると無味乾燥というか張りぼてと言うか、空疎なものができあがりがちなのだと思います。血が通っていて、現実と地続きで、それでいて眼前にまざまざと浮かび、温度や匂いまでをも感じるような夢を見させてくれるのがこの作品でした。心して最後まで読みましたし、そうした分のお返しを存分にしてくれる作品でした。楽しみました。
最後に、引用を。
__________
及ばぬ。
人の意志が、願いが、及ばぬ。
ひかりの脳裏に強い文言が蘇る。オヨバヌ。祖母が繰り返していた言葉だ。地も海も空も、人の計画に沿って動いてはくれない。祈りなど通じず、時に手酷く裏切ったりもする。それは人がここで生き、山海から食物を得るうえで、致し方ないことなのだと。(p198)
__________
→自然の姿をそのままのものとしてとらえている箇所です。僕も同じ意味のことを秘密のファイルにメモっていたりしますが、自然とは人間のためにあるのではなく、時に人間にとって非道なふるまいをするものです。温かで優しいと人間が感じる面を見せたかと思うと、情け容赦なく人間をゴミのように蹴散らしたりもする。もともと人間が自然環境に合わせて適応したのであって、自然が人間に合わせて出来上がっているわけではないのだし、人間の適応についても、自然の「人間にとって都合のいいおだやかな範囲」が比較的幅広いため、それに合う形でそうなっていたりするんだと思います。そもそも、温かいとか優しいとか穏やかだとか、擬人化して自然を近しく感じるのは人間の勝手。そしてそれは空想の範囲の話であって、自然そのものとしっかり相手するときには、そういった空想のフィルターを外して考えないと、命取りにもなり得るものではないでしょうか。本書のこの文章は、そういったことが端的に表現されていて、深く肯いたところなのでした。
ネタバレになりますが、この「オヨバヌ」が、馬を食べた娘から始めて6世代にわたるこの物語の幕を引く鍵になるのでした。
こういった、挑んで書いて成し遂げた作品に触れると、やる気になったり生きる気持ちが強くなったりと好い影響を受けるものですね。おもしろかった。
『颶風の王』 河﨑秋子
を読んだ。
明治の初めの頃でしょうか。東北の庄屋の娘が雪崩の被害に遭いながら、偶然生じた雪洞の中に乗ってきた馬と共にまぎれる。助けの望めないまま、長い間馬とその雪洞に過ごす娘は、空腹のためにその馬を食べ、生き延びるのだけれど……。
娘が生んだ捨造は一頭の馬と共に開拓民を募集していた北海道に渡り、以後、根室にて主に馬の生産で食べていく。その捨造から5代にわたる家族の話です。
力強いストーリーテリングでした。僕が通ってこなかった道に咲いている言葉の花たちを多く所持しているような著者、という印象がまずありました。時代小説として始まることもあり、その語彙の種類や言葉の用い方が、僕のカバーしていない領域にあるものみたいな感じなのでした。しかし、自分と近い言語感覚では無いから面白くはないということはなくて、序盤から惹きつけられるのです。すごかったです。そして、語彙や文体や内容から、著者はこれまで手を抜かずに生きてこられたのではないかなぁというような強い感じを受けました。
作者のデビュー作なのですが、その時点での持てる力を最大限に発揮してつくった、自身として渾身かつ最高のものといったような、力のある作品という感じで第一章を読み終えました。第二章も素晴らしく、第三章に入ると舞台は現代にうつるので現代小説といった向きが強くなり、文章の持つ匂いが少々薄まったように感じられましたが、読み進めるうちにそんな第三章の現代小説の文体になれてきたためか、その奥からそれまでの章に宿っていた匂いが再び立ち現れてくるのでした。
物語を作ることへの「挑む」というその精神のあり方がうかがえて、「素晴らしいな!」と作家を一人の人として見た分へのリスペクトの気持ちが生まれます。これってたぶん、作家の生きる態度なんでしょう。負けてられないぞって思っちゃいます。
フィクションを作るのって、油断すると無味乾燥というか張りぼてと言うか、空疎なものができあがりがちなのだと思います。血が通っていて、現実と地続きで、それでいて眼前にまざまざと浮かび、温度や匂いまでをも感じるような夢を見させてくれるのがこの作品でした。心して最後まで読みましたし、そうした分のお返しを存分にしてくれる作品でした。楽しみました。
最後に、引用を。
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及ばぬ。
人の意志が、願いが、及ばぬ。
ひかりの脳裏に強い文言が蘇る。オヨバヌ。祖母が繰り返していた言葉だ。地も海も空も、人の計画に沿って動いてはくれない。祈りなど通じず、時に手酷く裏切ったりもする。それは人がここで生き、山海から食物を得るうえで、致し方ないことなのだと。(p198)
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→自然の姿をそのままのものとしてとらえている箇所です。僕も同じ意味のことを秘密のファイルにメモっていたりしますが、自然とは人間のためにあるのではなく、時に人間にとって非道なふるまいをするものです。温かで優しいと人間が感じる面を見せたかと思うと、情け容赦なく人間をゴミのように蹴散らしたりもする。もともと人間が自然環境に合わせて適応したのであって、自然が人間に合わせて出来上がっているわけではないのだし、人間の適応についても、自然の「人間にとって都合のいいおだやかな範囲」が比較的幅広いため、それに合う形でそうなっていたりするんだと思います。そもそも、温かいとか優しいとか穏やかだとか、擬人化して自然を近しく感じるのは人間の勝手。そしてそれは空想の範囲の話であって、自然そのものとしっかり相手するときには、そういった空想のフィルターを外して考えないと、命取りにもなり得るものではないでしょうか。本書のこの文章は、そういったことが端的に表現されていて、深く肯いたところなのでした。
ネタバレになりますが、この「オヨバヌ」が、馬を食べた娘から始めて6世代にわたるこの物語の幕を引く鍵になるのでした。
こういった、挑んで書いて成し遂げた作品に触れると、やる気になったり生きる気持ちが強くなったりと好い影響を受けるものですね。おもしろかった。