読書。
『グランド・フィナーレ』 阿部和重
を読んだ。
第132回芥川賞受賞作。芥川賞作品だけれど、これ、売れなかったん違うだろうかと思いながら中盤まで読みました。なにせ、主人公がどうしようもないロリコン(実際に犯罪レベル)でDV加害者で薬物をやってたりする。世間からは視野の外に置かれるに違いない、恥ずかしい男を直視しないといけない作品だったからです。こういう作品を読むと、なんのために小説を書き、そして読むのか、読まれるのかという問いが急襲してきます。
作品はフィクションではありますが、現実で生きる感覚を失くさずに読書に挑めば、多くの人たちが嫌悪感を感じざるを得ないのではないか、と推察される。自分の気持ちや、僕の想像の範囲内での他者たちの反応を考えて言うことではあるのだけれど、なぜ皆、反射的にこういう男を見ないようにするのか。潔癖の裏に、自らの認めたくない暗部の存在を気取るのかもしれません。酸いも甘いも噛み分ける領域に爪先だけだとしても踏み入れている人なんかはそうなのではないか、とある意味でふっかけるみたいに、勝手に決めつけて考えてしまいました。
そこで再び、なんのために書いたのだ、と考えをこらしてみると、「こういった際どいモチーフを、空気を読むなんてせずに詳らかにしてしまおうぜ、それは好奇の目とはまた違った平常の目で見てみて、なにかを感じたり分析したり意味を考えたりするために。もっと言えば、なにより人間理解のためになるのだし」という動機がもやもやっとあって書いたのかなあ、と推察されてくるのでした。合っているかどうかは別として、僕としてはそういう気持ちになってくるのでした。
さて。二部構成のその第二部に入ったあたりから、比喩の使い方や「長距離大量輸送機関」などのわざと堅い表現を用いたりなどして、ただストーリーの記述をするだけになってしまわないような仕掛けになっていました。事実と解説だけではおもしろい文章になりません。そこに回想がまじったり、筋とは離れた出来事、たとえば、ノストラダムスに予言された90年代末を過ごしたときの人々(気にした人々は一部に過ぎないのだけど)を比喩のように使ったりなどして、作品の長い長い記述をカラフルにしたり凹凸をつけたり緩急をつけたりして、よい意味で読み手をくすぐり揺さぶり転がす。そうやって読み続ける目を離れさせない機能を持たせているのではなかったでしょうか。
では引用です。
__________
同時に、今更ながらわたしは、ごく当たり前の常識かもしれなかった世の道理を突然に思い知らされたかのような気分に陥っていた。
子供たちの時間の掛け替えのなさにふと思い当たることにより、わたしは深い自己嫌悪の念に襲われたのだった。わたしはその、子供たちの掛け替えのない時間というものを、自らの欲望と利益のために容赦なく奪い続けてきたわけだ。――美江や大勢の少女たちから。(p129)
__________
→主人公は秘かに児童ポルノ商品を製作していて、少女たちを性的に搾取してきました。なかには、性行為にまで及んでもいる少女もいました。この部分は第二部の中盤ですが、第一部の終盤で、「I」という女性から同じ意味合いの言葉で罵られています。主人公はそれを、この段になってようやく自覚するに至る場面でした。このあたりはこの作品の足を地につける役割でもあるのだと思います。「子供たちの掛け替えのない時間というものを、自らの欲望と利益のために容赦なく奪い続けてきたわけだ」という部分は、性的にじゃなくても、そうしている大人だとか親だとかはいます。スペインの画家・ゴヤの作品『我が子を食らうサトゥルヌス』に、なんだかイメージをダブらせてしまう箇所でした。
要するに、少女たちの人生を自らの欲望や利益のため収奪していた主人公が、児童ポルノの趣味がバレて離婚されるという自業自得の報いを受けながらショック状態になり、そのタイミングで主人公の所業を主人公とのたまたまの飲みの場で知ったIという知人女性がわざわざ主人公の行いやパーソナリティを再度確認しに宿泊先の一室にまでやって来て、その挙句、まともな言葉と論理で主人公を非難した、あるいは罵った内容が、幸運にも主人公の内面に鈍い一撃を与え、これまで疑いすらしなかった自らの在り様を支えるシステムを攪拌させる反応をもたらした。
少しだけ違う角度からの言い方をすれば、自分勝手な欲望による行動が他者にとってはどういう意味を持ったかを、過去にそういったことから大きな傷を受けた知人女性から非難されて主人公は「あれ?」と思ったのではないか。その「あれ?」が第二部では主人公の中で自覚として芽吹く。つれて想像力も発揮されるようになっていきました。
ここに本作のひとつのテーマを読むことができます。それは次のようなものです。欲望が他者への想像力を押しとどめてしまい、そういったことでの悲劇性を描いている。許されないことをして間もない主人公だけれど、変節できること、変節したっていいんだということ、そういった自由は希望であり救いだったのではないか(罪についての責任問題とはまた違うところで、このことは尊重されたらいいのではないのかなあ。社会秩序のなかでその枠組みに人間を当てはめると責任が最優先となるし、人間のほうへ枠組みをあてるのならば変節の自由というものは尊重されたらいい)。
二部構成の本作でしたが、第一部が、想像力を欠いた主人公の都市部での生活で、第二部は想像力を得るその瞬間を含んだその前後の、地方の共同体での生活の話になっています。もういちど言いますが、「想像力ってこういうものなんだ」っていうのがひとつのテーマなのではないか。想像力獲得前、想像力獲得後の話として、僕はまとめて考えました。
そして、ひとりの人間の生活としてとってみても、いろいろな位相があって、それぞれの位相に合わせた自分自身というものがあることも描いていると読みました。人間は多面体、と言われもしますが、生活自体が重層的にできていたり、場所によって性質が変わったりして、その都度、表に立つ「面」は変わりがちで、そういった意味合いでの多面体という意味を知れる作品でもあると思うところでした。
最後の1ページから感じられるのは、主人公の人生が芯の通ったものとしての本番がようやく始まる、主人公はそういう気構えを持つに至った、というものです。そしてオープンエンドを遂げますが、タイトルは「グランド・フィナーレ」でしたから、そこでひとつ終わらせたことがとても大きくて、そこにクローズアップしたタイトルになっているのかなと思いました。終わりは始まりであり、しかもグランドと付くくらい大きな意味を持つ終わりから始まっていくのかな、なんて。
他、「馬小屋の乙女」「新宿 ヨドバシカメラ」「20世紀」という三篇を収録。「馬小屋の乙女」はエロ要素の他に、それよりも色濃いシュールさとナンセンスさを感じました。僕が好きな和田ラヂヲ先生のギャグ漫画に通ずるものがあるような気がします。「馬小屋の乙女」と「20世紀」は表題作「グランド・フィナーレ」の第二部と同様に神町が舞台でした。余談ではありますが、ちょっと検索してみると、作者の阿部和重さんは、山形県にあるこの神町という土地のご出身だそうです。北海道民は地理や日本史に弱い、なんて高校生の頃に聞かされたことがありますがそれはほんとうにそうで、僕は神町を架空の土地だろうと思い込むところでした。今では自衛隊の基地があり、さらに検索すると自衛隊がらみのニュース記事がでてきたりします。
というところですが、本作は、中途半端には読まないでほしいなあと思った作品です。読むならば最後まで。合わないと思ったならば、すぐに止めるというように。「無理をして読み通したらほんとうに気分が悪くなった」だとか考え得るので、「だいたいのものを読めるよ」という比較的「猛者」にあたる読者、読むものによって気持ちが浮き沈みしがたい読者、そういった方々にはおすすめしたくなりますが、「ちょい危険」とは書いておきます。書き手になりたい人は読むべし。
『グランド・フィナーレ』 阿部和重
を読んだ。
第132回芥川賞受賞作。芥川賞作品だけれど、これ、売れなかったん違うだろうかと思いながら中盤まで読みました。なにせ、主人公がどうしようもないロリコン(実際に犯罪レベル)でDV加害者で薬物をやってたりする。世間からは視野の外に置かれるに違いない、恥ずかしい男を直視しないといけない作品だったからです。こういう作品を読むと、なんのために小説を書き、そして読むのか、読まれるのかという問いが急襲してきます。
作品はフィクションではありますが、現実で生きる感覚を失くさずに読書に挑めば、多くの人たちが嫌悪感を感じざるを得ないのではないか、と推察される。自分の気持ちや、僕の想像の範囲内での他者たちの反応を考えて言うことではあるのだけれど、なぜ皆、反射的にこういう男を見ないようにするのか。潔癖の裏に、自らの認めたくない暗部の存在を気取るのかもしれません。酸いも甘いも噛み分ける領域に爪先だけだとしても踏み入れている人なんかはそうなのではないか、とある意味でふっかけるみたいに、勝手に決めつけて考えてしまいました。
そこで再び、なんのために書いたのだ、と考えをこらしてみると、「こういった際どいモチーフを、空気を読むなんてせずに詳らかにしてしまおうぜ、それは好奇の目とはまた違った平常の目で見てみて、なにかを感じたり分析したり意味を考えたりするために。もっと言えば、なにより人間理解のためになるのだし」という動機がもやもやっとあって書いたのかなあ、と推察されてくるのでした。合っているかどうかは別として、僕としてはそういう気持ちになってくるのでした。
さて。二部構成のその第二部に入ったあたりから、比喩の使い方や「長距離大量輸送機関」などのわざと堅い表現を用いたりなどして、ただストーリーの記述をするだけになってしまわないような仕掛けになっていました。事実と解説だけではおもしろい文章になりません。そこに回想がまじったり、筋とは離れた出来事、たとえば、ノストラダムスに予言された90年代末を過ごしたときの人々(気にした人々は一部に過ぎないのだけど)を比喩のように使ったりなどして、作品の長い長い記述をカラフルにしたり凹凸をつけたり緩急をつけたりして、よい意味で読み手をくすぐり揺さぶり転がす。そうやって読み続ける目を離れさせない機能を持たせているのではなかったでしょうか。
では引用です。
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同時に、今更ながらわたしは、ごく当たり前の常識かもしれなかった世の道理を突然に思い知らされたかのような気分に陥っていた。
子供たちの時間の掛け替えのなさにふと思い当たることにより、わたしは深い自己嫌悪の念に襲われたのだった。わたしはその、子供たちの掛け替えのない時間というものを、自らの欲望と利益のために容赦なく奪い続けてきたわけだ。――美江や大勢の少女たちから。(p129)
__________
→主人公は秘かに児童ポルノ商品を製作していて、少女たちを性的に搾取してきました。なかには、性行為にまで及んでもいる少女もいました。この部分は第二部の中盤ですが、第一部の終盤で、「I」という女性から同じ意味合いの言葉で罵られています。主人公はそれを、この段になってようやく自覚するに至る場面でした。このあたりはこの作品の足を地につける役割でもあるのだと思います。「子供たちの掛け替えのない時間というものを、自らの欲望と利益のために容赦なく奪い続けてきたわけだ」という部分は、性的にじゃなくても、そうしている大人だとか親だとかはいます。スペインの画家・ゴヤの作品『我が子を食らうサトゥルヌス』に、なんだかイメージをダブらせてしまう箇所でした。
要するに、少女たちの人生を自らの欲望や利益のため収奪していた主人公が、児童ポルノの趣味がバレて離婚されるという自業自得の報いを受けながらショック状態になり、そのタイミングで主人公の所業を主人公とのたまたまの飲みの場で知ったIという知人女性がわざわざ主人公の行いやパーソナリティを再度確認しに宿泊先の一室にまでやって来て、その挙句、まともな言葉と論理で主人公を非難した、あるいは罵った内容が、幸運にも主人公の内面に鈍い一撃を与え、これまで疑いすらしなかった自らの在り様を支えるシステムを攪拌させる反応をもたらした。
少しだけ違う角度からの言い方をすれば、自分勝手な欲望による行動が他者にとってはどういう意味を持ったかを、過去にそういったことから大きな傷を受けた知人女性から非難されて主人公は「あれ?」と思ったのではないか。その「あれ?」が第二部では主人公の中で自覚として芽吹く。つれて想像力も発揮されるようになっていきました。
ここに本作のひとつのテーマを読むことができます。それは次のようなものです。欲望が他者への想像力を押しとどめてしまい、そういったことでの悲劇性を描いている。許されないことをして間もない主人公だけれど、変節できること、変節したっていいんだということ、そういった自由は希望であり救いだったのではないか(罪についての責任問題とはまた違うところで、このことは尊重されたらいいのではないのかなあ。社会秩序のなかでその枠組みに人間を当てはめると責任が最優先となるし、人間のほうへ枠組みをあてるのならば変節の自由というものは尊重されたらいい)。
二部構成の本作でしたが、第一部が、想像力を欠いた主人公の都市部での生活で、第二部は想像力を得るその瞬間を含んだその前後の、地方の共同体での生活の話になっています。もういちど言いますが、「想像力ってこういうものなんだ」っていうのがひとつのテーマなのではないか。想像力獲得前、想像力獲得後の話として、僕はまとめて考えました。
そして、ひとりの人間の生活としてとってみても、いろいろな位相があって、それぞれの位相に合わせた自分自身というものがあることも描いていると読みました。人間は多面体、と言われもしますが、生活自体が重層的にできていたり、場所によって性質が変わったりして、その都度、表に立つ「面」は変わりがちで、そういった意味合いでの多面体という意味を知れる作品でもあると思うところでした。
最後の1ページから感じられるのは、主人公の人生が芯の通ったものとしての本番がようやく始まる、主人公はそういう気構えを持つに至った、というものです。そしてオープンエンドを遂げますが、タイトルは「グランド・フィナーレ」でしたから、そこでひとつ終わらせたことがとても大きくて、そこにクローズアップしたタイトルになっているのかなと思いました。終わりは始まりであり、しかもグランドと付くくらい大きな意味を持つ終わりから始まっていくのかな、なんて。
他、「馬小屋の乙女」「新宿 ヨドバシカメラ」「20世紀」という三篇を収録。「馬小屋の乙女」はエロ要素の他に、それよりも色濃いシュールさとナンセンスさを感じました。僕が好きな和田ラヂヲ先生のギャグ漫画に通ずるものがあるような気がします。「馬小屋の乙女」と「20世紀」は表題作「グランド・フィナーレ」の第二部と同様に神町が舞台でした。余談ではありますが、ちょっと検索してみると、作者の阿部和重さんは、山形県にあるこの神町という土地のご出身だそうです。北海道民は地理や日本史に弱い、なんて高校生の頃に聞かされたことがありますがそれはほんとうにそうで、僕は神町を架空の土地だろうと思い込むところでした。今では自衛隊の基地があり、さらに検索すると自衛隊がらみのニュース記事がでてきたりします。
というところですが、本作は、中途半端には読まないでほしいなあと思った作品です。読むならば最後まで。合わないと思ったならば、すぐに止めるというように。「無理をして読み通したらほんとうに気分が悪くなった」だとか考え得るので、「だいたいのものを読めるよ」という比較的「猛者」にあたる読者、読むものによって気持ちが浮き沈みしがたい読者、そういった方々にはおすすめしたくなりますが、「ちょい危険」とは書いておきます。書き手になりたい人は読むべし。
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