読書。
『大人の学校 入学編』 糸井重里・淀川長治・野田秀樹・川崎徹・荒俣宏・天野祐吉
を読んだ。
1991年頃にテレビ東京の深夜に放送された番組を書籍化したものを再編集した本です。
まず、糸井重里さんが言葉とはどういうものなのかについて語る
「イトイ式コトバ論序説」からはじまります。
言葉未満のもやもやしたものを「名づけること」で言葉になる、
なんて僕なんかは若い頃から考えてきましたが、
糸井さんの場合はそのあたり、
名づけられてもいないものたちだって言葉の素なんだ、と考えます。
言葉という概念がでっかいんですね。
だから、言葉未満のものとして言葉と区別しちゃいがちなものの、
いっしょに言葉を作っているものとして仲間として扱う。
そこは非常に面白い考え方でした。
くだけた感じの話の流れなのに、アカデミックなものを扱っている感じで、
知的興奮を覚える内容です。
たぶん、フーコーあたりもふまえて、
40歳をちょっとすぎたくらいのこの頃の糸井さんは講義したんですね。
続いて、もうけっこう前に亡くなられた、
映画解説の巨人である淀川長治さんが「美学入門」の講義をします。
映画を例にして、「愛」や「粋」について語ってくれる。
そしてそれがちょっとした都会論になっていくのです。
次に、演劇の野田秀樹さんが
「非国語」の講義をします。
こちらは、糸井さんのコトバ論とは趣がちょっと違う。
「素コトバ」と「汚コトバ」を軸に話を進めてくれる。
「素コトバ」とは言葉と意味が実直に、一対一で結びついている言葉で、
書き言葉はこちら。
「汚コトバ」とは話言葉で、第三者が聴いても意味がわからなくても
会話する二人には通じるような言葉。
「素コトバ」は伝え、「汚コトバ」は感化するという特徴があります。
このあたりも、深く見ていくと非常におもしろい分野なんですよね。
次は、川崎徹さんの「無意味講座」。
意味と無意味ってなんなんだろう、と見ていく。
意味のなかに無意味があるのか、無意味のなかに意味があるのか。
どういう構造になっているかをみていったりする。
また、先生は広告屋さんですから、もっとも広告的な講義になっています。
この講義も、非常に、表現ってものを考えるときに重要な内容になっていました。
最後に、荒俣宏さんの「図像論」。
これを読むと、美術の鑑賞の仕方がわかります。
西洋美術は「見る」よりも「読む」ことでわかるだとか、
美術にうとい僕なんかには教えてくれるものが山のようにあります。
たとえば、魚はギリシャ語で考えたときにはキリストの寓意になる。
当ブログのタイトル、「Fish On The Boat」なんて、
小舟に乗ったキリスト、みたいに解釈されてもおかしくないんですよね。
たまに、イタリアやドイツや、
いろいろな外国からアクセスが急増するのはそのためかもしれない……。
それはそれとして、本講義の最後では森永やグリコなどの商標も扱います。
そこまでの理路が深かったし、商標の章もおもしろかったです。
天野祐吉さんは主宰という立場で講義はされていません。
どの講義もエキサイティングで、
80年代からこの時期くらいまでの
こういう、知を巡る熱い投げかけと受けとめ、って好きですね。
今はこんなに熱く自分の考えている分野について語る人っていないし、
そういう場もないですよね。
あっても、マニアックなところへ行っちゃっているというか、
間口が狭くなっている。
わかる人だけわかればいい、の
わかる人のターゲットが本当に少ない領域に絞られてしまっている。
それはいいとして。
いろいろ示唆に富む内容でした。
まさかっていうくらい、ここまで知的に楽しめる本だとは思わなかった。
得られたものも大きかったです。
都会論のところは、淀川さん、川崎さんをいっしょに考えることで立体的になり、
これは次の創作に役立てていきます。
いやあ、よかった。
『大人の学校 入学編』 糸井重里・淀川長治・野田秀樹・川崎徹・荒俣宏・天野祐吉
を読んだ。
1991年頃にテレビ東京の深夜に放送された番組を書籍化したものを再編集した本です。
まず、糸井重里さんが言葉とはどういうものなのかについて語る
「イトイ式コトバ論序説」からはじまります。
言葉未満のもやもやしたものを「名づけること」で言葉になる、
なんて僕なんかは若い頃から考えてきましたが、
糸井さんの場合はそのあたり、
名づけられてもいないものたちだって言葉の素なんだ、と考えます。
言葉という概念がでっかいんですね。
だから、言葉未満のものとして言葉と区別しちゃいがちなものの、
いっしょに言葉を作っているものとして仲間として扱う。
そこは非常に面白い考え方でした。
くだけた感じの話の流れなのに、アカデミックなものを扱っている感じで、
知的興奮を覚える内容です。
たぶん、フーコーあたりもふまえて、
40歳をちょっとすぎたくらいのこの頃の糸井さんは講義したんですね。
続いて、もうけっこう前に亡くなられた、
映画解説の巨人である淀川長治さんが「美学入門」の講義をします。
映画を例にして、「愛」や「粋」について語ってくれる。
そしてそれがちょっとした都会論になっていくのです。
次に、演劇の野田秀樹さんが
「非国語」の講義をします。
こちらは、糸井さんのコトバ論とは趣がちょっと違う。
「素コトバ」と「汚コトバ」を軸に話を進めてくれる。
「素コトバ」とは言葉と意味が実直に、一対一で結びついている言葉で、
書き言葉はこちら。
「汚コトバ」とは話言葉で、第三者が聴いても意味がわからなくても
会話する二人には通じるような言葉。
「素コトバ」は伝え、「汚コトバ」は感化するという特徴があります。
このあたりも、深く見ていくと非常におもしろい分野なんですよね。
次は、川崎徹さんの「無意味講座」。
意味と無意味ってなんなんだろう、と見ていく。
意味のなかに無意味があるのか、無意味のなかに意味があるのか。
どういう構造になっているかをみていったりする。
また、先生は広告屋さんですから、もっとも広告的な講義になっています。
この講義も、非常に、表現ってものを考えるときに重要な内容になっていました。
最後に、荒俣宏さんの「図像論」。
これを読むと、美術の鑑賞の仕方がわかります。
西洋美術は「見る」よりも「読む」ことでわかるだとか、
美術にうとい僕なんかには教えてくれるものが山のようにあります。
たとえば、魚はギリシャ語で考えたときにはキリストの寓意になる。
当ブログのタイトル、「Fish On The Boat」なんて、
小舟に乗ったキリスト、みたいに解釈されてもおかしくないんですよね。
たまに、イタリアやドイツや、
いろいろな外国からアクセスが急増するのはそのためかもしれない……。
それはそれとして、本講義の最後では森永やグリコなどの商標も扱います。
そこまでの理路が深かったし、商標の章もおもしろかったです。
天野祐吉さんは主宰という立場で講義はされていません。
どの講義もエキサイティングで、
80年代からこの時期くらいまでの
こういう、知を巡る熱い投げかけと受けとめ、って好きですね。
今はこんなに熱く自分の考えている分野について語る人っていないし、
そういう場もないですよね。
あっても、マニアックなところへ行っちゃっているというか、
間口が狭くなっている。
わかる人だけわかればいい、の
わかる人のターゲットが本当に少ない領域に絞られてしまっている。
それはいいとして。
いろいろ示唆に富む内容でした。
まさかっていうくらい、ここまで知的に楽しめる本だとは思わなかった。
得られたものも大きかったです。
都会論のところは、淀川さん、川崎さんをいっしょに考えることで立体的になり、
これは次の創作に役立てていきます。
いやあ、よかった。
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