Fish On The Boat

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『非線形科学 同期する世界』

2025-01-17 23:53:10 | 読書。
読書。
『非線形科学 同期する世界』 蔵本由紀
を読んだ。

「同期(シンクロ)」をキーコンセプトとして、さまざまな興味深い現象を見ていき、そして、その都度、その現象を起こしている「同期」について解説しながら、「同期」そのもののイメージを深めていくような本でした。

17世紀、オランダで活躍した科学者ホイヘンスのよって、並べたふたつの時計の振り子が同期する現象が報告されたのが、この分野の起源とされているそうです。ここからこの分野の話が開始されます。この時点で、「同相同期」と「逆相同期」が解説されているのですが、ならべた時計の振り子が同期して、同じように左右に振れているのが同相同期で、片一方が右に振れたときに他方が左に振れるのだけれどもリズムはいっしょというのが逆相同期です。

同期はさまざまな現象の仕組みに備わっていることが本書ではさまざまに紹介されていて、なるほどなあ、と膝を打つことばかりだったのですけれども、僕もひとつ思いついたのが、DVのある家庭環境で育った子どもが暴力に訴えるようになったり、自分の子どもができたときにDVをはたらいたりする世代間連鎖が同相同期なのではないか、ということでした。さらに気づいたのが、DV家庭で育った子どもが大人になって非暴力の人となっていた場合、それは非同期の可能性がありながら、逆相同期の可能性も捨てられない、ということでした。逆相同期だった場合、それは親を反面教師とした場合ですが、逆相での世代間連鎖だと言えるでしょう。

といったことを考えるとさらに気づくことがあります。世の暴力は、個人がその先代の暴力、そのまた先代の暴力、といったふうに、どんどん先祖にさかのぼって受け継いできたと考えることができて、つまりは、ずうっと昔の先祖から世代間連鎖として受け継いできてしまった負の要素だと考えられるのですが(こういったことの解説をする本『恐怖と不安の心理学』もあります)、同期を破綻させることができれば、悪しき連鎖から逃れられるのではないか、というのがその気づきです。

p37-38に同期の破綻について書かれています。それによると、同期状態にある一方が、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻する、とあるんです。

ちょっとややこしくなるかもしれませんが、ここでひとつ例を書いていきます。とある田舎の話です。田舎ですと、もっと都市部の高校に進学したほうがこの子のためになるから、なんて言い方がされるものです。カリキュラムや授業の質の違いが大きいというのはあるでしょう。できない子に合わせないといけないとかで、できる子にとっては学校で教えられるものが物足りなくなります。

同時に、知らずに周りに合わせる心理が、学力の伸びに関係がありそうでもあります。これは同期現象としてです。田舎の高校にいたままで伸びるには、同期を破綻させないとならない。さっきも書きましたが、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻するのでした。同期していた集団からは、「裏切り者」「見捨てるのか」「あいつは俺らとは違うつもりなんだ」などやっかまれたりすることがあります。それをも振り捨てて、速いペースで生きる。それができる人は非同期でいられる。能力ありきということになるのでしょうか。場によっては、孤高になりますね。

僕みたいに在宅介護をしていると、介護面では人と同期するのがほんとうだし(他者への尊厳をもって接するからです)、でも、介護をやりながら自分のしたい仕事なり勉強なりをするときには非同期でいたい、となります。その境界を作ろうにも、境界線ははっきりひけるものじゃありません。そこのつらさがあるんです。頻繁に非同期への侵犯がある。

同期には同期を保つ引力があり、それを破綻させるには速いペースで振り切らないといけません。同相同期からも逆相同期からも逃れる非同期とは速く走ること。なかなか大変だと思います。

ここにはおそらく、自律性が関連してくるでしょう。また、他律性を嫌うこととは幸せや生きやすさへの条件の一つと僕は考えているのですけれども、他律性を多方面から受け続けるということは、同期ということになるでしょう。

話を戻します。世代間連鎖を破るための非同期を達成するには、自分が親よりも速いスピードで動くとよい、という抽象的な答えが出ました。具体的に考えると、親を超えろ、ということでしょうか。同じジャンルではなく、自分が好きな、進みたいジャンルで、速いスピードで生きていく。コミュニケーション面では寂しくて悲しいことではありますが、同期を破綻させるためには、親に話を合わせず、自分の世代だけでの言葉や考え方を貫く、というのもありそうです。親世代に暴力の匂いを嗅いだら、という前提ではありますし、ここに挙げたいずれもが、僕の仮説であることは断っておきます。

それを踏まえた上で、音楽デュオ・YOASOBIさんによる『祝福』というガンダム作品のオープニング曲の歌詞を引用します。

* * * * * *

誰にも追いつけないスピードで地面蹴り上げ空を舞う
呪い呪われた未来は君がその手で変えていくんだ

* * * * * *

ここ、好きな部分なのですけど、同期し続けてると避けられないようなかりきった暗い未来は、非同期で変えられる、と解釈できるでしょう。

速いペースで生きることは、自分にとっての許容ペース内でないならば、生き急ぐと言われるようなことになりそうです。でも、一度同期を破綻させてしまえば、ずっと速いペースを維持しなくても良いのかもしれないです。


ここからは引用をふたつほど。
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いずれの例においても、平均場は個々の成員の動きを支配すると同時に、逆に成員の動きの全体が平均場を作り出しています。それがここで言う個と場の相互フィードバックです。人間社会でも、これに似た状況はいろいろ考えられます。たとえば、個人の考えに影響を及ぼす世論が個人の考えの総和で形成されるのは、その一例と言えるでしょう。個と場の相互フィードバックが強く働くシステムでは、集団全体を巻き込む突然の秩序形成や秩序崩壊がしばしば起こります。(p96-97)
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→場というのが個の総体としての影響からできてきますが、その場が次には個に影響を与える。そして場から影響を受けた個がさらに場を作る、という繰り返しでたとえば共同体はできている、ということですね。


続いて、
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(略)「個と場の相互フィードバック」という考えかたにあります。実はそこでの「フィードバック」の内容をもう少し丹念に調べますと、それはプラスのフィードバックとマイナスのフィードバックの両方を含んでいることがわかります。再びミレニアムブリッジの揺れに即して述べますと、プラスのフィードバックとは、場が揺れ始めると、そのこと自体がますます揺れを強めるように働く性質のことです。じっさい、場の揺れは個々のメンバーに共通して作用しますから、場が揺れれば、個々人の歩行はもはやばらばらではなく強調したものになるでしょう。ところが、場の運動はこの運動の総体が生み出すものでしたから、この協調運動は場の揺れをますます強めます。これがさらに個と個の協調運動を強める、というように、加速度的に揺れを強めようとする傾向をこのシステムはもっています。これがプラスのフィードバックです。(p99)
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→プラスのフィードバックとは、雪だるま式に物事が大きくなっていってついにはどうにもできなくなることもこれにあたります。「悪循環」という言われ方もされるときがあります。この反対に、マイナスのフィードバックがありますが、それを人工的にプラスのフィードバックを打ち消す形で起こせるのかどうかは、よくわかりません。ここまでわかれば、具体的にどうすればよいかの方策まで、あと一歩という気がします。


最後に。情報化社会となり、多様性が進み、変化のスピードはが加速している現代なのですから、中央集権でやっていくにはもう追いつけない時代なのではという気がしてきました。それは本書の最後で解説された「自律分散型」の地方分権のほうが少なくとも処理能力の点では上じゃないのかな、とわかったからです(それとも、行政の体質が今のままでは変わらないでしょうか。どうして行政って、やらないための理由探しにばかり頑張るのだろう。そこだけがやけにクリエイティブですし……)。自律分散型の詳しいところは本書や他の解説書に譲りますが、たとえば電気送電網でスマートグリッドと呼ばれる新しい仕組みはこの自律分散型です。個々がそれぞれを慮るような仕組みで、やっぱり同期を関係しているのでした。

仕事上で自律分散型を考えると次のような事が思い浮かびます。たとえば多人数いる職場で、まだまだ仕事はあるからできうるだけの速さでやれ、と際限なくスピードを要求するようなのってありますよね。彼女はもう7つこなしたのに君はまだ2つ目か、と叱責されて、早くやれとせっつかれる。人数をそれぞれ個の量としてばらばらに考えているケースです。これを多人数をひとつのシンクロした塊として扱うと、速い人は遅い人に合わせてゆるめ、遅い人は速い人に近づくように少し急ぐという同期のスタイルになります。速い人が遅い人を手伝うというのもこれにあたるでしょう。平均したスピードで、平均的仕事量をこなしていける。自律分散型ってこれですね。



というところです。和を以て貴しと為す、の和は同期現象のことかもしれないですね。とすれば、和をもって同ぜず、の和もそうです。この場合は、「しがらむことなく、でも仲良くやる」、ってことでしょうか。個人の好みや趣向では同調しないけれど、ひとつのコンセプトや目的に向かっては協力するという意味ですかねえ。そういえば、坂本龍一さんは2010年代にasync(非同期)をコンセプトに曲を作っていました。そしてその発想源は非同期を提唱した哲学者ジャック・デリダからでした。僕もいずれ、難しそうなデリダを読むときがくるのだろうか。跳ね返される覚悟で、そのときは挑みたいですね。






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