読書。
『歴史とは何か』 E・H・カー 清水幾太郎 訳
を読んだ。
初版は60年も前に発行された岩波新書の名著と言われる本。6つの講演をテキスト化したものです。最近、新訳版が発刊されましたが、今回僕が読んだものは、それとは違います。クラシックな名著であり、読み下すのにはちょっと労力がいりました。
序盤にまず、「歴史とは何か」についての著者としての最初の答えが示されます。歴史とは、現在と過去の対話である、と。相互的なのです。今が変われば、過去も変わるし、そうやって過去が変わると、今にも影響が出てくる。そういうインタラクティブなものだというとらえ方は、たとえば僕が学生の頃の社会科の授業ではまったくでてこなかったです、本書が世に出てしばらく後の時期だったのに。
ともすれば、歴史とはゆるぎない事実について、その真実をつきとめるもの、ととらえてしまいます。絶対不変の真実があって、それをつきとめるのが歴史なのだ、と。しかし、著者が説得力をもって解説する歴史とは、そういうものではない。可変的なものであるし、どうしても歴史家の主観が混ざりこむものなんで、完璧であることはありえないのでした。
だからこそ、著者は微に入り細を穿つような事実収集による歴史考察を否定しています。しかしながら、ちょっと脱線して考えたのは、この事実収集の方法論って、事件の捜査では奨励されることであり、歴史の方法論とは真逆だったりするのではないか、ということ。分野によって違ってくるわけで、「これはこうだったからあれもこうでいけるに違いない」という不注意な類推はいけない、ペケなんだ、ってことが学べます。本書でも、歴史から学ぶ点などについて、不注意な類推は避けるように、と注意喚起されていました。
考えさせられながら肯いたのは、「巨大な非個人的な諸力」つまり、諸個人の力についてのところ。名の知れぬ数百万の人たちこそが諸個人の力といわれる力で、そういう大きな数になったときに、政治力となる、といいます。フランス革命しかり、です。そうであってこそ歴史となるわけで、歴史とは数である、と著者は主張している。また、諸個人の力が、彼らが誰ひとりとして欲していなかった結果を招くことは珍しくない、とも解説しています。というか、歴史をねじまげる力がある、と。二度の世界大戦や世界恐慌などがそうだと著者はさまざまな歴史家の主張を引きながら述べています。
また、「社会」vs「個人」という対比、つまり「社会」か「個人」か、という見方ですけれども、そういった見方はナンセンスだ、とあります。社会に反抗する叛逆者であっても、社会に対する個人としてとらえるよりかは、社会の産物であり反映である、と著者は考えている。このあたりも、納得しました。著者は、歴史についての絶対がない、ということでもそうでしたが、ある領域の「外」を設定することの間違いを何度も説いている。歴史についての絶対的で客観的な「外」はないし、社会についても社会に対するその社会の「外」に位置する個人というものはない、とします。この発想というか、発想を考え抜いたひとつの強い知見が、本書のひとつの強靭な柱になっているようにも読み受けられました。
あと、おもしろいのはp46にあった以下のような内容のところです。自分に有利な施策は推進しようとし、不利益な施策は阻止しようと努力するのは、当たり前のこと、というのがそれでした。欧州的な、闘争の世界観ですね。こういった世界観が常識として根付いている。スポーツの世界でのルール変更が、力のある欧州有利に働くことは多々ありますけども、その考え方の根っこはこういうところにあるのでしょう。
脱線した箇所になりますがもうひとつ、ちょっとおもしろいところを。
_______
「時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」(p185にてゲーテの引用)
_______
いろいろと考えさせられるところのある言葉です。僕は創造性にとって客観性は外せない要素だと思っていて、たとえばこれからつくるまだ目には見えないものをイメージする段階においても、それが主観的だとすぐに現実から逸れたりずれたりしがち。人間の主観は、客観が手綱をひいて操縦しないと意図しない方向へ走り出してしまう感じがある。時代が新しい時代へ成長しているときに、客観が手綱をひいてやらなければそのせっかくのかけがえのない創造はバランスを欠いたり、崩れたりしてしまう。創造への本気の態度は、必ず構築を達成する、という態度ではないでしょうか。そのための客観。時代が下り坂だと主観的傾向になる、というのは、下りの時代的なネガティブな気分に押し流されて自分を見失ってしまわないために、自分を自分のなかに繋ぎとめて下り坂を転がっていくのを防ぐための主観なのではないでしょうか。時代との同期を断ち切るための、主観。人間って、時代の隆盛と衰微を意識的にとらえると、それが無意識に落ちていくとそこで主観や客観の使用度合いを変えるくらいのことを自動的にやると思うんですよ。そんな具合に、人間ってできていますよね、たぶん。
最後に、「理性」についての考察の部分を。たとえば、精神分析を作り上げたフロイトを、その仕事の成果から、「理性」を拡張した人物と著者は位置付けています。フロイトに限らず、新たな知の発見は、「理性」を拡張するのです。「理性」の拡張、という言葉の使い方、そういった把握の仕方は、60年以上前の論説でもいまなお新しく、僕にとっては新鮮な風のようでした。
実践的なものや具体的なものを挙げて、それを賞賛し、他方で理想や綱領のような抽象的で観念的なものを非難する、そういったあり方が保守主義。保守主義は、「理性」を現存秩序という前提に従属するものと位置づけてしまいます。つまり、現存の秩序は絶対で、揺るぎないものとし、誰によっても揺るがせてはならない、とする。しかしながら、保守主義と相対する自由主義は、「理性」の名において現存制度などの秩序に挑んでいくもの、社会の基礎をなす前提に向かって、根本的挑戦を試みる、という大胆な覚悟を通して生まれてきたものだ、と著者は述べています。そのうえで、著者の立場として、歴史家、社会学者、政治思想家がこの仕事に進む勇気を取り戻す日を待ち望んでいる、と言い切っていました。そして、自由主義のほうが、大きなクリエイティブという感じがしました。
というところですが、内容がぎゅっとみっしり詰まっていますし、わかりにくい論理展開だと思う部分もたくさんありました。読み切れていないところ、誤読しているところもあるでしょう。だとしても、よい出合いでした。著者とぶつかりあいながら、でもときに肩を組みながら、読み終えたような読書です。しゃべり言葉といえど、骨太です。著者の頭脳の強大で強靭で柔軟なさまをみてとれると思います。そういった人物がいること、こんなに考えることができる人間っているんだ、と知ることは、本書の内容を知ることとは別に、人生の糧となるものだと思いました。
『歴史とは何か』 E・H・カー 清水幾太郎 訳
を読んだ。
初版は60年も前に発行された岩波新書の名著と言われる本。6つの講演をテキスト化したものです。最近、新訳版が発刊されましたが、今回僕が読んだものは、それとは違います。クラシックな名著であり、読み下すのにはちょっと労力がいりました。
序盤にまず、「歴史とは何か」についての著者としての最初の答えが示されます。歴史とは、現在と過去の対話である、と。相互的なのです。今が変われば、過去も変わるし、そうやって過去が変わると、今にも影響が出てくる。そういうインタラクティブなものだというとらえ方は、たとえば僕が学生の頃の社会科の授業ではまったくでてこなかったです、本書が世に出てしばらく後の時期だったのに。
ともすれば、歴史とはゆるぎない事実について、その真実をつきとめるもの、ととらえてしまいます。絶対不変の真実があって、それをつきとめるのが歴史なのだ、と。しかし、著者が説得力をもって解説する歴史とは、そういうものではない。可変的なものであるし、どうしても歴史家の主観が混ざりこむものなんで、完璧であることはありえないのでした。
だからこそ、著者は微に入り細を穿つような事実収集による歴史考察を否定しています。しかしながら、ちょっと脱線して考えたのは、この事実収集の方法論って、事件の捜査では奨励されることであり、歴史の方法論とは真逆だったりするのではないか、ということ。分野によって違ってくるわけで、「これはこうだったからあれもこうでいけるに違いない」という不注意な類推はいけない、ペケなんだ、ってことが学べます。本書でも、歴史から学ぶ点などについて、不注意な類推は避けるように、と注意喚起されていました。
考えさせられながら肯いたのは、「巨大な非個人的な諸力」つまり、諸個人の力についてのところ。名の知れぬ数百万の人たちこそが諸個人の力といわれる力で、そういう大きな数になったときに、政治力となる、といいます。フランス革命しかり、です。そうであってこそ歴史となるわけで、歴史とは数である、と著者は主張している。また、諸個人の力が、彼らが誰ひとりとして欲していなかった結果を招くことは珍しくない、とも解説しています。というか、歴史をねじまげる力がある、と。二度の世界大戦や世界恐慌などがそうだと著者はさまざまな歴史家の主張を引きながら述べています。
また、「社会」vs「個人」という対比、つまり「社会」か「個人」か、という見方ですけれども、そういった見方はナンセンスだ、とあります。社会に反抗する叛逆者であっても、社会に対する個人としてとらえるよりかは、社会の産物であり反映である、と著者は考えている。このあたりも、納得しました。著者は、歴史についての絶対がない、ということでもそうでしたが、ある領域の「外」を設定することの間違いを何度も説いている。歴史についての絶対的で客観的な「外」はないし、社会についても社会に対するその社会の「外」に位置する個人というものはない、とします。この発想というか、発想を考え抜いたひとつの強い知見が、本書のひとつの強靭な柱になっているようにも読み受けられました。
あと、おもしろいのはp46にあった以下のような内容のところです。自分に有利な施策は推進しようとし、不利益な施策は阻止しようと努力するのは、当たり前のこと、というのがそれでした。欧州的な、闘争の世界観ですね。こういった世界観が常識として根付いている。スポーツの世界でのルール変更が、力のある欧州有利に働くことは多々ありますけども、その考え方の根っこはこういうところにあるのでしょう。
脱線した箇所になりますがもうひとつ、ちょっとおもしろいところを。
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「時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」(p185にてゲーテの引用)
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いろいろと考えさせられるところのある言葉です。僕は創造性にとって客観性は外せない要素だと思っていて、たとえばこれからつくるまだ目には見えないものをイメージする段階においても、それが主観的だとすぐに現実から逸れたりずれたりしがち。人間の主観は、客観が手綱をひいて操縦しないと意図しない方向へ走り出してしまう感じがある。時代が新しい時代へ成長しているときに、客観が手綱をひいてやらなければそのせっかくのかけがえのない創造はバランスを欠いたり、崩れたりしてしまう。創造への本気の態度は、必ず構築を達成する、という態度ではないでしょうか。そのための客観。時代が下り坂だと主観的傾向になる、というのは、下りの時代的なネガティブな気分に押し流されて自分を見失ってしまわないために、自分を自分のなかに繋ぎとめて下り坂を転がっていくのを防ぐための主観なのではないでしょうか。時代との同期を断ち切るための、主観。人間って、時代の隆盛と衰微を意識的にとらえると、それが無意識に落ちていくとそこで主観や客観の使用度合いを変えるくらいのことを自動的にやると思うんですよ。そんな具合に、人間ってできていますよね、たぶん。
最後に、「理性」についての考察の部分を。たとえば、精神分析を作り上げたフロイトを、その仕事の成果から、「理性」を拡張した人物と著者は位置付けています。フロイトに限らず、新たな知の発見は、「理性」を拡張するのです。「理性」の拡張、という言葉の使い方、そういった把握の仕方は、60年以上前の論説でもいまなお新しく、僕にとっては新鮮な風のようでした。
実践的なものや具体的なものを挙げて、それを賞賛し、他方で理想や綱領のような抽象的で観念的なものを非難する、そういったあり方が保守主義。保守主義は、「理性」を現存秩序という前提に従属するものと位置づけてしまいます。つまり、現存の秩序は絶対で、揺るぎないものとし、誰によっても揺るがせてはならない、とする。しかしながら、保守主義と相対する自由主義は、「理性」の名において現存制度などの秩序に挑んでいくもの、社会の基礎をなす前提に向かって、根本的挑戦を試みる、という大胆な覚悟を通して生まれてきたものだ、と著者は述べています。そのうえで、著者の立場として、歴史家、社会学者、政治思想家がこの仕事に進む勇気を取り戻す日を待ち望んでいる、と言い切っていました。そして、自由主義のほうが、大きなクリエイティブという感じがしました。
というところですが、内容がぎゅっとみっしり詰まっていますし、わかりにくい論理展開だと思う部分もたくさんありました。読み切れていないところ、誤読しているところもあるでしょう。だとしても、よい出合いでした。著者とぶつかりあいながら、でもときに肩を組みながら、読み終えたような読書です。しゃべり言葉といえど、骨太です。著者の頭脳の強大で強靭で柔軟なさまをみてとれると思います。そういった人物がいること、こんなに考えることができる人間っているんだ、と知ることは、本書の内容を知ることとは別に、人生の糧となるものだと思いました。
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