読書。
『街とその不確かな壁』 村上春樹
を読んだ。
滑り出しは慎重な感じがしました。50ページくらいまで読むと、でももうすっぽりとその世界の内側に、いつの間にやら無自覚に深く入りこんでいることに気づきました。思いのほか森の奥まで足を踏み入れてしまっていたみたいに。そして、物語の中の時間の流れ方と読んでいる時の自分自身の時間の流れ方が、すうっと同期していくその感覚がとても好ましい。
__________
というのは、その香りは私を知らず知らず深い夢想の世界に誘っていくように思えたからだ。人の心を枠組みのない世界に引き込んでいく気配がそこにはあった。(p270)
__________
という文章があるのですが、小説がまさに自己言及しているかのように感じられました。ぐうっと物語世界に引き込まれていく感覚が、まるでこの文章のようです。物語が少しずつ遷移していくその仕方のきめ細かさという点にはほんとうに恐れ入りました。
さて、ネタバレの感想になります。これから読もうとしている方は要注意です。単刀直入に核心部分に触れていきます。その分、本作品の豊かな味わいについては削いでしまっているので、僕の分析や感想のその外側には、僕の語りの100倍以上の豊潤さを感じさせる物語世界が広がっていることはお忘れなく。
終盤、イエロー・サブマリンの少年との会話で、「街」にいる主人公と少年は、虚空に浮かんでいるような状態なんじゃないかという仮説が立ちあがります。物語の内に住まう人々からすればそういう視点での語り方になるだろうけれど、この物語の読者からしてみれば、この「街」自体が、というか、最初に書かれた「街と、その不確かな壁(1980年)」という作品自体が、虚空に浮かんでいるような存在であって、それを、人間存在や現実世界といった血が通っていたり土臭かったりするものに連結すること、このモチーフと架橋する行為を成したのが、今作『街とその不確かな壁』なのではないか、という気がしました。
影とは何ぞや、どうして影と本体は引きはがされているのか。そして壁とは何なのか。つまりどういったメタファーなのか。ひとつの読みとして、二段階で考えられると思うのです。個人のレベルと、社会のレベルでです。文学作品にこういう分析をしてしまうと、まったくもって味気ないのですが、メモ書きのように書いていきます、ご了承ください。
「街」で暮らすことは、個人のレベルでいえば、殻にこもり、自身の純粋な部分だけで生きていくこと、つまりごみごみとして生臭い現実の世界とは決別して、自己完結した世界で生きていくこと、そう言ったことを意味するようにも感じられます。ここでは、影という存在は、その人の現実性なのかもしれない。現実性(そこには社会性といったものが少なからず含まれている)を門衛がナイフではぎとり、別々に分離させて、その本体だけしか入れないのが「街」です。「街」は、古びていて、荒れていて、寂れていて、かなり貧しい。でも、そこでは、経済的な豊かさはなくとも、充足を得ることができる。貧しくとも、まず、やっていけるのです。さらにいえば、好きだった少女と会える幸福感までがある。
それでですが、そういった「街」に籠もることは、単純に「逃避」であるとは決めつけられないことだと思うのです。物語の最後に、主人公には街から出て行く時期が訪れますが、やっぱり、自分を回復する、という作用を求めてその「街」に入ってきたのだと思う。壁は、そのための防御壁です。しかし、主人公の認識の届くか届かないかのところで、壁は微妙に形を変えたり、行く手を阻んだりします。そこはたとえば、壁があれば単純に防御壁としての機能しか見出さないのは、人間側の都合に合わせた勝手な解釈と決めつけであり、物事にはやはり両面的だったり多義的だったりする性質が備わっているものでしょう。ですから、壁もまた例外ではなく、街に取り込んだものは、そこから出そうとしないのです。それは、行き過ぎた母性がそうであるように、保護と囲い込みとがあるのです。子離れするのが難しい、みたいな心理に近いのだと思います。
さて、もう一つの、社会のレベルでの見方ですが、壁で囲まれた世界、それは社会だと仮定して読み解くことができるとも思うのです。この、「街」にいる私たちは、社会で暮らしている私たちなのです。そして、社会で暮らしているということは、人間性のある部分を社会に渡してしまうことを知らず知らずに要求されてそれに従い生きていることなのではないか。
壁で囲まれていることで、私たちは恩恵を受けている。壁で囲った町は、秩序という安全と安心、秩序による効率性への基盤という役割を持っています。私たちは、何の気なしに、自然とそういった世界に生きていますが、果たして、本来の人間性というものからその一部分を社会に差し渡していることを知らないのではないか(また、秩序は、その意向に沿わないものを排除する性質がありますし)。「街」が影をその内部には入れないのと同じように、人間性のすべてを社会は受け入れていない。ほとんど自覚することもなく、この社会で暮らすということは、影を引き剝がされて生きていくことになっている。なので、街から出て行くことは、「ポスト現存社会」ともとらえることができると思うのです。現存の社会体制から出て行くときに、それを受け止めてくれる人たちがいるかどうか。影と一体となって、つまり人間性を十全に回復した人が、弾かれないくらいの許容力を持った、新たな世界を作っていくことができるのか。そこが、物語の範囲外で求められ、委ねられるものだと解釈できそうに僕は思いました。
では、ここからは余談のようなものになります。イエロー・サブマリンの少年が、主人公やコーヒーショップの女性に生年月日を聞き、「水曜日」と教える場面があります。図らず、その二人は水曜日に生まれたということでした。実は僕も水曜日の生まれなんです。昔調べたことがあるし、この読書を機会にグーグルでもう一度調べてみました。マザーグースに「水曜日の子供は苦しいことだらけ」とあると、司書の添田さんが言います。気にすることはないといいつつ。苦しいことが多いな、と僕は笑ってしまいました。
イエロー・サブマリンの少年はサヴァン症候群のようで、読書量は半端じゃなく、あらゆる方向に好奇心が向かっているのか、ランダムに乱読しています。わかっている読書記録のなかには、『ホーキング、宇宙を語る』もありました。これ、僕が小5か小6の頃に父親の書棚から勝手に取り出して序盤だけ読んだ本なんです。マルチバース論のことが書かれていて、学校の授業の最中ひょんなことからそのことについて発言した時があって、先生が興奮してしまったのを覚えています。
そしてですよ、本書の発売日がうれしい。巻末の発行日の記載は4月10日になっていますが、実際に本屋に並んだのは4月13日。奇しくも僕の誕生日なのでした。
こういうリンクというか偶然というかが、より自分に引き寄せた読書体験へ誘っていく感じがあります。通常の読書よりも、自分ごとに近く、親身な気持ちで読めてしまうというような。
村上春樹さんが45歳を迎えてからの数か月、僕は自分の誕生日を迎えるまで16歳でした。この小説の主人公が45歳で、イエロー・サブマリンの少年が16歳であるように。そして、僕が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』やそのほかの短編集を読んでいたのが、つまり16歳だったと思う。そして、この小説が書きあがったころ、僕は45歳でした。もともと、二人で一人の存在だと、イエロー・サブマリンの少年は言うんですよ。もう、たまらなく顔がほてってきます。
『街とその不確かな壁』 村上春樹
を読んだ。
滑り出しは慎重な感じがしました。50ページくらいまで読むと、でももうすっぽりとその世界の内側に、いつの間にやら無自覚に深く入りこんでいることに気づきました。思いのほか森の奥まで足を踏み入れてしまっていたみたいに。そして、物語の中の時間の流れ方と読んでいる時の自分自身の時間の流れ方が、すうっと同期していくその感覚がとても好ましい。
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というのは、その香りは私を知らず知らず深い夢想の世界に誘っていくように思えたからだ。人の心を枠組みのない世界に引き込んでいく気配がそこにはあった。(p270)
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という文章があるのですが、小説がまさに自己言及しているかのように感じられました。ぐうっと物語世界に引き込まれていく感覚が、まるでこの文章のようです。物語が少しずつ遷移していくその仕方のきめ細かさという点にはほんとうに恐れ入りました。
さて、ネタバレの感想になります。これから読もうとしている方は要注意です。単刀直入に核心部分に触れていきます。その分、本作品の豊かな味わいについては削いでしまっているので、僕の分析や感想のその外側には、僕の語りの100倍以上の豊潤さを感じさせる物語世界が広がっていることはお忘れなく。
終盤、イエロー・サブマリンの少年との会話で、「街」にいる主人公と少年は、虚空に浮かんでいるような状態なんじゃないかという仮説が立ちあがります。物語の内に住まう人々からすればそういう視点での語り方になるだろうけれど、この物語の読者からしてみれば、この「街」自体が、というか、最初に書かれた「街と、その不確かな壁(1980年)」という作品自体が、虚空に浮かんでいるような存在であって、それを、人間存在や現実世界といった血が通っていたり土臭かったりするものに連結すること、このモチーフと架橋する行為を成したのが、今作『街とその不確かな壁』なのではないか、という気がしました。
影とは何ぞや、どうして影と本体は引きはがされているのか。そして壁とは何なのか。つまりどういったメタファーなのか。ひとつの読みとして、二段階で考えられると思うのです。個人のレベルと、社会のレベルでです。文学作品にこういう分析をしてしまうと、まったくもって味気ないのですが、メモ書きのように書いていきます、ご了承ください。
「街」で暮らすことは、個人のレベルでいえば、殻にこもり、自身の純粋な部分だけで生きていくこと、つまりごみごみとして生臭い現実の世界とは決別して、自己完結した世界で生きていくこと、そう言ったことを意味するようにも感じられます。ここでは、影という存在は、その人の現実性なのかもしれない。現実性(そこには社会性といったものが少なからず含まれている)を門衛がナイフではぎとり、別々に分離させて、その本体だけしか入れないのが「街」です。「街」は、古びていて、荒れていて、寂れていて、かなり貧しい。でも、そこでは、経済的な豊かさはなくとも、充足を得ることができる。貧しくとも、まず、やっていけるのです。さらにいえば、好きだった少女と会える幸福感までがある。
それでですが、そういった「街」に籠もることは、単純に「逃避」であるとは決めつけられないことだと思うのです。物語の最後に、主人公には街から出て行く時期が訪れますが、やっぱり、自分を回復する、という作用を求めてその「街」に入ってきたのだと思う。壁は、そのための防御壁です。しかし、主人公の認識の届くか届かないかのところで、壁は微妙に形を変えたり、行く手を阻んだりします。そこはたとえば、壁があれば単純に防御壁としての機能しか見出さないのは、人間側の都合に合わせた勝手な解釈と決めつけであり、物事にはやはり両面的だったり多義的だったりする性質が備わっているものでしょう。ですから、壁もまた例外ではなく、街に取り込んだものは、そこから出そうとしないのです。それは、行き過ぎた母性がそうであるように、保護と囲い込みとがあるのです。子離れするのが難しい、みたいな心理に近いのだと思います。
さて、もう一つの、社会のレベルでの見方ですが、壁で囲まれた世界、それは社会だと仮定して読み解くことができるとも思うのです。この、「街」にいる私たちは、社会で暮らしている私たちなのです。そして、社会で暮らしているということは、人間性のある部分を社会に渡してしまうことを知らず知らずに要求されてそれに従い生きていることなのではないか。
壁で囲まれていることで、私たちは恩恵を受けている。壁で囲った町は、秩序という安全と安心、秩序による効率性への基盤という役割を持っています。私たちは、何の気なしに、自然とそういった世界に生きていますが、果たして、本来の人間性というものからその一部分を社会に差し渡していることを知らないのではないか(また、秩序は、その意向に沿わないものを排除する性質がありますし)。「街」が影をその内部には入れないのと同じように、人間性のすべてを社会は受け入れていない。ほとんど自覚することもなく、この社会で暮らすということは、影を引き剝がされて生きていくことになっている。なので、街から出て行くことは、「ポスト現存社会」ともとらえることができると思うのです。現存の社会体制から出て行くときに、それを受け止めてくれる人たちがいるかどうか。影と一体となって、つまり人間性を十全に回復した人が、弾かれないくらいの許容力を持った、新たな世界を作っていくことができるのか。そこが、物語の範囲外で求められ、委ねられるものだと解釈できそうに僕は思いました。
では、ここからは余談のようなものになります。イエロー・サブマリンの少年が、主人公やコーヒーショップの女性に生年月日を聞き、「水曜日」と教える場面があります。図らず、その二人は水曜日に生まれたということでした。実は僕も水曜日の生まれなんです。昔調べたことがあるし、この読書を機会にグーグルでもう一度調べてみました。マザーグースに「水曜日の子供は苦しいことだらけ」とあると、司書の添田さんが言います。気にすることはないといいつつ。苦しいことが多いな、と僕は笑ってしまいました。
イエロー・サブマリンの少年はサヴァン症候群のようで、読書量は半端じゃなく、あらゆる方向に好奇心が向かっているのか、ランダムに乱読しています。わかっている読書記録のなかには、『ホーキング、宇宙を語る』もありました。これ、僕が小5か小6の頃に父親の書棚から勝手に取り出して序盤だけ読んだ本なんです。マルチバース論のことが書かれていて、学校の授業の最中ひょんなことからそのことについて発言した時があって、先生が興奮してしまったのを覚えています。
そしてですよ、本書の発売日がうれしい。巻末の発行日の記載は4月10日になっていますが、実際に本屋に並んだのは4月13日。奇しくも僕の誕生日なのでした。
こういうリンクというか偶然というかが、より自分に引き寄せた読書体験へ誘っていく感じがあります。通常の読書よりも、自分ごとに近く、親身な気持ちで読めてしまうというような。
村上春樹さんが45歳を迎えてからの数か月、僕は自分の誕生日を迎えるまで16歳でした。この小説の主人公が45歳で、イエロー・サブマリンの少年が16歳であるように。そして、僕が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』やそのほかの短編集を読んでいたのが、つまり16歳だったと思う。そして、この小説が書きあがったころ、僕は45歳でした。もともと、二人で一人の存在だと、イエロー・サブマリンの少年は言うんですよ。もう、たまらなく顔がほてってきます。