*
毎夜の悪夢のその途中で目が覚めた。罪の意識そのものよりも、この罪を隠し通さねばらないその重苦しさが堪えた。罪を贖うために、自分のこれからの人生の自由を放棄することにこそ耐えられない。だから、罪を告白して裁かれるか、無理をしてでも逃れ続けるか、という選択肢に、前者を選ぶなんてできないのだった。目が覚めると、罪の気配はすうっと去っていく。そのちろちろとうごめく尻尾の先だけは少しだけ確認できるくらいにして。だが今回はそれとは別に、こちらへ押し寄せてくるものがあった。
永遠に思い出したくない記憶だった。スナッフビデオ。二十歳かそこらだったと思う。佳苗と出会うよりも少し前のことだ。フェイクビデオだった可能性もある。白黒の動画で、ドットが粗かった。でも、胃液がせりあがってきてしまうほど真に迫っていた。
喉を掻き切られた白人の捕虜が、ごぼごぼと溺れるような音を発する。画面のアングルが切り替わり、倒れ込んだ捕虜は静物となる。どうやって在処に行き着いたのかを覚えていない、WEBで見た短い動画だった。
このビデオが、僕の意識の底に巣を作って居座っているのかもしれなかった。さすがに嫌悪感を持ち、振り払うように努めたビデオの内容が記憶の中で溶解し、脳の保守機能に処理されきらなかったわずかな残留物が浸透していって、心のなかで闇のボスと化したのかもしれない。
もしもほんとうにそうだったとしたら、スナッフビデオは抽象化されて血肉化してしまっているのだ。簡単に引っぱがせるものじゃない。これも、時の柱に刻まれて消えることのない過去であり、そこからの報いなのだ。
ざらざらした嫌な気持ちだった。光の場から闇の場へ、引き戻そうとする強引な力が働いているかのようだった。
夜はいつもの夢を見続けつつ、僕はスーパーで働き、休日の晴れた日には外を歩いた。連夜のあのような夢に反して、僕は積極的に働き、そしてウォーキングをする。強く心がけたというのではなく、自然と、そうしたくて。
スーパーでは、お客さんへの声掛けをするようになった。大したものじゃないけれど、お客さんたちが僕の担当の青果コーナーで品物を眺めているとき、「今朝入ったばかりの西瓜がありますよ。熊本産です」「ニュージーランド産のオレンジ。甘くておいしいですよ。お値段もお手頃ですよ」などと、お客さん全体に向けて声を掛ける。
青果コーナ―のレイアウト変更の提案もした。通路のなかほどにある台への果物の盛り方を、平面に品物を置いていくそれまでのやり方に変えて、段を設けて高低をつけて見せるやり方を同僚たちに話し、即採用となった。
手書きポップの掲示も提案し、二十代前半の女性スタッフに協力してもらって、いくつか楽しげなものを売り場に貼ったり立てたりした。
まだ売り上げに結びついてきていなくても、買い物に来るお客さんが楽しくなるような演出にはなったのではないかと思っているし、なによりも職場の雰囲気がちょっと明るくなった。僕自身、仕事が楽しくなってきた。
これらが主体性と呼ばれるものなのは知っている。主体性を持ちなさい、と子どもの頃から言われてきたのだし。だけど、あまりに周りから言われてきたために、逆にそうできなかったのもわかっている。主体性なんて、人から言われて持つものじゃないのだから。他人からの干渉でやることと自発的にやることとでは気分が全く違う。他律性なんて言葉があるけれど、他人に自分の領域に入ってこられて変更を促されるなんていうのは、大げさにいってしまうと占領政策みたいなもので、まったくもって受け付けたくないものだろう。
個人の秩序、と思った。他律性が個人の秩序をつっつくと、秩序で得られる安全や安心が揺らぐ。個人の秩序内で発揮される効率性だって損なわれたりする。だから、僕に構わないで欲しい、というのが本音としてある。干渉されると個人の秩序が乱れるからだ。これは最近になってくっきりとして浮かんできた考えであり、感情だった。
今までしなかったようなこと、避けてきたこと。ボランティアをしてみたり、同じこの町に住む人たちと喋ってみたり。そういったことに手を伸ばしてみるのはどうだろうか。そう興味が向いてきているのを感じている。僕は、自分が住むこの地域、いや世界をもっと理解し体感したくなってきたのだろうか。どうやら、受け入れたいし受け入れられたい、と思うようになってきているような気もする。それはもしかすると、炭鉱博物館を牧さんと訪れて体験し考えたことが大きく影響したのかもしれない。
だが、夢のあの、悔恨、恐怖、逃げ出したい思いが、なんと目覚めている時間にフラッシュバックしてきた。職場で野菜の加工をしているときだった。マジかよ、と驚きつつ振り払いにかかる。気持ちを強く持って気分を変えようと、一心に仕事に集中してやっとだった。一体、どうしてなのだろう。何故なのだ。
深刻に思った。夢を見ている間だけのことでも大きな負担なのに、起きて活動している時間にまで及ぶようになるのは脅威だ。
ちょうど、博物館以来の気持ちの変化で、完全に闇から抜け出せるのではないか、と希望を持ち始めていたのだった。そんな希望の芽生えに反応するような、このフラッシュバックという仕打ち。それでも、なんとか完全に振り払いたい。今それを逃したら、もう機会は無いかもしれないような気がするのだから。
休日の晴れた朝、いつも通りのコースをウォーキングしていた。ファイターズの帽子が目立つ坪野さんが軍手をはめ首にタオルをかけた格好で正面から歩いてくる。ファイターズは最下位でも、坪野さんは颯爽とした歩きっぷりだ。おはようございます、と僕から声を掛けた。
「おはよう。今日も歩いているのか、熱心だな」
右手を上げながら笑顔でこちらを見つめ、そう返してくれた。道端にはそろそろ終わりかけのムスカリが群生して咲いている。青紫色の小さな花冠が、健気だけれど誇らしげにも感じられる。
「まだたくさん咲いてますね」
あたりを指さす。
「ああ、もう終盤だけどな。この花の花言葉を知ってるかい?」
「知りません。かわいい花言葉のような気がするけど、どうでしょう」
坪野さんは、ひと呼吸おき、一段、声のトーンを落とすと、早口に言った。
「いやいや、これがな、意外に良くないんだ。花はかわいらしくてきれいだけどな。『絶望』とか『失意』とかいうんだ。残念だよな」
今年はずいぶん咲き誇っているな、と印象的に感じていた花たちの花言葉が「絶望」。深い穴に蹴落とされた心地がした。
「かなり驚きますね。ひどい花言葉がつけられていて」
それはそうと、と坪野さんは顎を突き出すようにする。
「こないだの観光ガイドの件はどうだったんだ。うまくいったかい?」
「ええ。うまくいきました。牧さん、楽しんでくれました。ただ、僕にとってもひさしぶりの博物館で、思いのほか考えさせられましたね」
「展示内容にかい」
「そうです。僕はどういう町で生まれ育ったのか、それがわかってきて。昔はいろいろな差別が強かったって」
坪野さんは思案するように視線を落とす。
「朝鮮や中国からの強制労働者な。危険な場所にばかり配置されるし、扱われ方が酷かったってな。博物館より山のもっと上のほうに慰霊碑があるよ」
「炭鉱会社内でも、実際に掘っている人たちよりも事務の人たちのほうが立場が強くて差別があったそうですし、炭鉱関係者と一般市民のあいだでも、力関係が歴然とあったんですってね」
「あの時代な。たとえば、商店で炭鉱マンが買い物すると、買いっぷりがいいから優遇されるんだ。上客ってことで、一般市民の客がいてもそっちのけになったりな」
坪野さんは昔を知っているのだ。あの時代の空気を吸っていた人だ。
「だから、正直に言って、僕には残念に思えてしまったんですよ。そういう町の世間から知らずしらずに影響を受けていることがあるよなって。自分のベースのある部分はこの町の在りようによって形作られてきただろうなって」
「喬一君の世代でも、この町で生まれ育つとそういった影響はないとはいえないんだろうな。まあでも、昔なんて、どこの町でも感覚が粗野だったところはあるんだよ。それに、この町は全国から人が集まってきて、ならず者だってたくさんいたんだが、人と人同士のあたたかさもちゃんとあったんだ。一山一家って、博物館にもあったろ? 同じ炭鉱に従事する者たちはみんな家族だっていう考え方だよ」
「ありましたね。でも、その外にもたくさんの人が暮らしていたわけで、そういった外側の人たちは、仲間じゃないみたいに押しやられていたんでしょう」
「今の考え方だと、問題になるよな」
牧さんと車の中で語り合った時間が甦ってくる。
「牧さんとも話しあったんですよ。博物館って、この町の過去の闇を葬らないためにあるんだって。たとえば石炭は闇の中から採ってきますよね。闇の中にあるエネルギー源です。この町の闇だって、やりようによっては地上の光の世界でエネルギー源になりうるんじゃないか、と思うんです。過去から使えそうななにかを抽出して、それをエネルギーに変える。それは難しいことなんだけど、それがうまくできるかもしれない未来に向けてというか、せめて将来へ残すために博物館はあるんだろう、と結論したんです」
坪野さんは大きく口をあけて笑った。
「すごいね。そこまで考えたのかい」
「博物館の入り口で動画配信者の人がいたんですが、石炭は闇からの栄養、って喋ってたんですよ。これ、大きなヒントになりました」
へえー、と坪野さんは声を上げた。そして、ちょっと話は逸れるけどな、と言って、落ち着いた口調で話し出した。
「俺もさ、パソコンで動画配信を見ることがあるんだ。なんとかいうあれだよ、動画サイト。一番有名なところ。まあなんでもいいけどな。よく見てるのが、坊さんの動画配信なんだ。説法がうまいんだ。その坊さんが、人間は闇の中で佇(たたず)んでいるような存在だ、って言うんだ」
なんの話かな、と相づちを打ちながら聞いていて、闇の中に佇んでいるような存在、のところで急激に注意を持っていかれた。坪野さんは続ける。
「どんな闇かっていうとさ、周囲も見えない、自分の立ち位置も見えない、自分が何ものかも見えない、どの方向へ歩んでいけばよいのかも見えない、っていう暗闇なんだ」
ああ僕は、と思った。闇に包まれきって、それまで飲んでいた胃薬の必要がなくなったときの僕。
「なんだか、わかるような気がします」
「そうかい? それでだな、そこへ何かの拍子に灯火がともる。闇が打ち破られるんだ。すると、視界が開ける。周りの様子が見える、自分の姿も見える、どの方向へ向かえばよいのかもわかる。そうだろ?」
「ですね」
「でな、そのとき影が現れるんだ。闇の中では現れなかった黒々とした自分の影が現れてくる。闇は消え失せた。でも影を背負う。灯火の光にあたらなかったらできなかった影だ。この坊さんによると、灯火にあたるのが仏教の教えなんだ。影は煩悩(ぼんのう)。仏教に出合わなければ、煩悩も見えてこないというわけだな」
「うまい喩えだと思います」
坪野さんは軍手をはめた右手の人差し指を立ててそれを何度か小さく揺らしながら、いいかい、と言った。
「煩悩の影がくっきり見えれば見えるほど、その人間は自分が偽物だって感じるわけだ。自分はこんなにも大した人間じゃないんだ、と痛切に感じるようになる。光が強くなればなお影の濃さは増すしな」
「影は闇の名残で、光に照らされたとしてもずっと闇を引きずらないといけない」
「そうだな、闇から離れることはできない。でもな、影が見えるってことは、光に照らされているってことでもあるわけだから」
感慨がじんわりとこみ上げてきている。このまま考えごとに浸って、いろいろと整理し直したい気分だった。
「いい話ですね。いい意味で少しばかり刺さってくるものがありました」
「喬一君。君は自分の影をごまかさないな」
不意に心の奥まで見透かされたような気がして、どきりとした。でもそういうわけじゃない。さっき、この町に住む者としてのその影響を語ったことへの返答なのだ。
「坪野さん。坪野さんの知らない深い影もまた、僕は背負っているんです」
坪野さんの顔色はその瞬間、無機質なものに変わってしまったが、すぐに柔和な表情に戻ると言った。
「そうかもしれないな。まあ、人間だれでもな」
言わなくてよいことを口走ってしまったかもしれない。うっすらと涙目になってきた。坪野さんが語った坊さんによる動画配信からの知恵に、うまく釣られてしまった。
そうだったそうだった、と坪野さんは思い出したような声をあげた。
「ムスカリの花言葉な。『絶望』と『失意』が主なものだけど他にもあったよ。『明るい未来』がそうだ。まるで反対の意味もあるんだよ」
帰宅してからムスカリの花言葉を検索して調べた。たしかに、「絶望」や「失意」のほかに、「明るい未来」もあった。絶望して精神的に底を打ったあとは、もうこれ以上マイナスのものなんかない、だからその後に続く未来はもう明るさしかない、という論理なのだろうか。そして、もうひとつ違う花言葉を見つけた。「通じ合うこころ」がそうだ。坪野さんから影の話を聞いたけれど、自分の影をしっかり認めながら、それをごまかさない人同士って、こころから通じ合えたりするのかもしれないな、とぼんやり思った。
*
闇の名残である影からは逃れられない。これがほんとうなのだ。僕は闇を完全に振り切らないといけない、とばかり考えてきた。でも、そんなことは不可能だったのだ。どうやっても、光に照らされた世界では影が生える。逃げようったって離れられるようなものでは、そもそもないのだ。
生きていく過程のどこかで影を引きずるというのではなく、生まれたときから影は背負うものに違いない。僕は思春期に闇の底のほうへと深々と身を沈め始めた。それがそもそもの闇との付き合いのはじまりだと思っていた。でもそれは錯覚で、誰しもが産まれた瞬間から影を引きずっている。双子として生まれた、みたいにして。
影が奥へと広がり、僕はその暗闇を自分から見入るようになり、沈みこんでいった。自然のなりゆきに逆らうようにして、潔癖な手を無理やり影に差しいれたわけじゃない。誰しもが、産まれたときから闇を抱えている。赤ちゃんにだって影がある。坪野さんによると、それは煩悩の影だ。影はいちばん身近、すぐ隣で息をしている。
闇へ深入りするかしないか、深入りしたとしてずっとそこに居続けるかはその人次第だろう。ある種の弱さが、そうさせるのだ。
でも僕には、広中佳苗との日々があり、地下鉄駅構内では女性からの叱責があった。それらは闇を吹っ切ろうと試みるその発端へとつながっていった。心境に変化をもたらしたそれらは、ほんとうに運がよかったためだと思う。
闇に包まれると、影は闇に溶け込み無限に広がる。そんな様相で生きていくなんて、人生の遭難といっていいものだったりするのかもしれない。
佳苗たちとの出合いは、差し伸べられた手だった。今になってわかる。僕は差し伸べられた手を掴めていたことを。
影は影として、その領分をわきまえさせる。人生とはそういうものなのではないか。気付くのがそうとう遅かっただろうか。たぶん、そうなのだろう。そのために無為にした時間が多くて嫌になる。
ようやく、向かう方向がわかりだした気がする。歩き出せる準備が整ったような、ほっとしたような、丸く安定した気分だった。
その日は、夜半までまんじりともしなかったので、諦めて布団を出た。台所へ行き、冷蔵庫から梅酒ソーダを取り出し部屋に戻る。窓際にある机の椅子に座り、プルタブを引く。机の脇に転がる石炭の塊を指でこつこつと突いたり、持ち上げて手の中で転がしてみたりした。
ここまでの半生を、僕はもっと充実して生きられていたかもしれない。もう中年になってしまった。だけれど、平均寿命をものさしにすると人生はまだまだ残っているほうだ。ならば、その残りを、悩み考え途惑ってばかりいるのではなく、思うように生きてみたい。できるだけ後悔しないように。楽しんで生きてみたい。そのために、一歩のあゆみで踏みしめる。まずはその一歩だ。後ろ重心で伸ばした足の一歩ではなくて、しっかり進んでいくための一歩。
ひとりで乾杯なんてする気はなかったのだけれど、考えや気持ちがこの高みまで到達したことへのささやかな祝杯めいた感覚になった。やっとのことで、光の場に移れるような予感がある。そんな気持ちで缶に口をつけた。感謝がたくさん混じっていた。
すとん、と音がはっきり聞こえてきてもおかしくないくらい、見事に部屋が真っ暗になった。おいおい、停電か。慎重に缶を机に置いた。視界がきかないまま、部屋の中をぐるりと見回す。
あれが、宙にある。
ほの白い仮面が。
僕のいる窓際と反対にある押入れ側の天井際近くにあった。
夢なんか見ていない。実際に今まで僕は冷えた梅酒ソーダを飲んでいたのだ。夢の感覚とは違う。なのに今、そこに浮かんでいる、あの、女の白い顔の仮面。
「強引に糸を通している」
男の低い声が聞こえた。僕は立ちどころに声が出なくなる。僕を取り囲む闇が呼吸していた。大量の闇が闇を吸い、吐いていた。男の声は続けた。
「己の過去に強引に糸を通している。でっちあげに近い。これも君の深い罪。君は罪深い」
どういう状況なのだ。僕は今、目覚めている。間違いなく、目覚めている。仮面はさらに言った。
「君は知っている、時の柱を。すべての出来事は時の柱に刻まれることを知っている。差別の世界で育ってきたことも刻まれている。それでも、言い逃れる気だろうか」
呼吸が、浅いどころか止まりかけていることに気づいて、慌てて大きく息を吸い込むのを何度か繰り返した。闇が勢いこんで僕の体内に流入するなかで、僕はあえぎあえぎ、小さく言った。
「お前はなんなんだ。白昼夢みたいなものなんだろう。それとも幻覚か。なんでもいいから消えろ。消え失せろ」
「消えるわけにはいかない。君の懺悔と改悛を聞くまでは」
「何を言っている。罪という言い方がすでに、ものごとのすり替えだ。もう消えろ」
男の声だった仮面から女の甲高い笑い声が鋭く響き、僕の耳を刺す。
「迷いだらけの目をしている」
「うるさい」
押し込まれる一方なのを感じていた。僕は机の上のボールペンを探り当て、仮面へと投げつけた。だけれど、また女の鋭い笑い声が短く響くだけで、当たったのか外れたのかもこの深い闇の中ではわからなかった。
「この町と自分に、君は強引に糸を通した」
「僕が闇を抱えたのは、この町を肯定するためでもあったんだ。それは間違いじゃない。闇を知ることで、闇は当たり前のものだと知りたかったんだと思う。この世界において闇というべきものが当たり前ならば、闇を抱えたこの町のことも、この町で生きるものたちそして自分も、肯定できるからだ。この町だけ特別なんじゃない、とわかりたかった気持ちがあったんだ」
博物館を後にしてからずっと探していた言葉が、こんな局面で出てきた。
「君はまだ運がよいほうだ。こうやって懺悔する場を与えられているのだから。さあ、懺悔するのだ。その時が来た」
「懺悔するなら、僕は僕だけで懺悔する。あるいは、懺悔を聞いてもらうに足る人の前でだけ懺悔する。お前なんかには懺悔しない」
「君は影を」
仮面の発光が青白さを増したように見えた。
「君は影を知った。影という闇の在り方を。だが、その解釈が己に都合の良いやり方だった」
「影は誰にでもある煩悩の喩えだ。人間は真っ白な存在じゃないんだ。だからって自分の穢(けが)れに気を取られ過ぎていると、逆に闇へどんどん踏み込んでしまう。だから、諦めと受け入れは大切なんだ」
「それが都合のよい解釈」
男の低い声が力強くそう言い切り、僕は奥歯を食いしばった。じゃあ、影とはなんなのだ、言ってみろ、と僕は絞り出すように言った。胃のあたりが重くなり始めた。
「影、それは呪詛。永遠に付きまとう呪詛なのだ」
「赤ん坊の段階からか?」
「そうだ。その中途半端な知性を持った人間という存在ゆえに、産まれてから朽ちるまでずっと、呪われるのだ。その印が影だ。この世界は、そういった存在を呪うようにできている。さらに、目に見えることのない影の密度を高めていくのは、時の柱に刻まれた罪の多寡が大きく影響する」
この仮面はいったい、僕にどうしろというのだ。どう懺悔をしろと、どう改悛しろというのだ。僕は仮面に気圧されて言いなりになりかけていた。早く解放の道筋を教えろ、と叫びだしたとしてもおかしくないくらいだった。でもそれは、自分の足で歩くことを止めかけていることを意味し、要するに間違った選択なのはわかるのだった。
「時の柱には、善い行いも刻み込まれている」考えるよりもさきに、反応するように口をついて言葉が出ていた。「佳苗だって、僕が闇だけの人間だったならば僕を構いすらしなかったはずだ」
「それは、君の巧みな偽りのため」
仮面は、僕の心理の深いところまでよくわかっている。たしかに、僕は佳苗の前で自分をよく見せるよう励んだ。
「それは、君の巧みな偽りのため」
仮面がもう一度言ったその声が、あの懐かしい佳苗の声のようだった。だが、それはどうやら聞き間違いではなく、宙に浮かぶ仮面が、よく見れば広中佳苗の顔に変わっていた。
「佳苗を使うのはよせ。それは卑怯だろう」
宙に浮く佳苗は軽く眉をしかめた表情で僕を見つめていた。いつかの佳苗のように。
「喬ちゃん、久しぶりだね。元気だった?」
「僕は騙されたくないんだ。じゃあ聞くけど、君が大好きな古典はなんだった?」
「『枕草子』に決まってるじゃない。そんなことより、喬ちゃんがわたしと別れたことをきっかけに、それまでの自分を見直し始めたのは率直にうれしいよ。今の喬ちゃん、わたし好きだよ」
目の前に浮かぶ佳苗の顔に、僕は親愛を感じざるを得ない。だけれど、なんと言ったらいいのか、言葉がうまくでてこないのだ。仮面に言うべきことと、佳苗に言うべきことはまるで違っていて、その狭間でただ、宙に浮かぶ佳苗の顔を上目で見つめるしかなかった。佳苗の表情が晴ればれとした笑みに変わり、そして彼女は言った。
「苦しんできたのはわかってるよ。それって喬ちゃんは、ずっと誠実さの種に水をあげ続けていたってことだもん。その誠実さがやっと芽を出して茎を伸ばしてつぼみのついた今の喬ちゃんなんだから、きっともう大丈夫だと思う。自信を持って」
「自分でも、自分が変わってきているのを感じているんだよ。佳苗ちゃんと付き合っていた頃にこうだったらって今、思うくらい」
「あの頃、喬ちゃんが私に見せていた自分って、作り上げた偽りのものだったって悔やんでるんでしょ。人には表と裏があるものだし、自分をよく見せたいって思うのは私だってそうだった」
「でも、佳苗ちゃんに隠していた裏の顔、闇の顔が酷かった」
実際、よく見せるための自分は、まるきりの偽物にすぎなかった。それは、子どもの時分、まだ闇にはまり込んでいない時期の記憶を材料にして急ごしらえしたものだったのだから。
「そうね。あなたは裏に隠した闇の顔のほうにずうっと重心をかけていた。もう、ずぶずぶに両足が埋まっているくらいに。だから私は離れたわけなのよ」
「君を騙していたね」
「ううん。あなたが私に見せていたあなたって、悪くなかった。なんていうか、それはそれで、あなたのもうひとつの本物が宿っていたと思うの。作りものの表の顔に、喬ちゃんのもうひとつの自分が、本物のそれとして内在していたのよ」
「そうだろうか。たしかに、僕にはああいった表の顔ができるだけの、かけらみたいなものだけは持っていたと思う。でもたったそれだけだよ?」
「それだけじゃないよ。それだけじゃないから、今の君がある」
考えるために佳苗から目を逸らした。時の柱に刻まれているものは、悪い行いばかりではないのだ。人を思ってのふるまいも、そこにはちゃんと刻まれている。数少ないとしても、そういったふるまいはしっかり刻まれているのだし、ずっと僕を支えようとしてくれたりする。僕にはそういったふるまいが皆無じゃなかった。このあいだの、牧さんへの観光ガイドだって、時の柱に刻まれた行いだ。
気持ちを支える足元が、覚束ない感じからしっかりした感じへと変わりだした気がした。根が生えたような頼もしさが、静かにあふれ出してくる。長い封印が解かれたみたいに外へと放たれてくる。
「佳苗ちゃん」
そう言って視線を元に戻すと、そこに佳苗の顔は無く、女の白い顔の仮面が浮かんでいた。
「呪詛だ」
再び、男の低い声が響く。
「お前の言うその呪詛に抗えるだけのものも、時の柱には刻まれている」
怯むわけにはいかなかった。
「確かにそういったものも刻まれている。だが、微々たるものに過ぎない。取るに足らない程度だ」
僕は引かない。
「たとえそうだとしても、僕はそこに自分を賭けていく」
すこしだけ沈黙があった。そのあいだに、仮面が濃密な闇を吐き始めたような気がした。
「心の奥底を、君はわかっていないが。いいだろう、そのサイコロを振ってみるといい」
言われて部屋を見回すと、足元にブラックライトで薄暗く発光したかのようなサイコロがあった。二センチ四方ほどの大きさだ。
「なんの意味がある」
サイコロを手に取ってみた。大きさの割に手のひらに沈み込んでくるような重みと冷たさ。六面のうち、赤く光った一の目の面だけがあり、他の面はのっぺりつるつるとした平面だった。
「サイコロは闇を意味している。一の目を君に出せるか。この場で懺悔も改悛もしない君に」
「一の目が出せれば、僕の勝ちなんだな」
「自力だけで君の人生が切り拓かれると思うな。好運にありつけることができるかどうかで決まるといったような、人ひとりの力ではどうにもならない状況というものはあるのだ。君に一の目は出せるか」
僕はサイコロを包み込んでいる右の手のひらを軽く振って、中で転がしてみた。何の真似かはわからないが、このサイコロを振ることが僕のチャレンジになるらしい。それも決定的な何かを意味するチャレンジのようだ。
サイコロを軽く握った右手を再び何度か振る。一の目が出るに違いない気がした。この場面では、一の目が出ることがあらかじめ決定しているような気がするのだ。「行くぞ」と言って下手(したて)で放り投げる。薄暗く発光するサイコロがめまぐるしく床を転がり、まもなく嘘のようにぴたりと止まった。上を向いているのはまっさらな面だ。
「呪いは成就した!」
仮面が低い声で叫びをあげた。それから、「懺悔も改悛もせずにいた君に好運はやってこなかった。君は光を手にして何かを成し遂げることはできない。君はそういった強い人間ではない」と早い口調で言い募った。
だったら、と僕は思う。
「だったら、誰かに託そう。僕が無理なのだったら、誰かが光の力で闇に抗い、そして成し遂げる何かの助けになろう。そういうふうに、僕は光に働きかけるよ」
水面に上がる炭酸水の気泡のように、無理なく浮かび上がってきた言葉だった。
すると、鎮座していたサイコロが、かすかに揺れ始めたようだった。薄暗く発光するサイコロのその光の揺れが目の端に映ったのだ。それは小刻みに振動していた。さらに、底面から徐々に強い光が漏れ出し始めていた。真下の面にあるのはおそらく一の目で、そこから光があふれだしている。やがて、底面から漏れ出す光は眩しいくらいに床一面へ広がった。
いくらか震えをおびた仮面の声が言った。
「呪いはすでに定まったものだ。どうこうなるものではない。どうこうなるものでは」
すかさず僕は言う。
「この光は、どうにでもなることの証じゃないのか?」
仮面はねっとりとした闇を吐きだし始めた。
「塗りつぶす」
僕は机の上で手を動かし、探り当てた石炭の塊をつかむと、仮面へ投げつけた。と、どうやら命中したようで、石炭は鈍く乾いた音をたてて砕け散った。だけれど僕はその瞬間に、キーーン、と高く鳴り響く強い耳鳴りに襲われてしまった。
それでも無傷だった仮面は、空中を漂うような動きで上下左右に小さく揺れだした。僕は耳鳴りによって平衡感覚がおかしくなる中、なんとか踏ん張ってその様子を見守る。するとまもなく、発光していた仮面のその青白い明るさが消失していった。いつしかサイコロも消えている。
部屋は闇だけになった。消えた仮面が声を発することもなくなり、部屋は静寂に包まれ、僕の脈が速く重く打っていることがわかる。耳鳴りは弛緩し減衰をはじめた。
部屋の外で足音がして、母から呼びかけられた。
「喬一、大丈夫? なにか砕けるような音がしたけど」
「ちょっと物を落としただけだから大丈夫だよ。灯りが戻ったら片付けるから」
声が平静に聞こえるように抑えながら嘘をついた。
それから五分ほどで電気は復旧した。
*
一週間が経った。罪にさいなまれる夢はその後、一度も見ていない。もちろん、あの仮面と相対したこともない。
蝦夷春蝉の鳴き声があたりを染めている。ムスカリも水仙も、今年は終わってしまった。半袖だとまだすこし肌寒さを感じる晴れた朝に、僕はまた、ウォーキングをしている。清々しい朝だった。何か新しいことを始めたくなるくらいに。でもそんなすばらしい朝だからといって、今日一日つまづくことはない、と約束されたわけではない。
住宅地を抜けて、国道に出た。蝦夷春蝉のほかに、鶯(うぐいす)の鳴き声も加わる。速足のペースを保ちながらしばらく道なりに歩き、いつものように工業団地へと入っていく道を曲がった。
やかましく吠える犬の声が聞こえてきて、あたりを見わたした。どうやら僕の背後から声が近づいてきている。振り向くと、五十メートルほど後ろから白い小型犬が一匹だけでこちらへと駆けて来ているのが見える。飼い主の姿はない。犬は僕と目が合うと立ちどまり、一層やかましく吠えだした。白くうねった短い巻き毛で、一応、首輪をはめている。あれはテリアという種類の犬ではないだろうか。犬は僕を標的と定めたようで、すごい勢いで吠えたてて、走ってくる。
これはまずい。おそらく走って逃げても逃げきれないし、隠れる場所もない。それでも他に手段がなくて、とにかく走った。犬は簡単に追いついてきた。
ほんとうにやかましいし、顔とその牙が恐ろしい。僕は観念して走るのを止め、足でしっしっと追い払ってみる。犬はますます吠える声を高め、敏捷にかわした僕の足を嚙もうという仕草をする。それどころか、ひっこめた僕の足にまで噛みつこうと身体を乗り出してくる。たまらない。僕はまた走り出した。後ろを向いたり横を向いたり態勢を変え足で牽制したりして犬との間合いを取りながら走る。
「おいちょっと、こらこら、あっちいけって」
心臓をばくばく言わせながら蛇行して走る。そんななか、自分の引きずる影に気が付いた。走って逃げる僕と同じ動きで、影も地面で躍っていた。僕も影も必死に動いていた。
犬が僕の右側に身体を寄せてきたので、距離を取ろうと左へ移動する。影もタイムラグ無しに左へぴったりくっついてくる。
犬には犬の影があり、飛び跳ねてみたり噛みつこうとしたりするその動作をトレースして動いている。
僕の影の動きは僕そのもので、犬の影の動きは犬そのものだった。否応ない、それは影だった。
犬は影とともに僕の足元を空噛みしている。追い立てることに喜びを覚えているようだ。僕はまた立ち止まると、今度は影といっしょに身構えてみせる。犬の目を見据え、本気を出すぞ、と表情で威嚇した。察した犬は、二、三歩後ずさり、そこからたぶん十秒近くにらみ合った。でも、にらみ合うというより、僕はこれからどうしたものか、と困っていたのだし、犬のほうもさっきより気の抜けた顔で、右を向いたり左を向いたりしているし、おそらく僕を追うことにもう飽きたみたいだった。
犬はくるっと後ろを向くと、元気よく走り去っていった。当たり前だけれど、ごめんなさい、もないし、満足した、の一言もなく。
ほっとした僕は、小さくなっていく犬の姿を見送ると、元の進行方向へ向き直り、駆けだす。どうしてなのか、楽しくなってきたのだ。
眩しい陽射しのせいで濃くなった影は音もなくついてくる。
足下を躍動するそんな影を引き連れて、僕はいつまでも、駆け続けた。
〈了〉
参考文献
『石炭博物館ガイドブック』 NPO法人 炭鉱の記憶推進事業団 編
『法然親鸞一遍』 釈徹宗 新潮新書
毎夜の悪夢のその途中で目が覚めた。罪の意識そのものよりも、この罪を隠し通さねばらないその重苦しさが堪えた。罪を贖うために、自分のこれからの人生の自由を放棄することにこそ耐えられない。だから、罪を告白して裁かれるか、無理をしてでも逃れ続けるか、という選択肢に、前者を選ぶなんてできないのだった。目が覚めると、罪の気配はすうっと去っていく。そのちろちろとうごめく尻尾の先だけは少しだけ確認できるくらいにして。だが今回はそれとは別に、こちらへ押し寄せてくるものがあった。
永遠に思い出したくない記憶だった。スナッフビデオ。二十歳かそこらだったと思う。佳苗と出会うよりも少し前のことだ。フェイクビデオだった可能性もある。白黒の動画で、ドットが粗かった。でも、胃液がせりあがってきてしまうほど真に迫っていた。
喉を掻き切られた白人の捕虜が、ごぼごぼと溺れるような音を発する。画面のアングルが切り替わり、倒れ込んだ捕虜は静物となる。どうやって在処に行き着いたのかを覚えていない、WEBで見た短い動画だった。
このビデオが、僕の意識の底に巣を作って居座っているのかもしれなかった。さすがに嫌悪感を持ち、振り払うように努めたビデオの内容が記憶の中で溶解し、脳の保守機能に処理されきらなかったわずかな残留物が浸透していって、心のなかで闇のボスと化したのかもしれない。
もしもほんとうにそうだったとしたら、スナッフビデオは抽象化されて血肉化してしまっているのだ。簡単に引っぱがせるものじゃない。これも、時の柱に刻まれて消えることのない過去であり、そこからの報いなのだ。
ざらざらした嫌な気持ちだった。光の場から闇の場へ、引き戻そうとする強引な力が働いているかのようだった。
夜はいつもの夢を見続けつつ、僕はスーパーで働き、休日の晴れた日には外を歩いた。連夜のあのような夢に反して、僕は積極的に働き、そしてウォーキングをする。強く心がけたというのではなく、自然と、そうしたくて。
スーパーでは、お客さんへの声掛けをするようになった。大したものじゃないけれど、お客さんたちが僕の担当の青果コーナーで品物を眺めているとき、「今朝入ったばかりの西瓜がありますよ。熊本産です」「ニュージーランド産のオレンジ。甘くておいしいですよ。お値段もお手頃ですよ」などと、お客さん全体に向けて声を掛ける。
青果コーナ―のレイアウト変更の提案もした。通路のなかほどにある台への果物の盛り方を、平面に品物を置いていくそれまでのやり方に変えて、段を設けて高低をつけて見せるやり方を同僚たちに話し、即採用となった。
手書きポップの掲示も提案し、二十代前半の女性スタッフに協力してもらって、いくつか楽しげなものを売り場に貼ったり立てたりした。
まだ売り上げに結びついてきていなくても、買い物に来るお客さんが楽しくなるような演出にはなったのではないかと思っているし、なによりも職場の雰囲気がちょっと明るくなった。僕自身、仕事が楽しくなってきた。
これらが主体性と呼ばれるものなのは知っている。主体性を持ちなさい、と子どもの頃から言われてきたのだし。だけど、あまりに周りから言われてきたために、逆にそうできなかったのもわかっている。主体性なんて、人から言われて持つものじゃないのだから。他人からの干渉でやることと自発的にやることとでは気分が全く違う。他律性なんて言葉があるけれど、他人に自分の領域に入ってこられて変更を促されるなんていうのは、大げさにいってしまうと占領政策みたいなもので、まったくもって受け付けたくないものだろう。
個人の秩序、と思った。他律性が個人の秩序をつっつくと、秩序で得られる安全や安心が揺らぐ。個人の秩序内で発揮される効率性だって損なわれたりする。だから、僕に構わないで欲しい、というのが本音としてある。干渉されると個人の秩序が乱れるからだ。これは最近になってくっきりとして浮かんできた考えであり、感情だった。
今までしなかったようなこと、避けてきたこと。ボランティアをしてみたり、同じこの町に住む人たちと喋ってみたり。そういったことに手を伸ばしてみるのはどうだろうか。そう興味が向いてきているのを感じている。僕は、自分が住むこの地域、いや世界をもっと理解し体感したくなってきたのだろうか。どうやら、受け入れたいし受け入れられたい、と思うようになってきているような気もする。それはもしかすると、炭鉱博物館を牧さんと訪れて体験し考えたことが大きく影響したのかもしれない。
だが、夢のあの、悔恨、恐怖、逃げ出したい思いが、なんと目覚めている時間にフラッシュバックしてきた。職場で野菜の加工をしているときだった。マジかよ、と驚きつつ振り払いにかかる。気持ちを強く持って気分を変えようと、一心に仕事に集中してやっとだった。一体、どうしてなのだろう。何故なのだ。
深刻に思った。夢を見ている間だけのことでも大きな負担なのに、起きて活動している時間にまで及ぶようになるのは脅威だ。
ちょうど、博物館以来の気持ちの変化で、完全に闇から抜け出せるのではないか、と希望を持ち始めていたのだった。そんな希望の芽生えに反応するような、このフラッシュバックという仕打ち。それでも、なんとか完全に振り払いたい。今それを逃したら、もう機会は無いかもしれないような気がするのだから。
休日の晴れた朝、いつも通りのコースをウォーキングしていた。ファイターズの帽子が目立つ坪野さんが軍手をはめ首にタオルをかけた格好で正面から歩いてくる。ファイターズは最下位でも、坪野さんは颯爽とした歩きっぷりだ。おはようございます、と僕から声を掛けた。
「おはよう。今日も歩いているのか、熱心だな」
右手を上げながら笑顔でこちらを見つめ、そう返してくれた。道端にはそろそろ終わりかけのムスカリが群生して咲いている。青紫色の小さな花冠が、健気だけれど誇らしげにも感じられる。
「まだたくさん咲いてますね」
あたりを指さす。
「ああ、もう終盤だけどな。この花の花言葉を知ってるかい?」
「知りません。かわいい花言葉のような気がするけど、どうでしょう」
坪野さんは、ひと呼吸おき、一段、声のトーンを落とすと、早口に言った。
「いやいや、これがな、意外に良くないんだ。花はかわいらしくてきれいだけどな。『絶望』とか『失意』とかいうんだ。残念だよな」
今年はずいぶん咲き誇っているな、と印象的に感じていた花たちの花言葉が「絶望」。深い穴に蹴落とされた心地がした。
「かなり驚きますね。ひどい花言葉がつけられていて」
それはそうと、と坪野さんは顎を突き出すようにする。
「こないだの観光ガイドの件はどうだったんだ。うまくいったかい?」
「ええ。うまくいきました。牧さん、楽しんでくれました。ただ、僕にとってもひさしぶりの博物館で、思いのほか考えさせられましたね」
「展示内容にかい」
「そうです。僕はどういう町で生まれ育ったのか、それがわかってきて。昔はいろいろな差別が強かったって」
坪野さんは思案するように視線を落とす。
「朝鮮や中国からの強制労働者な。危険な場所にばかり配置されるし、扱われ方が酷かったってな。博物館より山のもっと上のほうに慰霊碑があるよ」
「炭鉱会社内でも、実際に掘っている人たちよりも事務の人たちのほうが立場が強くて差別があったそうですし、炭鉱関係者と一般市民のあいだでも、力関係が歴然とあったんですってね」
「あの時代な。たとえば、商店で炭鉱マンが買い物すると、買いっぷりがいいから優遇されるんだ。上客ってことで、一般市民の客がいてもそっちのけになったりな」
坪野さんは昔を知っているのだ。あの時代の空気を吸っていた人だ。
「だから、正直に言って、僕には残念に思えてしまったんですよ。そういう町の世間から知らずしらずに影響を受けていることがあるよなって。自分のベースのある部分はこの町の在りようによって形作られてきただろうなって」
「喬一君の世代でも、この町で生まれ育つとそういった影響はないとはいえないんだろうな。まあでも、昔なんて、どこの町でも感覚が粗野だったところはあるんだよ。それに、この町は全国から人が集まってきて、ならず者だってたくさんいたんだが、人と人同士のあたたかさもちゃんとあったんだ。一山一家って、博物館にもあったろ? 同じ炭鉱に従事する者たちはみんな家族だっていう考え方だよ」
「ありましたね。でも、その外にもたくさんの人が暮らしていたわけで、そういった外側の人たちは、仲間じゃないみたいに押しやられていたんでしょう」
「今の考え方だと、問題になるよな」
牧さんと車の中で語り合った時間が甦ってくる。
「牧さんとも話しあったんですよ。博物館って、この町の過去の闇を葬らないためにあるんだって。たとえば石炭は闇の中から採ってきますよね。闇の中にあるエネルギー源です。この町の闇だって、やりようによっては地上の光の世界でエネルギー源になりうるんじゃないか、と思うんです。過去から使えそうななにかを抽出して、それをエネルギーに変える。それは難しいことなんだけど、それがうまくできるかもしれない未来に向けてというか、せめて将来へ残すために博物館はあるんだろう、と結論したんです」
坪野さんは大きく口をあけて笑った。
「すごいね。そこまで考えたのかい」
「博物館の入り口で動画配信者の人がいたんですが、石炭は闇からの栄養、って喋ってたんですよ。これ、大きなヒントになりました」
へえー、と坪野さんは声を上げた。そして、ちょっと話は逸れるけどな、と言って、落ち着いた口調で話し出した。
「俺もさ、パソコンで動画配信を見ることがあるんだ。なんとかいうあれだよ、動画サイト。一番有名なところ。まあなんでもいいけどな。よく見てるのが、坊さんの動画配信なんだ。説法がうまいんだ。その坊さんが、人間は闇の中で佇(たたず)んでいるような存在だ、って言うんだ」
なんの話かな、と相づちを打ちながら聞いていて、闇の中に佇んでいるような存在、のところで急激に注意を持っていかれた。坪野さんは続ける。
「どんな闇かっていうとさ、周囲も見えない、自分の立ち位置も見えない、自分が何ものかも見えない、どの方向へ歩んでいけばよいのかも見えない、っていう暗闇なんだ」
ああ僕は、と思った。闇に包まれきって、それまで飲んでいた胃薬の必要がなくなったときの僕。
「なんだか、わかるような気がします」
「そうかい? それでだな、そこへ何かの拍子に灯火がともる。闇が打ち破られるんだ。すると、視界が開ける。周りの様子が見える、自分の姿も見える、どの方向へ向かえばよいのかもわかる。そうだろ?」
「ですね」
「でな、そのとき影が現れるんだ。闇の中では現れなかった黒々とした自分の影が現れてくる。闇は消え失せた。でも影を背負う。灯火の光にあたらなかったらできなかった影だ。この坊さんによると、灯火にあたるのが仏教の教えなんだ。影は煩悩(ぼんのう)。仏教に出合わなければ、煩悩も見えてこないというわけだな」
「うまい喩えだと思います」
坪野さんは軍手をはめた右手の人差し指を立ててそれを何度か小さく揺らしながら、いいかい、と言った。
「煩悩の影がくっきり見えれば見えるほど、その人間は自分が偽物だって感じるわけだ。自分はこんなにも大した人間じゃないんだ、と痛切に感じるようになる。光が強くなればなお影の濃さは増すしな」
「影は闇の名残で、光に照らされたとしてもずっと闇を引きずらないといけない」
「そうだな、闇から離れることはできない。でもな、影が見えるってことは、光に照らされているってことでもあるわけだから」
感慨がじんわりとこみ上げてきている。このまま考えごとに浸って、いろいろと整理し直したい気分だった。
「いい話ですね。いい意味で少しばかり刺さってくるものがありました」
「喬一君。君は自分の影をごまかさないな」
不意に心の奥まで見透かされたような気がして、どきりとした。でもそういうわけじゃない。さっき、この町に住む者としてのその影響を語ったことへの返答なのだ。
「坪野さん。坪野さんの知らない深い影もまた、僕は背負っているんです」
坪野さんの顔色はその瞬間、無機質なものに変わってしまったが、すぐに柔和な表情に戻ると言った。
「そうかもしれないな。まあ、人間だれでもな」
言わなくてよいことを口走ってしまったかもしれない。うっすらと涙目になってきた。坪野さんが語った坊さんによる動画配信からの知恵に、うまく釣られてしまった。
そうだったそうだった、と坪野さんは思い出したような声をあげた。
「ムスカリの花言葉な。『絶望』と『失意』が主なものだけど他にもあったよ。『明るい未来』がそうだ。まるで反対の意味もあるんだよ」
帰宅してからムスカリの花言葉を検索して調べた。たしかに、「絶望」や「失意」のほかに、「明るい未来」もあった。絶望して精神的に底を打ったあとは、もうこれ以上マイナスのものなんかない、だからその後に続く未来はもう明るさしかない、という論理なのだろうか。そして、もうひとつ違う花言葉を見つけた。「通じ合うこころ」がそうだ。坪野さんから影の話を聞いたけれど、自分の影をしっかり認めながら、それをごまかさない人同士って、こころから通じ合えたりするのかもしれないな、とぼんやり思った。
*
闇の名残である影からは逃れられない。これがほんとうなのだ。僕は闇を完全に振り切らないといけない、とばかり考えてきた。でも、そんなことは不可能だったのだ。どうやっても、光に照らされた世界では影が生える。逃げようったって離れられるようなものでは、そもそもないのだ。
生きていく過程のどこかで影を引きずるというのではなく、生まれたときから影は背負うものに違いない。僕は思春期に闇の底のほうへと深々と身を沈め始めた。それがそもそもの闇との付き合いのはじまりだと思っていた。でもそれは錯覚で、誰しもが産まれた瞬間から影を引きずっている。双子として生まれた、みたいにして。
影が奥へと広がり、僕はその暗闇を自分から見入るようになり、沈みこんでいった。自然のなりゆきに逆らうようにして、潔癖な手を無理やり影に差しいれたわけじゃない。誰しもが、産まれたときから闇を抱えている。赤ちゃんにだって影がある。坪野さんによると、それは煩悩の影だ。影はいちばん身近、すぐ隣で息をしている。
闇へ深入りするかしないか、深入りしたとしてずっとそこに居続けるかはその人次第だろう。ある種の弱さが、そうさせるのだ。
でも僕には、広中佳苗との日々があり、地下鉄駅構内では女性からの叱責があった。それらは闇を吹っ切ろうと試みるその発端へとつながっていった。心境に変化をもたらしたそれらは、ほんとうに運がよかったためだと思う。
闇に包まれると、影は闇に溶け込み無限に広がる。そんな様相で生きていくなんて、人生の遭難といっていいものだったりするのかもしれない。
佳苗たちとの出合いは、差し伸べられた手だった。今になってわかる。僕は差し伸べられた手を掴めていたことを。
影は影として、その領分をわきまえさせる。人生とはそういうものなのではないか。気付くのがそうとう遅かっただろうか。たぶん、そうなのだろう。そのために無為にした時間が多くて嫌になる。
ようやく、向かう方向がわかりだした気がする。歩き出せる準備が整ったような、ほっとしたような、丸く安定した気分だった。
その日は、夜半までまんじりともしなかったので、諦めて布団を出た。台所へ行き、冷蔵庫から梅酒ソーダを取り出し部屋に戻る。窓際にある机の椅子に座り、プルタブを引く。机の脇に転がる石炭の塊を指でこつこつと突いたり、持ち上げて手の中で転がしてみたりした。
ここまでの半生を、僕はもっと充実して生きられていたかもしれない。もう中年になってしまった。だけれど、平均寿命をものさしにすると人生はまだまだ残っているほうだ。ならば、その残りを、悩み考え途惑ってばかりいるのではなく、思うように生きてみたい。できるだけ後悔しないように。楽しんで生きてみたい。そのために、一歩のあゆみで踏みしめる。まずはその一歩だ。後ろ重心で伸ばした足の一歩ではなくて、しっかり進んでいくための一歩。
ひとりで乾杯なんてする気はなかったのだけれど、考えや気持ちがこの高みまで到達したことへのささやかな祝杯めいた感覚になった。やっとのことで、光の場に移れるような予感がある。そんな気持ちで缶に口をつけた。感謝がたくさん混じっていた。
すとん、と音がはっきり聞こえてきてもおかしくないくらい、見事に部屋が真っ暗になった。おいおい、停電か。慎重に缶を机に置いた。視界がきかないまま、部屋の中をぐるりと見回す。
あれが、宙にある。
ほの白い仮面が。
僕のいる窓際と反対にある押入れ側の天井際近くにあった。
夢なんか見ていない。実際に今まで僕は冷えた梅酒ソーダを飲んでいたのだ。夢の感覚とは違う。なのに今、そこに浮かんでいる、あの、女の白い顔の仮面。
「強引に糸を通している」
男の低い声が聞こえた。僕は立ちどころに声が出なくなる。僕を取り囲む闇が呼吸していた。大量の闇が闇を吸い、吐いていた。男の声は続けた。
「己の過去に強引に糸を通している。でっちあげに近い。これも君の深い罪。君は罪深い」
どういう状況なのだ。僕は今、目覚めている。間違いなく、目覚めている。仮面はさらに言った。
「君は知っている、時の柱を。すべての出来事は時の柱に刻まれることを知っている。差別の世界で育ってきたことも刻まれている。それでも、言い逃れる気だろうか」
呼吸が、浅いどころか止まりかけていることに気づいて、慌てて大きく息を吸い込むのを何度か繰り返した。闇が勢いこんで僕の体内に流入するなかで、僕はあえぎあえぎ、小さく言った。
「お前はなんなんだ。白昼夢みたいなものなんだろう。それとも幻覚か。なんでもいいから消えろ。消え失せろ」
「消えるわけにはいかない。君の懺悔と改悛を聞くまでは」
「何を言っている。罪という言い方がすでに、ものごとのすり替えだ。もう消えろ」
男の声だった仮面から女の甲高い笑い声が鋭く響き、僕の耳を刺す。
「迷いだらけの目をしている」
「うるさい」
押し込まれる一方なのを感じていた。僕は机の上のボールペンを探り当て、仮面へと投げつけた。だけれど、また女の鋭い笑い声が短く響くだけで、当たったのか外れたのかもこの深い闇の中ではわからなかった。
「この町と自分に、君は強引に糸を通した」
「僕が闇を抱えたのは、この町を肯定するためでもあったんだ。それは間違いじゃない。闇を知ることで、闇は当たり前のものだと知りたかったんだと思う。この世界において闇というべきものが当たり前ならば、闇を抱えたこの町のことも、この町で生きるものたちそして自分も、肯定できるからだ。この町だけ特別なんじゃない、とわかりたかった気持ちがあったんだ」
博物館を後にしてからずっと探していた言葉が、こんな局面で出てきた。
「君はまだ運がよいほうだ。こうやって懺悔する場を与えられているのだから。さあ、懺悔するのだ。その時が来た」
「懺悔するなら、僕は僕だけで懺悔する。あるいは、懺悔を聞いてもらうに足る人の前でだけ懺悔する。お前なんかには懺悔しない」
「君は影を」
仮面の発光が青白さを増したように見えた。
「君は影を知った。影という闇の在り方を。だが、その解釈が己に都合の良いやり方だった」
「影は誰にでもある煩悩の喩えだ。人間は真っ白な存在じゃないんだ。だからって自分の穢(けが)れに気を取られ過ぎていると、逆に闇へどんどん踏み込んでしまう。だから、諦めと受け入れは大切なんだ」
「それが都合のよい解釈」
男の低い声が力強くそう言い切り、僕は奥歯を食いしばった。じゃあ、影とはなんなのだ、言ってみろ、と僕は絞り出すように言った。胃のあたりが重くなり始めた。
「影、それは呪詛。永遠に付きまとう呪詛なのだ」
「赤ん坊の段階からか?」
「そうだ。その中途半端な知性を持った人間という存在ゆえに、産まれてから朽ちるまでずっと、呪われるのだ。その印が影だ。この世界は、そういった存在を呪うようにできている。さらに、目に見えることのない影の密度を高めていくのは、時の柱に刻まれた罪の多寡が大きく影響する」
この仮面はいったい、僕にどうしろというのだ。どう懺悔をしろと、どう改悛しろというのだ。僕は仮面に気圧されて言いなりになりかけていた。早く解放の道筋を教えろ、と叫びだしたとしてもおかしくないくらいだった。でもそれは、自分の足で歩くことを止めかけていることを意味し、要するに間違った選択なのはわかるのだった。
「時の柱には、善い行いも刻み込まれている」考えるよりもさきに、反応するように口をついて言葉が出ていた。「佳苗だって、僕が闇だけの人間だったならば僕を構いすらしなかったはずだ」
「それは、君の巧みな偽りのため」
仮面は、僕の心理の深いところまでよくわかっている。たしかに、僕は佳苗の前で自分をよく見せるよう励んだ。
「それは、君の巧みな偽りのため」
仮面がもう一度言ったその声が、あの懐かしい佳苗の声のようだった。だが、それはどうやら聞き間違いではなく、宙に浮かぶ仮面が、よく見れば広中佳苗の顔に変わっていた。
「佳苗を使うのはよせ。それは卑怯だろう」
宙に浮く佳苗は軽く眉をしかめた表情で僕を見つめていた。いつかの佳苗のように。
「喬ちゃん、久しぶりだね。元気だった?」
「僕は騙されたくないんだ。じゃあ聞くけど、君が大好きな古典はなんだった?」
「『枕草子』に決まってるじゃない。そんなことより、喬ちゃんがわたしと別れたことをきっかけに、それまでの自分を見直し始めたのは率直にうれしいよ。今の喬ちゃん、わたし好きだよ」
目の前に浮かぶ佳苗の顔に、僕は親愛を感じざるを得ない。だけれど、なんと言ったらいいのか、言葉がうまくでてこないのだ。仮面に言うべきことと、佳苗に言うべきことはまるで違っていて、その狭間でただ、宙に浮かぶ佳苗の顔を上目で見つめるしかなかった。佳苗の表情が晴ればれとした笑みに変わり、そして彼女は言った。
「苦しんできたのはわかってるよ。それって喬ちゃんは、ずっと誠実さの種に水をあげ続けていたってことだもん。その誠実さがやっと芽を出して茎を伸ばしてつぼみのついた今の喬ちゃんなんだから、きっともう大丈夫だと思う。自信を持って」
「自分でも、自分が変わってきているのを感じているんだよ。佳苗ちゃんと付き合っていた頃にこうだったらって今、思うくらい」
「あの頃、喬ちゃんが私に見せていた自分って、作り上げた偽りのものだったって悔やんでるんでしょ。人には表と裏があるものだし、自分をよく見せたいって思うのは私だってそうだった」
「でも、佳苗ちゃんに隠していた裏の顔、闇の顔が酷かった」
実際、よく見せるための自分は、まるきりの偽物にすぎなかった。それは、子どもの時分、まだ闇にはまり込んでいない時期の記憶を材料にして急ごしらえしたものだったのだから。
「そうね。あなたは裏に隠した闇の顔のほうにずうっと重心をかけていた。もう、ずぶずぶに両足が埋まっているくらいに。だから私は離れたわけなのよ」
「君を騙していたね」
「ううん。あなたが私に見せていたあなたって、悪くなかった。なんていうか、それはそれで、あなたのもうひとつの本物が宿っていたと思うの。作りものの表の顔に、喬ちゃんのもうひとつの自分が、本物のそれとして内在していたのよ」
「そうだろうか。たしかに、僕にはああいった表の顔ができるだけの、かけらみたいなものだけは持っていたと思う。でもたったそれだけだよ?」
「それだけじゃないよ。それだけじゃないから、今の君がある」
考えるために佳苗から目を逸らした。時の柱に刻まれているものは、悪い行いばかりではないのだ。人を思ってのふるまいも、そこにはちゃんと刻まれている。数少ないとしても、そういったふるまいはしっかり刻まれているのだし、ずっと僕を支えようとしてくれたりする。僕にはそういったふるまいが皆無じゃなかった。このあいだの、牧さんへの観光ガイドだって、時の柱に刻まれた行いだ。
気持ちを支える足元が、覚束ない感じからしっかりした感じへと変わりだした気がした。根が生えたような頼もしさが、静かにあふれ出してくる。長い封印が解かれたみたいに外へと放たれてくる。
「佳苗ちゃん」
そう言って視線を元に戻すと、そこに佳苗の顔は無く、女の白い顔の仮面が浮かんでいた。
「呪詛だ」
再び、男の低い声が響く。
「お前の言うその呪詛に抗えるだけのものも、時の柱には刻まれている」
怯むわけにはいかなかった。
「確かにそういったものも刻まれている。だが、微々たるものに過ぎない。取るに足らない程度だ」
僕は引かない。
「たとえそうだとしても、僕はそこに自分を賭けていく」
すこしだけ沈黙があった。そのあいだに、仮面が濃密な闇を吐き始めたような気がした。
「心の奥底を、君はわかっていないが。いいだろう、そのサイコロを振ってみるといい」
言われて部屋を見回すと、足元にブラックライトで薄暗く発光したかのようなサイコロがあった。二センチ四方ほどの大きさだ。
「なんの意味がある」
サイコロを手に取ってみた。大きさの割に手のひらに沈み込んでくるような重みと冷たさ。六面のうち、赤く光った一の目の面だけがあり、他の面はのっぺりつるつるとした平面だった。
「サイコロは闇を意味している。一の目を君に出せるか。この場で懺悔も改悛もしない君に」
「一の目が出せれば、僕の勝ちなんだな」
「自力だけで君の人生が切り拓かれると思うな。好運にありつけることができるかどうかで決まるといったような、人ひとりの力ではどうにもならない状況というものはあるのだ。君に一の目は出せるか」
僕はサイコロを包み込んでいる右の手のひらを軽く振って、中で転がしてみた。何の真似かはわからないが、このサイコロを振ることが僕のチャレンジになるらしい。それも決定的な何かを意味するチャレンジのようだ。
サイコロを軽く握った右手を再び何度か振る。一の目が出るに違いない気がした。この場面では、一の目が出ることがあらかじめ決定しているような気がするのだ。「行くぞ」と言って下手(したて)で放り投げる。薄暗く発光するサイコロがめまぐるしく床を転がり、まもなく嘘のようにぴたりと止まった。上を向いているのはまっさらな面だ。
「呪いは成就した!」
仮面が低い声で叫びをあげた。それから、「懺悔も改悛もせずにいた君に好運はやってこなかった。君は光を手にして何かを成し遂げることはできない。君はそういった強い人間ではない」と早い口調で言い募った。
だったら、と僕は思う。
「だったら、誰かに託そう。僕が無理なのだったら、誰かが光の力で闇に抗い、そして成し遂げる何かの助けになろう。そういうふうに、僕は光に働きかけるよ」
水面に上がる炭酸水の気泡のように、無理なく浮かび上がってきた言葉だった。
すると、鎮座していたサイコロが、かすかに揺れ始めたようだった。薄暗く発光するサイコロのその光の揺れが目の端に映ったのだ。それは小刻みに振動していた。さらに、底面から徐々に強い光が漏れ出し始めていた。真下の面にあるのはおそらく一の目で、そこから光があふれだしている。やがて、底面から漏れ出す光は眩しいくらいに床一面へ広がった。
いくらか震えをおびた仮面の声が言った。
「呪いはすでに定まったものだ。どうこうなるものではない。どうこうなるものでは」
すかさず僕は言う。
「この光は、どうにでもなることの証じゃないのか?」
仮面はねっとりとした闇を吐きだし始めた。
「塗りつぶす」
僕は机の上で手を動かし、探り当てた石炭の塊をつかむと、仮面へ投げつけた。と、どうやら命中したようで、石炭は鈍く乾いた音をたてて砕け散った。だけれど僕はその瞬間に、キーーン、と高く鳴り響く強い耳鳴りに襲われてしまった。
それでも無傷だった仮面は、空中を漂うような動きで上下左右に小さく揺れだした。僕は耳鳴りによって平衡感覚がおかしくなる中、なんとか踏ん張ってその様子を見守る。するとまもなく、発光していた仮面のその青白い明るさが消失していった。いつしかサイコロも消えている。
部屋は闇だけになった。消えた仮面が声を発することもなくなり、部屋は静寂に包まれ、僕の脈が速く重く打っていることがわかる。耳鳴りは弛緩し減衰をはじめた。
部屋の外で足音がして、母から呼びかけられた。
「喬一、大丈夫? なにか砕けるような音がしたけど」
「ちょっと物を落としただけだから大丈夫だよ。灯りが戻ったら片付けるから」
声が平静に聞こえるように抑えながら嘘をついた。
それから五分ほどで電気は復旧した。
*
一週間が経った。罪にさいなまれる夢はその後、一度も見ていない。もちろん、あの仮面と相対したこともない。
蝦夷春蝉の鳴き声があたりを染めている。ムスカリも水仙も、今年は終わってしまった。半袖だとまだすこし肌寒さを感じる晴れた朝に、僕はまた、ウォーキングをしている。清々しい朝だった。何か新しいことを始めたくなるくらいに。でもそんなすばらしい朝だからといって、今日一日つまづくことはない、と約束されたわけではない。
住宅地を抜けて、国道に出た。蝦夷春蝉のほかに、鶯(うぐいす)の鳴き声も加わる。速足のペースを保ちながらしばらく道なりに歩き、いつものように工業団地へと入っていく道を曲がった。
やかましく吠える犬の声が聞こえてきて、あたりを見わたした。どうやら僕の背後から声が近づいてきている。振り向くと、五十メートルほど後ろから白い小型犬が一匹だけでこちらへと駆けて来ているのが見える。飼い主の姿はない。犬は僕と目が合うと立ちどまり、一層やかましく吠えだした。白くうねった短い巻き毛で、一応、首輪をはめている。あれはテリアという種類の犬ではないだろうか。犬は僕を標的と定めたようで、すごい勢いで吠えたてて、走ってくる。
これはまずい。おそらく走って逃げても逃げきれないし、隠れる場所もない。それでも他に手段がなくて、とにかく走った。犬は簡単に追いついてきた。
ほんとうにやかましいし、顔とその牙が恐ろしい。僕は観念して走るのを止め、足でしっしっと追い払ってみる。犬はますます吠える声を高め、敏捷にかわした僕の足を嚙もうという仕草をする。それどころか、ひっこめた僕の足にまで噛みつこうと身体を乗り出してくる。たまらない。僕はまた走り出した。後ろを向いたり横を向いたり態勢を変え足で牽制したりして犬との間合いを取りながら走る。
「おいちょっと、こらこら、あっちいけって」
心臓をばくばく言わせながら蛇行して走る。そんななか、自分の引きずる影に気が付いた。走って逃げる僕と同じ動きで、影も地面で躍っていた。僕も影も必死に動いていた。
犬が僕の右側に身体を寄せてきたので、距離を取ろうと左へ移動する。影もタイムラグ無しに左へぴったりくっついてくる。
犬には犬の影があり、飛び跳ねてみたり噛みつこうとしたりするその動作をトレースして動いている。
僕の影の動きは僕そのもので、犬の影の動きは犬そのものだった。否応ない、それは影だった。
犬は影とともに僕の足元を空噛みしている。追い立てることに喜びを覚えているようだ。僕はまた立ち止まると、今度は影といっしょに身構えてみせる。犬の目を見据え、本気を出すぞ、と表情で威嚇した。察した犬は、二、三歩後ずさり、そこからたぶん十秒近くにらみ合った。でも、にらみ合うというより、僕はこれからどうしたものか、と困っていたのだし、犬のほうもさっきより気の抜けた顔で、右を向いたり左を向いたりしているし、おそらく僕を追うことにもう飽きたみたいだった。
犬はくるっと後ろを向くと、元気よく走り去っていった。当たり前だけれど、ごめんなさい、もないし、満足した、の一言もなく。
ほっとした僕は、小さくなっていく犬の姿を見送ると、元の進行方向へ向き直り、駆けだす。どうしてなのか、楽しくなってきたのだ。
眩しい陽射しのせいで濃くなった影は音もなくついてくる。
足下を躍動するそんな影を引き連れて、僕はいつまでも、駆け続けた。
〈了〉
参考文献
『石炭博物館ガイドブック』 NPO法人 炭鉱の記憶推進事業団 編
『法然親鸞一遍』 釈徹宗 新潮新書
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