Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『陽だまりのこちら、暗がりのとなり』 第二話

2024-03-09 05:15:00 | 自作小説20
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 夕飯はとうに済み、両親と三人分の食器洗いを終えて風呂にも入り、上りしなの風呂掃除もやり終えて、Tシャツと下着という恰好で自室の布団に寝そべっていた。
 かつて、どれだけの闇を知っているか、で他人と張り合おうとしていた時期があった。スマホのニュースアプリの画面を眺めながら、それとはまったく関係なく大学生の頃を思い出していた。悪友というべき二人の男と僕はつるんでいて、彼らとだけは張り合っていたのだ。彼らはその後、どのような人間になっただろうか。
 それにしても、瑤子が僕をピーターパン・シンドロームと見なしていただなんて、実に心外だった。外からはそういうふうに見えてしまうらしい。ネット世界からの闇の見聞が多かっただけで、まともな社会経験の乏しい、おそらく世間離れしているに違いない自分が、他者からどう見られている存在なのかがわかる出来事だった。
現実世界は自分が思うよりもずっと僕のことを見ているもので、なおかつ一方的に規定してくる性質がどうやらあるようだ。困ったことに、見えているところだけで想像を膨らませ、思い込み、決めつけてくるきらいがあるように思う。世間の平均的な感覚って、そうじゃないだろうか。
 それが現実と呼ばれるものだ。そして、強固な世間というように言い換えが利く。ときとして暴力性を帯びる世間。
 軽い雨が降ってきた。タッチパネルをタップするみたいに屋根を叩く雨音だ。スマホを机の脇に置く。朝、ウォーキングのときに拾った石炭の塊の隣に。照明を落とすのも面倒で、明るいままごろんと布団の上に転がり直し目を閉じた。埃っぽい畳の匂いがいつもより鼻につく。
 ピーターパンか。大人になれないだなんて。
 それだけの強力な重力を持つ子ども時代にずっと繋ぎ留められて生きていくのは、おそらく苦しいだろう。それだけにとどまらず、ピーターパンは周囲の人たちをも苦しめるのだと思う。なんであいつはああなんだ、と言いたくもないことを陰で言わせてしまうのだ。たとえ本人に自覚がなかったとしても、本人の心の奥底の、さらにもっと底の場所では、ピーターパンはちゃんと自分の生きづらい苦しみを真正面から感じているのではないだろうか。他人に、なんであいつはああなんだ、と言われてしまうピーターパンの振る舞い自体が、子ども時代から逃れられないための無意識があげる、悲鳴なのかもしれないのだから。
 幼かった頃の記憶をなにか思い出せないか、想いを過去へと飛ばそうと努める。保育園に通っていたころ、保育士のお姉さんが他の子をちやほやするのに、顔立ちがぱっとしない自分はぞんざいに扱われた日々が甦ってきた。先生! とお姉さんを呼んでみても、こちらを見る彼女の顔はいつもほとんど真顔だった。どうして他の子たちには笑顔なのに、僕には微笑んでくれないのだろう。そう戸惑う気持ちが作用したのか、よくわかりはしないのだけれど、お昼寝の時間に眠れた試しは皆無だった。
 おそらく僕はピーターパンとは正反対だ。小学生以降をざっと思い浮かべても、重力を生じさせるくらいの魅力的な子ども時代を過ごせていないのがわかる。子ども時代なんてすべてくしゃくしゃに丸めて焚き火にくべてしまいたいくらいだ。執着心の湧いてこない子ども時代なのだから、僕は大人になれない子どもとして、繋ぎ留められていない。
 でも、待てよ。ひょっとすると、だからこそピーターパンになる可能性があるのかもしれない。満足のいく子ども時代を過ごせていないから、子ども時代をやり直すべく、肉体的に大人になってからも、子どものように振る舞ってしまうことがあるのかもしれない。そうやって、子ども時代に構築されるべきだった自分自身の内側の秩序のようなものを、不完全な状態から完全なそれへと育むために、仮の子ども時代に居続けるのではないのか。凛としながら社会と戦っていくためには、自分個人の内的な秩序ができあがっていないといけないと思う。その終わらないあがきが、大人になれないという結果なのかもしれない。そんな仮説も浮かぶ。
 十代の後半に闇を食らっていた僕はどうだ。闇を食らうという問題のある行為は、ピーターパン的な二種類の方向とはまた別のケースだったのかもしれない。
闇を食らう行為はある種の、代替行為だったのではないのか。大人になるための健康的な道を選ばなかった僕にとっての、大人になるためのオルタナティブな道だったような気がしてくる。それは白日に照らされた道ではなく、トンネルの中のように暗くじめじめした道のほうだったのだ。

 雨音は止まず、少しずつ深みを増していく。存在感を強めた音が耳に届いてくる。音の粒たちをそれまでは皮膚で弾いていたはずなのに、その雨音はいつしか体内に少しずつ少しずつ最初はめり込むように、そして器用に痛覚をはずしながら沁み込むように内部へ突き刺さり始め、その深度を深めるのを身体で聴いた。その細かく軽い音が浸透しつくすとき、つまり音たちがすべて貫通していくとき、僕は解体し始める。そんな確信めいた空想の状態に至った意識で、さらに雨音を聴き続ける。今夜、どんな眠りがやってくるのか、僕にはわからなかった。不安も期待も、なにも無かった。
 いつしか、雨音が気にならなくなった。しばらく僕は、何をということもなく、とりとめなく何かを考え続けていた。考えがある程度進んでいっても、その軌跡は僕の記憶にストックされない。ただただ、流れていく川のような思考だった。外で家の周りに敷いている砂利が踏みしめられる音がした。雨による音ではないな。そう意識を、それまでの移ろう思考から逸らした瞬間、まだ外では雨が降り続いていることに気づいた。再び、ざりざり、という音が聞こえた。狐か鹿がやって来ているのかもしれない。目を開けてみた。
 照明のスイッチを切った記憶は無かったのだが、部屋の中は真っ暗だった。仰向けの身体を捻じ曲げ腕を伸ばし、枕元の定位置にある目覚まし時計の上部ボタンを押してライトをつけた。照らされた盤面を見ても時間はわからなかった。ライトが付かなかったわけじゃない。時計の針が、かくっ、かっくん、かっくんかくっ、と乱雑なリズムでいびつに動きながら逆回転していたからだ。これはなんなのだろう。それでも気味の悪さよりもまだ冷静さが勝っていた。時計の針の不規則な動きはもちろんとても奇妙だったのだけれど、それよりも部屋の中に何者かの気配が満ちていて、反射的にそちらへと注意を張り巡らせたからだと思う。空き巣か何かだろうか。
それよりも、僕はいつ寝入ってしまったのだろう。雨音を聞きながら、形にならない考え事をし続け、気が付いたら部屋の中は真っ暗にされていて、信じがたいことに息をひそめた誰かがいるらしい。寝入った隙を突かれてしまった。ざっ、ざざざっ、と外では砂利の上を歩く音が素早く動いている。音の正体は野生動物ではなく、もしかすると人間の可能性だってある。
 男による低い声が聞こえた気がした。暗闇の隅々に目を凝らしてみる。すると、窓の上のほうに、ぼうっと白く浮かび上がる細長い楕円の輪郭を見つけた。
「隠してはおけない」
 今度は声の内容が分かった。楕円は次第に顔へと変化した。それは白い仮面だった。能で使われるような、昔風の化粧を施した女の白い肌の仮面。横に軽く広げられた真っ赤な唇の間から、わずかに歯がのぞいている。その女の仮面からなのだろう、また男の低い声がした。
「隠し通すことは不可能だ」
 暗闇の中に浮き出た仮面は弱々しく発光してほの白く、こちらに正対し僕を見据えている。僕は動けなかった。いや、正確にいうと、動くことを瞬間的に自分で禁じていた。動いてしまうことで、今は保たねばならない、とどうしてなのか直感しているその均衡が崩れてしまうような気がしたからだ。僕は身じろぎすることを控えた。
「君の深い罪」
 動かない唇でそう仮面がゆっくり言ったとき、気分が急速にざわついた。
「君の深い罪のための贖いを求めにきた」
 仮面がもう一度そう言ったタイミングで、また外の砂利が踏み鳴らされる音がした。閉じた両方の脇の下が熱くなっていて、汗でずいぶん湿っているのがわかる。怖い、と思った。
「幼い頃を覚えていないのか。幼い頃に君が家庭で受けてきた仕打ち。それがずっと繋がっている」
 過去が急速に甦ろうとしている気配を感じた。頭からすうっと血の気が失せていく。それとともに、甦りつつある過去が意識の上に燃えている炎を叩き消していき、無念さと諦めの混じった煙をもくもくと立ち昇らせていって、立ち向かうための気力を削いでいく。燃えるものの無くなった気持ちは身体とともにずしりと重くなった。 
 僕はずっと、両親の言うがままの人生だった。お仕着せに従わないとよく怒鳴られたし、叩かれることもあった。それが当然で、自分で自分のことをどれだけ決めていいものなのかも、ほとんどわからなかった。小学校の高学年になって、ようやくはっきりと周囲と自分との違いを感じ取った。僕はクラスメートたちよりもずっと親の干渉を受けていたし、自分で自分のことを決められない体質になっていたのだった。まもなく反抗期を迎えていったが、やっとのことで少しずつ芽生え始めた主体性は道を逸れ、闇に沈潜し闇を獲得するためばかりに発揮された。そのように繋がっていったのだ。ああ、そうか、と空っぽの気持ちで納得した。だからなのか、と本来ならばすぐに吹っ切ってしまいたい何もかもを飲み込みながら、心の裡に視線を向ける。僕は、がらんどうでずしりと重い、まるで空の酒瓶のようだった。
 仮面がにやりと笑ったような気がして目を凝らしたが、実際にはそのようなことはなく、半笑いの形に固定された表情は変わらず、白く浮かび上がったままだった。
「外では」
 仮面の声が少し高くなったような気がする。僕は力の入らない身体のまま、仮面を直視している。
「外では君の深い罪を突き止めた、腕よりの警官たちが待ち構えている。観念したほうがいい」
 もう砂利が踏み鳴らされる音は聞こえなくなっていたのだが、そうだったのか、警官たちが包囲しているのか、じゃあもうどうにもならないだろう、と立ちどころに諦めの気持ちになる。もはや従うしかない。
「君の罪は重い。人殺しの罪」
 封印された記憶がほじくり返されようとしている。意識の上にのぼらせてはいけない、たぶん血みどろの記憶を、仮面によってどうやら掘り起こされてしまう。やめろ、と言う間もなく。拒否も抵抗も試みる前に。ただもう、眼前に突き付けられたその受け入れられない事実を、認めるしかないと思った。外の警官たちの前へ姿を現し、自首するべきなのか。
「あれは違う。あれは僕がやったんじゃない」
 言ってみると、それはまったく正しい言い分だった。だけれど同時に、それは言い訳だ、と奥底のほうにある気持ちが主張する。
 仮面が小さく笑い声を立て始めた。低い声が徐々に高まり、小さな笑い声が甲高い女のものになった。そして激しさを増し、耳をふさぎたいくらいの哄笑へと変わった。不意に置時計を見た。時計の針は止まっている。秒針も。さっきみたいに逆回転すらしていない。
「捨て去るのだ」
振り返ると、仮面の姿が無い。その空間には闇があるばかりで、ぼうっとその闇を見つめていると空間がぐるぐると回転し始めた。耐えられなくて目を閉じたのだが、閉じた瞼の内側にも僕の部屋の姿が映り、猛烈な回転を続けている。逃れられなくて、体をねじってあがいてみる。それでも、仮面のあった位置のふくらんだ暗闇を、閉じた眼の中で僕は見続けていて、どうにも視線を外すことができない。
 そうしているうちに、だんだん意識が薄らいできた。寝入ってしまうときの感覚だ。その成りように僕は身を任せる。はたして、すうっと意識が薄れたそのとき、目を開いた僕は煌々と明かりのともる自室にうつぶせで寝転がっていた。置時計が示す時刻は零時を少し過ぎている。しっかりと等速で右回りに秒針が動いているのを見て、僕は大きく安堵の息を吐いた。気が付くと、Tシャツの脇の下や胸のあたりがだいぶ湿っている。額や鼻の下ににじみ出ているぬらぬらした汗を指でぬぐう。まるでほんとうに罪を犯したかのような気分だったな、と振り返る。実に嫌な夢で、妙にリアルな夢で、でも不快な気分は回復する方向へと、上昇軌道に乗ろうとしていた。

 だけれど、その日から三日間、毎晩うなされた。
 夢の中での僕は、深い罪を犯していながらもそれを隠し続け、捕まらず、そして裁かれずにいた。世間を欺きながら、いつ自分の罪が周知のものとなるのかとひたすら怯えていた。バレないように細心の注意を払って周囲と普段通りの話をし、危険そうな場面ではめまぐるしく頭を回転させて、嘘をつき取り繕った。夢の終わりではいつも、容疑者とされて警官たちに追われ、逃亡しながら目覚めた。
 印象的なのは、その夢の始まり方だ。日常をいつものように過ごしていて突然、心の底のほうからぬぼうっと浮かんでくるなにかがある。黒くねばねばした塊のようなそれがどうやら、消去することなど不可能な、過去に犯した罪の悔恨だった。僕は、あるときにとんでもない罪を犯している。それは今までは、まるで休火山のように寝静まった記憶として存在して、思い出すことができなかったものだ。なぜならおそらく自己防衛のために無意識がその力を用いて本能的に封印していたからで、どういうわけなのか、唐突にその封印が解かれ火山活動を再開し、受け入れらない過去が黒い噴煙として立ち昇っている。
 時の柱に刻まれた事実は改変などできない。ただそこからの影響をじっと受け続けるだけなのだ。逃げも隠れもできるものではない。変えようのない過去の事実はつまり、人生には人生を都合よくリセットなんてできないことを意味する。リセットできたと考える者は、目を逸らしているだけ。どんなに辛くても受け入れなくてはいけない。
 不意に目を覚ました過去のこの罪によって、気力がどうしようもなく削がれていく。とてつもなく重大な過ちを犯してしまっていた、と初めは思う。自首して裁かれなければいけない、と感じ始めもする。でも僕にこの平穏な日常を捨て去る勇気や覚悟は生じてこない。僕の今の人生には、たとえ平凡だったとしたって、なにがしかの可能性がいろいろな方面にまだまだあって、それらを求めていく自由を投げ出すわけにはいかなかった。この期に及んで罪を隠し通そうだなんて図々しいに違いないが、それが嘘偽りのない僕という人間の姿なのだった。まったく狡猾だった。
 夢の中では疑うことなくそう思いこんでいる。現実には犯していない罪にさいなまれる毎夜の夢だったが、あの白い能面のような仮面はそれから一度もでてこなかった。あれはたぶん、僕の心が生み出した化け物なのだろう。でも、なぜ、と思う。若かったときに求め続けた闇からの復讐なのだろうか。

 今日も朝から、ウォーキングのために屋外に出ている。シフト制なので、平日におもむろに休みの日がある。雲の少ない暖かで穏やかな日だった。蝦夷春蝉のじりじりいう直線的な鳴き声が、そよぐ風よりずっと速く届く。道すがらの水仙やムスカリはまだまだ満開で、園芸が盛んな一軒家の前を通ると赤や黄のチューリップや白や藤色の芝桜が咲き誇っているのを見られもした。
 いつものウォーキングコースを十五分ほど歩いていると、それは住宅地の細い道から国道に出たばかりのところなのだけれど、道端でボランティアのゴミ拾いを一人でしている坪野さんに出くわした。今日もファイターズの帽子。白地に水色の横縞の長袖スウェットと、濃いグレーの綿のパンツだ。好天のおかげで伸びのびとして爽やかな気持ちだったのが、ぷしゅうと音を立ててもおかしくない勢いでしぼみ始め、渋く縮こまる。また詮索されるかもしれない。職歴にならない時期には部屋で一人、自問自答の日々を過ごしていたなんてことを、もしも正直に打ち明けてみたとしたら、奇矯な奴だ、と怪訝な目の色で見られかねない。世の中というものの性質として、内向的なタイプだ、とバレるとそれだけで他者からの良くない想像を招き寄せてしまいがちなのだ、と僕は察している。鋭いカーブボールがするっと軌道から逸れていくように、他人の内向性を目の前にすると態度が露骨にがらりと変わる人はわりと多い。気構えをした。
「おお、喬一君か。今日も歩いているのか」
 坪野さんは顔を上げると、首にぶら下げているくたびれたタオルで鼻の頭を拭った。しょっちゅう屋外でなんやかやの作業をしているからか、張りの乏しい肌が浅黒い。
「まだまだ腹の肉が落ちないので。坪野さんもお疲れ様です」
 カラスが鋭く啼きながら頭上を通過していった。このカラスのようにわめき啼きたい気持ちこそ無理やり圧し留めてはいるけれども、僕も早くこの場所を通過したかった。
「こうやって拾ったって、しばらくすればまたけっこうな量が散らかる。ゴミを道端に捨てていくのに抵抗感ってないのだろうか。なあ?」
 煙草を吸っていた時期、路上で吸殻を投げ捨てたことが何度もあった。この会話の流れだと素直に言いにくいのだけど、あえて言ってしまう。
「実は僕も若いとき、煙草をポイ捨てしたことがけっこうあるんですよ。たしかに抵抗感はありますけど、いいや、と思って捨てちゃうんですよね。煙草と一緒に善い気持ちもかなぐり捨ててしまうっていうか。悪い事、してました」
 こうやって煙草のポイ捨てを自分の悪事だと単純に認めて言いのけることで、それ以外のもっと酷い悪い性質、つまり自分の闇の部分に触れられないためのカモフラージュができるような気がした。僕はポイ捨てくらいの闇しか秘めていない人間ですよ、というふうに。
 坪野さんはみるみる目じりを下げる。
「喬一君は正直だな。俺も若い頃にハイライトの吸殻をさ、気にしないでそこらに捨ててたな。他人のことは言えないな」
 ははははは、と顔からはみ出るくらいに笑ってから、坪野さんは火ばさみのようなもので草むらに絡まる濡れ汚れたマスクをつかみ、ゴミ袋につっこんだ。お互い道徳に反していた部分が思いがけず分かち合われたことで、なんだか仲間意識のようなものが坪野さんとの間に生まれ始めているような気がした。まずまず悪くない気がしてくる。坪野さんはいったん手を休めて何かを思い出そうしている様子だったが、まもなくまた喋りはじめた。
「ゴミを捨てていくみたいなモラルに反する行為をちょっとやるのはな、おそらくは人間が成長していく段階で通る道なんだろうな。自分を弁護するわけじゃないんだが、なにかしら道を逸れた経験をしてみないとわからんこともあるよな。それが痛手になったり、あとから悔やんだりして得られるものもあるだろうし。逆にいえば、なんにもモラルに反さないでさ、善行ばかりで歳をとっていったら、傲慢で薄情な人間になるかもしれなくないか。疑いようなんかないくらい自分が正しいっていう自信に満ち溢れたような、な? 俺はもう八十近いけどさ、自分が正しいと思いこんでいるかいないかで言えば、ちょっと危ういんだよな。それでも、そういう正しいんだっていう自信が視野を狭くしたり、他人に攻撃的になったりする原因になるだろうってことには気が付いているんだよ。それだけは少しマシかな? どうだろう? いくらか引いた目で見てみれば、こういう悪さは通過儀礼なんだろうなって思うよ。まあそうはいっても、これは当事者本位の見方でしかないからな、迷惑をかけられる側のことももちろん考えないといかんよな」
 若い頃いじめてしまった男子高校生を思い出していた。ほんとうにどうしようもないことをしてしまった。彼に対して僕は詰んでいる。もうどうにもくつがえせない行いだ。
過去の行いに締め上げられ始めたところで、白い軽自動車が道端に止まり運転手が僕らに声を掛けた。坪野さんと二人できょとんと立ち尽くしていると、運転手が降りてきて、あらためて「すみませんが」と言う。六十代後半くらいに見える痩せた男だった。坪野さんは、あれ? と言うと首を前に突き出したまま固まるのだった。そして、おたく、なんて言ったっけ、と男を見つめる目を皿にした。男も男で目を丸くしながら坪野さんに近づいていき、大きく口を開けて、あー、あー、という声だけで応えていたが、やがて言葉になった。
「いやあ、映画祭のときの方ですね。やあ、またお会いできるなんて。おかげであの時は間に合った。お世話になりました」
 白髪の混じった毛が立つぐらいの短髪で、銀縁の眼鏡をかけている男は、坪野さんの軍手をはめた両手をつかみ、ぶんぶん上下に振り回すように揺すっている。されるがままの坪野さんだったが、皿になっていた目つきがやがて平常のものに戻っていった。
「そうだね、去年の夏だよね。そうか、間に合ったのかい」
 振り回される両腕にも坪野さん自身の意思が戻り、男との熱烈な握手の形に変わっていた。男は萌黄色に紺色のラインの入ったネルシャツを着てジーンズを履いている。こざっぱりとしてカジュアルだったし、髭もきれいに剃られていた。
 僕の町では毎年、映画祭が催されている。東アジアからの出品作品の多い映画祭だ。真冬だったり初夏だったり開催時期はころころ変わるのだけれど、一年に一度の開催という体裁は保たれていた。
 男は牧さんといい、小樽の人で、今回は観光目的で道央の旧産炭地であるこの町を再訪したそうだ。
「それで、まず博物館に行くつもりだったのですが、場所がいまいちよくわからなくて。地図をみても、今どこにいるんだろってわからなくなって。あ、カーナビは壊れてるんです。画面が真っ暗なまんま。まあ壊れてなくてもうまくいじれないんですが。こういうの得意じゃなくてね。そんなものだから、教えてもらえませんか? 昨年と同じようなことになってまた申し訳ないんですが」
 牧さんが左手で自分の頭頂部あたりをぽんぽんと叩きながらそう言うと、坪野さんが応える。
「教えてあげるけどさ。今日は博物館だけなのかい? 他にも回りたいところがあるんじゃないの? まあ、方々で道を尋ねればいいんだけど、それも大変だろうしなあ」
 牧さんは博物館のあとにこの町名物であるカレー蕎麦を食べ、そのあとダムを見て道の駅に寄って帰りたい、とのことだった。
「なあ、喬一君。博物館からダムまではどのくらいかかるかな」
 自分の町のことでも、観光のこととなるとふだん考えないことだった。博物館だって、小学校の社会科見学以来行ったことがないのだし。
「まず、ここから博物館までが30分くらい。そこからダムへ行くとなると道を途中まで引き返してそこから左へ道を折れてしばらくかかりますし、1時間ちょっとでしょうか」
 そうだな、と坪野さんは肯く。牧さんは向かって左の眉を少しだけ上げた顔を曇らせている。
「私にわかる道だといいんですが。本来ならスマートフォンを使うべきなんでしょうが、方向音痴に加えて機械音痴でね、使い方がいまいちわからなくてどうにもならんのです」
「なに、道案内の青い看板にでてるから。あれを見落とさなければ大丈夫だよ。運転してるとでてくるでしょ」
 だよな、と坪野さんは僕に同意を求めてきて、異論はないので、そうですね、と返す。でも、牧さんの表情は晴れず、顎についた薄い肉をつまみながら、ふーん、とか、うーん、とか唸るばかり。
そんな牧さんを見つめていた坪野さんが、ふっと僕へと視線の向きを変えると、見入るようにしてくる。僕は嫌な予感がして反射的に目を逸らした。
「ガイドするか。喬一君」
 その場で感じる嫌な予感というものは、どうしてこれほどよく当たるのだろう。
「え、僕がですか。博物館に行ったのってもう三十年近く前ですよ」
「いやいや、道さえわかっていればいいんだよ」
 言いにくかったが、坪野さんこそ適任ではないですか、とまかせようとしたのだけれど、坪野さんは、自分は午後から診療所に行く予定なのでね、と牧さんに説明している。牧さんも牧さんで、希望を見出したように、それまでと打って変わって表情が晴れている。左右の眉尻も柔らかく下がっていた。
「都合さえ問題なければ、私もお願いしたいです。博物館の入館料も、昼食代も持ちますし、それに少しですけどガイド料も差し上げますから、どうでしょう、お願いできませんか?」
 半呼吸すら置かずに坪野さんも詰めてくる。
「喬一君、これから用事はあるのか」
 用事は無かったし、でっちあげられるような用事も急には思いつかなかった。なかば押し切られるようにして、僕はガイドを引き受けてしまった。

 二人にはその場で待っていてもらって、僕は身支度のために一度帰宅した。ジャージからベージュのチノパンツと薄手のグレーのパーカーに着替え、財布や携帯電話をポケットに詰め、両親にいきさつを告げて家を出る。すると不意に、もう十年以上も前になる厳しい真冬の、小便臭い地下鉄駅構内で起こったある出来事の記憶が甦ってきた。それは、二十代後半に見えた美しい女性との苦い記憶でもあった。
 二十一時を過ぎていたと思う。人がまばらなホームに仕事帰りの僕はいて、どこを見るわけでもなく、あちこち視線を移ろわせながら列車を待っていた。すると、背後で、どしん、と鈍い音がした。振り向くと、年配のサラリーマンが倒れている。右半身を地面につけ、上半身と下半身がすこし捻じれるように横たわっていた。
僕は周囲を見回した。人が倒れたよ、誰かがどうにかするんでしょ、そういう気持ちだったと思う。自分がここで応急の対処をするなんて、犯してはいけない間違いのような気さえした。何が起ころうとも、僕はその何かに一切関わらなくていいと線引きされた側の人間で、関わるのは他の誰かだと決まっているはずだ、と。
 視界の外から濃灰色のパンツスーツに同系のコートを着込んだ女性が小刻みな速い足音と共に現れて、倒れた男に歩み寄った。長い黒髪の美しい、細身の女性だった。その場からのフェードアウトを考えていた僕は迷い始めた。女性は倒れた男に声を掛けた。大丈夫ですか、聞こえますか。それから、呼吸があるか、脈があるかを確かめている。僕は女性の手助けをする気があるかのような動きだけの振る舞いをした。彼女の近くで手を出そうとしたり、同じようにしゃがんでみたり。仕草のみの、何をするべきなのかまったくわかっていない偽りの、救助行動をまねる動きだった。傍目には、おたおたとして情けなく映っただろう。そのうちさすがに気まずさを感じ始めたので、タイミングを見計らいその場を立ち去る気でいた。でも、集まってきた人たちの輪の中から自然な動きで脱け出ることが難しく、その場に居続けることになってしまった。
 彼女は現場の近くに寄ってきた大学生ぐらいの年格好の男に駅員を呼んでくるよう指示すると、倒れた男のネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをひとつふたつ外し、縮こまるように曲がっていた脚を伸ばす。そして男にさらに呼び掛けを続けた。
 駅員が来て、それから救助隊員の人たちが来た。倒れた男は、その頃には意識を取り戻していて、はじめは気怠そうに、現在の自分の状況が飲み込めず不思議そうな目をして、ぼんやりと思案に暮れているふうな表情だった。そのうち隊員がはきはきとした口調で呼び掛けると弱々しくではあったが、答えを返していた。やがて男は担架で運ばれていったのだった。
 僕はそれよりも、美しい女性のことが気になっていた。よかったですね、あなたのおかげですね、と声に出さずに目だけで語りかけるようにして彼女に微笑みかける。すると、きつく睨み返され、こう言われた。
「何もできないのはまだしょうがないとしても、立ち去ろうとするなんてなんなのよ。あなた一番近くにいたでしょう。助けられる人がいないか呼びかけたりできなかったの」
 僕という人間の本性が見抜かれ、わかられていた。それはそうかもしれない。この、ほんの短い何分かの土壇場に、僕は本性を表に垂れ流していたのだ。それでも僕は、まだ誤魔化しが効くと思って、取り繕うべく何かを言った。彼女はかっとなって大きな声で僕を叱責した。それがどんな言葉だったのかは覚えていない。確かなことは、彼女の叱責が僕の魂を強くひっぱたいたということだった。僕は自分でもはっきりとわかるほどのぎこちない歩様で、その場から離れた。この一撃によって僕の大切な細い芯の一部分が砕けていて、ずっと遠くの乗り場までなんとか移動しても、気持ちは寄る辺なく宙に浮いたまま落ち着かず、胸が不穏な息苦しさを訴えた。どんな人間にも顔を見られたくない気分だった。到着した車両に乗り込み、空いていた座席に腰を埋めると腕組みをし、マフラーを口元が覆われるくらいまで引っ張りあげて目を閉じた。
 この時から僕は自分を本心から、駄目だ、と思うようになったし、それまでとははっきりと違う自分を見つけだすためのよすがとして、少しずつ本を読むようになっていった。この出来事が、それから続いていく自己との対話への決定機になったのだ。その対話なくして闇を突き放すこと、つまり闇の対象化は無理だったと思う。今の自分への変節、それは良い意味での変節なのだけれど、それはなかっただろう。闇の場から光の場への回帰は望めなかった。
 いや、光の場への回帰という言い方は間違いだ。光の場に回帰できているとはまだ言えないのだから。僕のいる場所は、陽だまりのこちら、暗がりのとなり。
 牧さんが笑顔で僕のほうを見て手を挙げている。相変わらず何もできはしないけれど、僕は紙一重のところで立ち去らずに前へ進んだ。その違いは嬉しかった。

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