Fish On The Boat

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『陽だまりのこちら、暗がりのとなり』 第四話

2024-03-11 05:15:00 | 自作小説20
         *

 そんな出来事のあった日の夜でも、意識を席巻するあの夢は容赦なかった。僕は人を殺めてしまった想いに、やはり苛(さいな)んでいた。無条件にそんな夢の中へと放り込まれる。
 自分が罪を犯したときの記憶はなかった。具体的に思い出せることはなにも無いのだ。にもかかわらず、自責の念と、取り返しのつかないことをしたという想いだけが胸に充満し、全身を脱力させる。
将 来への希望は塵となり風のひと吹きで消え去ってしまう。そのあとすぐに無風状態の時間が訪れるのだけれど、その時間が表現しているものがまさになんら混じりけのない絶望というやつで、それはたった数十秒のワンシーンのたかだか五分の一を観ただけでも、無理やり泣かせようとしてきているのがわかるベタなドラマくらいわかりやすくそこに存在していて、心底嫌になった。
 何日か経った平日の休みの午前中、間柴瑤子と待ち合わせをしていた。待ち合わせといっても、僕の自宅前まで彼女が車でやってきて、苺をもらうだけなのだけれど。
 十一時に行くね、とのメッセージだったのだが、実際に来たのは十二時近かった。ごめん、急な仕事がなかなか終わらなかった、と瑤子は両手を合わせて遅れたことを謝った。僕は、この間、ピーターパン・シンドロームと言われたことに思いのほかショックを受けたのがあって、瑤子の顔を見ると、ついまた思い出して気になってしまう。
「この間さ、ピーターパン・シンドロームって言ったじゃない。あれ、けっこうぐっさり刺さったよ」
 抗議しようかしないか迷った末に、する方へと気持ちがわずかに転じてのことだった。
「え、そうなの、ごめんごめん。深く考えてなかったのよ。ほんと、悪い。許して。そんなに気を悪くしないで」
 瑤子はさっきよりも力を込めて両手を顔の前で合わせて謝る。立てた手と手首のところで直角に曲がった腕の肘が横に張っている。けっこうな力が入っていた。本気で謝ってくれているのがわかって気持ちがゆるまるのを感じた。
「そんじゃ、まあ、いいや」
「ごめん。ごめんよー。もう言わないから。でもさ、喬一ってけっこう気にしいなんだね」
 瑤子はちょっとにやつくように口角を上げ、ゆるめた目許の表情でじっとりと僕の目を見つめてくる。
「気にしいって」
「いやいや、冗談よ。でもなんか、かわいいんだよね。いやいや、これも冗談だけど」
 瑤子は機嫌良さそうに高らかに笑うと、僕の働くスーパーで売っている苺パック換算で言えば3パックはあるたくさんの苺の入った大きなタッパをくれると、手を振って帰っていった。少しだけイラついたけれど、瑤子らしい茶目っ気だった。
 気にしい、って言われたか。この言葉が、懐かしい広中佳(か)苗(なえ)を思い起こさせた。同じことを何度か、彼女にも言われた。久しぶりに思い出す広中佳苗。『枕草子』の好きなあの広中佳苗。大学生の頃に付き合っていた彼女だ。
「ねえ、喬ちゃん。最近さ、なになに〈じゃん〉って言わないじゃない。なんで急に?」
 佳苗が何かを聞いてくるとき、おずおずと顔を覗きこむようにする場合は、僕が不機嫌だからで、このときもそうだった。
「この前、佳苗ちゃんが言ったでしょ。ずっと北海道育ちなのになんで横浜言葉なのって」
「それでなの? 横浜言葉が多いよね、ってちょっと言っただけなのに」
「そうだっけ? なんかさ、よくないのかなってずっと思ってる」
「よくないなんてそんなことないよ。気にしすぎなんじゃないかな。気にさせたのは悪かったけど、喬ちゃん、気にしい」
「そんな、気にしいってわけでもないよ」
 自分が気にしいだなんてまるで想定していなくて、即座に突っぱねてしまう。佳苗は僕が戸惑い、ちょっと心を乱している様を見逃さずに、しげしげと僕の顔を覗きこみ、珍しいものを見られた喜びに口元を緩めてさえいる。「今の喬ちゃん、よき顔をしてますよ」なんて憎らしいことまで言った。
「性格悪いよ」
 不仕付(ぶしつ)けに言ってやったのだが、佳苗の微笑みはますますきらめいたし、ついには僕も笑ってしまった。
 佳苗にはそういったふうに踏み込んでくるところがあったが、いつもどこか凛として明るい女だった。彼氏の僕に弱音を吐いたりもしなかった。精神的に独立した女性という気がして、僕は彼女を高く評価していたし、強く惹かれた。佳苗という光に照らされて、闇の世界にいた僕は、目がくらむようにして、小さな迷いを持ち始めることになる。闇の世界に安住していた僕が迷い始めたのは、佳苗の発する光に揺さぶられたからだ。
 佳苗とは警備員のバイトで出合った。彼女は警備会社の事務所で事務のバイトをしていた。たまに現場から事務所に寄ることがあって、僕はそんなときに彼女に気づき、声を掛けた。話してみると大学が一緒だったし、学部が違いはしたけれど同学年だった。それから学食でいっしょにご飯を食べたり、お茶を飲んだりするようになった。自分の本性を偽りながら、つまり闇を隠しながら。
 密閉するようにまでして闇を隠した自分で他人と接するのは、新鮮な経験だった。いや、というよりも、ずっと昔、思春期になる前まで作動していた、埋もれている思考システムを懸命に発掘し、再起動して実戦で使っているような、緊張感のある経験といった感覚のほうが強かった。
 それでも、佳苗との関係はうまくいった。佳苗は初めての性行為の相手になった。ほどよく肉のついた佳苗の美しい裸体を眺めたとき、自信が持てなくて少しばかり慄いたのを覚えている。それでも、佳苗がやさしく促してくれたので、行為をまっとうできたのだった。佳苗は初めてではなかった。
 僕はその当時、佳苗に溺れてしまいたかった。それだけじゃなく、もしかすると、佳苗を自分のコントロール下に置いてしまいたいという支配欲もあったかもしれない。でも、佳苗は絶妙に距離感を保ち、やんわりと拒否したり、ときには拒絶をしながら、自らが、そして僕が、お互いのために依存を深めたり犠牲になることのないように振る舞った。ずぶずぶの関係を佳苗は嫌った。
 付き合い始めて二ヵ月近く経った秋が深まった頃、学食でご飯を食べ終えてからも席を立たず、今度、シリーズもののハリウッド・アクション映画の最新作を観に行こうか、という話をしていた。そこへ、僕の数少ない友人の二人がテーブルの脇を通りかかり、こちらへ手を挙げて挨拶をしてきた。黒髪の長髪と、金髪の短髪だ。佳苗に対する思考システムと彼らに対する思考システムはかなり違うものなので、僕の気持ちにはふたつに引き裂かれるような痛みが走ったし、振る舞い方がまったくわからなくて焦りはじめもしていた。
 二人ははばからず佳苗を視線で舐めまわす。誰が見ても不快に感じるようなにやけ方をしている。いつものように彼らに対して自然な応対をしていたならば、僕も同じようなにやけた笑みを浮かべていたことだと思う。僕ははっとし、急ブレーキを踏んだ。普段の思考システムをここで立ち上げてはならない。友人の一人、黒髪のほうが言った。
「あれ? 喬一さん、この方はどなたなのかな? まさか、お付き合いなさってるんじゃないですよね、俺らになんの紹介もないのですが」
 丁寧さを装ったぎこちない言葉遣いが、僕と佳苗の間の空気を汚染しだす。
「ああごめん、そのうち紹介しようと思ってたんだ」
 友人二人は吹き出す。金髪のほうが言った。
「ちょっとまって、なに、喬一、その態度、いつもと違いすぎねえ」
 二人はさらにげらげら笑う。まずい、と思って佳苗を見ると、軽く顔をしかめている。黒髪のほうが言う。
「それで、お二人はいったい、あの、どこまでのお関係で?」
 僕はいら立って、会話を断つべく、たまらずこう言った。
「悪い、二人だけにしてくれないか。今度、いろいろ説明するから」
 二人は、わかった、じゃあな、またスロット行こうぜ、と去っていった。何度か振り返り、大きな動作で僕らの関係を茶化すようにし、軽く嘲るみたいにして。頬杖をついた佳苗が聞いてくる。
「あの人たち、喬ちゃんの友達なの? あんまり感じが好くなかったけど」
「なんていうか、まあ、友達なんだけど」
 うまくかわせる言葉が出てこなかった。佳苗の、ふうん、と言ってしかめた眉がとがって感じられ、胸がちりちりと痛んだ。でもすぐに、まあいいけど、と曇りの無い表情に戻ってくれて、僕はほっとした。
 あの二人からは、その後、しつこく佳苗との関係を聞かれた。いつからだ、とか、エッチは週何回ペースだ、とか、下世話なことばかりだった。僕もそういう仲間だったのだから、彼らを非難することはできない。それでも、今度俺らと四人で遊ばねえか、という誘いは速やかに断った。
 つるんでいた友人たちに、恥ずかしさを感じる。そして、佳苗の前で、それまでの自分でいることも恥ずかしいと感じる。そんな変化は、佳苗という光に接したからであることは間違いなかった。
 それから僕と佳苗は、友人たちにつきまとまわれることが多くなった。住む世界の違う彼らは、その彼らの世界の尺度で接してくる。それはそれまでの僕だって安住していた世界の考え方であり、やり方だった。だから、僕は「よせよ」なんて二人を突っぱねはしても、それはじゃれあいの範疇を越えない生ぬるいもので、佳苗との二人の世界は汚されていくばかりだった。友人二人からすると僕の態度はとりすましたものだっただろうし、佳苗からすると二人だけでいる時よりも不純さの度合いの濃いものだっただろう。
 佳苗は清少納言が好きだった。清少納言は自分に悪い噂が立ち、自分が大切にしたい人との関係に誤解をもたらすようなときでも、自分から弁明や説明はしない人だった、と彼女は言っていた。佳苗は笑って、こう言った。癪に障ったらしいから、と。やせ我慢でもあるけどね、とも続けた。
 僕は自己弁護ばかりしていたように思う。それもぼんやりと、曖昧にだ。佳苗は去っていった。癪に障ったのだろうか、出会いそして過ごしてきたときと同じように、晴れやかな表情で、最後に「さよなら」と言って。
 僕はそれから、春はあけぼの、からはじまる最初の段しか知らなかった『枕草子』を本屋で手に取ってみた。でもやっぱり、最初の段しか読まなかったのだけれど、夏は夜、のところを何度も読み直した。
 夏は夜がよくて、満月が出ている頃はとくによく、闇が支配的な新月の夜であっても、蛍が飛び交っている様子がよい、一匹や二匹が闇に舞っているときなんて風情がある。
 佳苗は、僕が闇に覆われていた時期に出くわした満月だったのだろう。月の光線に照らされたことによって、僕はそれから長く迷いだす。就職して、仕事終わりに地下鉄駅構内で人が倒れた現場で美しい女性に叱責されるまで。佳苗によって迷いを見出していなかったら、あの叱責での自己否定を経て、前向きに自分の生き方を考え直すことはなかったように思う。鉄壁だった闇の囲いに、確かな亀裂を生んでくれたのが佳苗だったのだ。
 昼食のあと、瑤子からもらった苺を家族で食べた。小粒で、甘みと酸味のバランスの好い、とてもおいしい苺。心が躍る。でも、一度に食べきれる量ではなく、半分ほど冷蔵庫に仕舞うことになった。
 苺の一粒一粒のおいしさは、まるで蛍の光の粒のようだ。そういう光を、僕は愛でることができるようになっていた。闇の中に潜んでいては自らの姿すら視認するのは難しく、そうすると生きている実感を得ることも難しくなってしまう。光は、生きていることを教えてくれる。
 正直に言うと、ときに闇は人を落ち着かせもする。そんな闇に舞う蛍の光。わあっとその光の粒に胸の裡が湧きあがると、本来あるべき姿を思い出させてくれる。心がなごんだり弾んだり、それは人それぞれだろうけれど、気分良く生きていく上でのプラスの影響が光にはあるし、人は本来そういったベクトルにある生き物ではないのだろうか。蛍の光は、そんなベクトルに気づかせてくれる。
 生きていく過程でつまずいたり、ねじくれたり。そういったことはよくある。それでも立ち上がって光の場を志向していくのは、闇の底に溜まる黒々とした虚しさに抗うことだから。虚しさを振り払ったその先に向かうことだから。
 人が自らを救うきっかけになりうるものとしての、物言わぬ光がただそこにある。活かせるか活かせないかは、その人に委ねられている。
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