読書。
『13歳からの法学部入門』 荘司雅彦
を読んだ。
著者は弁護士。
法律はなぜあるのだろう、なぜ必要なのだろう、という初歩的で根源的な疑問から考えていく本です。前半では、正義、国家、自由、権利などを考えていくことで、法律の概念がくっきりとしてくるつくりです。後半では、法律の文章の読み方など、具体的な面を教えてくれます。「13歳から」とタイトルにありますが、初学者、あるいは、ちょっと興味を持った人に対しての間口が広いという意味で、万人におすすめできます。それでいて、法律周辺の深みに触れることができるでしょう。。
中世ヨーロッパの思想家であるホッブス、ロック、ルソーがそろって国家は必要と説いたこと、そして産業革命以降の市場と資本主義の経済、法律が自己増殖するさまなどがまず第一章で語られていました。授業で13歳に語り掛けるように、わかりやすく、深いりはせず、浅く広く。こういった専門的な知識が、触れやすい形で言葉になっているのは、ちょっと面食らうところはあるかもしれませんが、慣れればありがたみすら感じるかもしれません。
その法律を知らなくても、違反したら罰せられるのが法律ってものですからね。それは常識、当たり前の事なのだけれど、実際、知らない法律だらけだったりしますよねえ。
では、いくつか引用をしていきます。
__________
「基本的人権」とは個人の生命・身体・財産が国家によって侵害されないという自由権、国政に参加する参政権、最低限度の生活を営めるよう国家に請求できる生存権が中心となっている。そして基本的人権の中心になるのが「自由権」なんだ。(p116)
__________
→義務教育で教えてもらうことの確認のようなところです。実社会ではけっこうないがしろにされている権利だと思うので、こうして確認してみると基本に立ち帰るような気持ちになりました。
__________
この基本的人権というのが、決して「棚ぼた的」に与えられたものじゃない。
君だけじゃなくぼくも、生まれたときから日本国憲法によって基本的人権が認められていたからピンとこないかもしれないけど、先に書いたように基本的人権は「人類の多年にわたる努力によって勝ち得たもの」であって、ぼくたちにはそれを「保持するだけでなく将来的に発展させていかなければならない」という責務がある。(p117)
__________
→人権が、ある程度担保された世の中に生まれ育ったことで、人権という権利を守らないといけないこと、発展させていかなければいけないこと、そして、それを先人たちが勝ち得てきたことが頭に浮かびにくいということはあるでしょう(僕自身、20代の終わりくらいまでほとんど考えてこなかったと思います)。平和ボケという言葉がありますが、それに近い状態になってしまう。満ち足りた環境に甘やかされてダメになってしまう、というわけで。これはよく陥いりがちな落とし穴です。人権が大切だと気がついていても、その言葉の表層しかわかっていない状態を含めば、ほんとうに多くの人がハマッてしまっているのではないか。もちろん、僕もそうなのですが。
__________
何かを選ぶとき、全部を自分で決めなければならないという状況は、人間にとって実はかなりのストレスになることなんだ。
だって、選んだ後、「自分の選択はこれで正しかったんだろうか?」「別のものを選んだ方がよかったんじゃないかな?」という気持ちは、だれにでも必ず湧いてくるからね。
何か選ぶということは、そういう気持ちを断ち切って、自分の選択に責任を持つということだ。(p123)
自由の重みと孤独に耐えられなくなったとき、人間はどんな行動をとるのか。それを研究したのが二〇世紀の精神分析学者、エーリッヒ・フロムだ。彼は有名な『自由からの逃走』という本の中で、「近代社会は人間に自由をもたらしたが、人間はまだそれに適応できず、かえって不安が高まった」と書いている。
(中略)
自由が辛くなると、人間は、ルールを決めてくれる人を求めるようになる。それで、ドイツの多くの若者が独裁者ヒトラーに狂信してしまった。フロムはそれを「自由からの逃走」と読んだんだ。(p124)
__________
→現代日本は、なんでも個人が自分で決めていいとされる自由主義の社会です。その自由が辛くて、誰かに決めてもらえたら楽なのにと思い、つまり自由によって不安になってしまったりしている人も少なくないのではないか。自由に慣れていないと、ルールを決めてほしいと思い、そのルール通りに生きたくなると。個人的な話ですが、たとえば不安症なうちの父には、自分のことを誰かに決めてほしいという性質がよく見られる。自由さからの影響があるのでしょう。
__________
「権利と義務」というと、権利を持っている人の方が立場が上、権利を持っている人の方が得、そういうイメージを抱くだろう。
抽象的な言葉の上での権利や義務については、確かにそういう面がある。でも現実の世界ではそれとは逆で、権利を持っている者が、実現のために多くの努力をしなければならない。そのことを忘れないで欲しい。(p153)
__________
→人権を守るにしてもそうだけれど、権利を有する者が権利を主張して実現させるためには自分から動かなくてはいけない。社会はそういうメカニズムです。大変な目に遭っていて、いっぱいいっぱいな状態にあるとわかってやっと、権利を主張しなければならないぞ、となったりするケースって多いと思います。で、そこからが大変で、いろいろ勉強したり労力を払ったりしないとならなくなる。
「権利の上に眠るものは保護せず」という言葉があるのだ、と書いてありました。行政でこんな制度がありますだとかも知らないことが多くないですか。学び続けること、自分から動いて制度を教えてもらうことなどは大切ですよね。つまりは、やっぱり人生において「自助」がダントツで大事だということになります。「共助」や「公助」にも大きな力がありますが、なかなか得られにくいものなのですから。
__________
たとえば、さっきもでてきた、日本の民法の七〇九条は「故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と書かれているよね。(p197-198)
__________
→この民法七〇九条は覚えておきたいです。人権侵害がひそかに行われている「家庭」という社会ではこれに該当するような大きな損害って被っていたりする人はいますよ。支配を含む虐待案件なんかはもうそうです。
__________
というのは、アメリカ社会では「個人と神様の約束」という宗教観が根づいている。たとえばボランティア活動をするのは神様との約束を果たすことであり、そのために仕事を休んでも同僚の理解が得られる。陪審員を務めることも同様だ。(p205)
__________
→アメリカ人って、市民一人ひとりが自分たちで街を作っていこうだとか、社会を作っていこうだとかという気概が強くあるような印象を、僕は持っていました。ちょっとうらやましくもあるし、窮屈ではないのかな、と斜めに見たりもしながら。で、そういった、自分から主体的に社会をよくしていこうという気概のその理由がこの引用で言われている宗教観によるものなのだな、とこの箇所で知ることになりました。日本人が社会に対して自分から活動していこうと決心するためには、同調の空気だとか、自らに内面化している卑屈さだとか、個人には力がないという思い込みだとかを打破しないとできないと思うんですね。それを宗教観が、ある程度やすやすと、そのハードルを越えてくるのはすごいです。
といったところです。200ページそこらで、なおかつ2010年の本ですが、いまもなお色褪せない、読み応えのある良書でした。
『13歳からの法学部入門』 荘司雅彦
を読んだ。
著者は弁護士。
法律はなぜあるのだろう、なぜ必要なのだろう、という初歩的で根源的な疑問から考えていく本です。前半では、正義、国家、自由、権利などを考えていくことで、法律の概念がくっきりとしてくるつくりです。後半では、法律の文章の読み方など、具体的な面を教えてくれます。「13歳から」とタイトルにありますが、初学者、あるいは、ちょっと興味を持った人に対しての間口が広いという意味で、万人におすすめできます。それでいて、法律周辺の深みに触れることができるでしょう。。
中世ヨーロッパの思想家であるホッブス、ロック、ルソーがそろって国家は必要と説いたこと、そして産業革命以降の市場と資本主義の経済、法律が自己増殖するさまなどがまず第一章で語られていました。授業で13歳に語り掛けるように、わかりやすく、深いりはせず、浅く広く。こういった専門的な知識が、触れやすい形で言葉になっているのは、ちょっと面食らうところはあるかもしれませんが、慣れればありがたみすら感じるかもしれません。
その法律を知らなくても、違反したら罰せられるのが法律ってものですからね。それは常識、当たり前の事なのだけれど、実際、知らない法律だらけだったりしますよねえ。
では、いくつか引用をしていきます。
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「基本的人権」とは個人の生命・身体・財産が国家によって侵害されないという自由権、国政に参加する参政権、最低限度の生活を営めるよう国家に請求できる生存権が中心となっている。そして基本的人権の中心になるのが「自由権」なんだ。(p116)
__________
→義務教育で教えてもらうことの確認のようなところです。実社会ではけっこうないがしろにされている権利だと思うので、こうして確認してみると基本に立ち帰るような気持ちになりました。
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この基本的人権というのが、決して「棚ぼた的」に与えられたものじゃない。
君だけじゃなくぼくも、生まれたときから日本国憲法によって基本的人権が認められていたからピンとこないかもしれないけど、先に書いたように基本的人権は「人類の多年にわたる努力によって勝ち得たもの」であって、ぼくたちにはそれを「保持するだけでなく将来的に発展させていかなければならない」という責務がある。(p117)
__________
→人権が、ある程度担保された世の中に生まれ育ったことで、人権という権利を守らないといけないこと、発展させていかなければいけないこと、そして、それを先人たちが勝ち得てきたことが頭に浮かびにくいということはあるでしょう(僕自身、20代の終わりくらいまでほとんど考えてこなかったと思います)。平和ボケという言葉がありますが、それに近い状態になってしまう。満ち足りた環境に甘やかされてダメになってしまう、というわけで。これはよく陥いりがちな落とし穴です。人権が大切だと気がついていても、その言葉の表層しかわかっていない状態を含めば、ほんとうに多くの人がハマッてしまっているのではないか。もちろん、僕もそうなのですが。
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何かを選ぶとき、全部を自分で決めなければならないという状況は、人間にとって実はかなりのストレスになることなんだ。
だって、選んだ後、「自分の選択はこれで正しかったんだろうか?」「別のものを選んだ方がよかったんじゃないかな?」という気持ちは、だれにでも必ず湧いてくるからね。
何か選ぶということは、そういう気持ちを断ち切って、自分の選択に責任を持つということだ。(p123)
自由の重みと孤独に耐えられなくなったとき、人間はどんな行動をとるのか。それを研究したのが二〇世紀の精神分析学者、エーリッヒ・フロムだ。彼は有名な『自由からの逃走』という本の中で、「近代社会は人間に自由をもたらしたが、人間はまだそれに適応できず、かえって不安が高まった」と書いている。
(中略)
自由が辛くなると、人間は、ルールを決めてくれる人を求めるようになる。それで、ドイツの多くの若者が独裁者ヒトラーに狂信してしまった。フロムはそれを「自由からの逃走」と読んだんだ。(p124)
__________
→現代日本は、なんでも個人が自分で決めていいとされる自由主義の社会です。その自由が辛くて、誰かに決めてもらえたら楽なのにと思い、つまり自由によって不安になってしまったりしている人も少なくないのではないか。自由に慣れていないと、ルールを決めてほしいと思い、そのルール通りに生きたくなると。個人的な話ですが、たとえば不安症なうちの父には、自分のことを誰かに決めてほしいという性質がよく見られる。自由さからの影響があるのでしょう。
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「権利と義務」というと、権利を持っている人の方が立場が上、権利を持っている人の方が得、そういうイメージを抱くだろう。
抽象的な言葉の上での権利や義務については、確かにそういう面がある。でも現実の世界ではそれとは逆で、権利を持っている者が、実現のために多くの努力をしなければならない。そのことを忘れないで欲しい。(p153)
__________
→人権を守るにしてもそうだけれど、権利を有する者が権利を主張して実現させるためには自分から動かなくてはいけない。社会はそういうメカニズムです。大変な目に遭っていて、いっぱいいっぱいな状態にあるとわかってやっと、権利を主張しなければならないぞ、となったりするケースって多いと思います。で、そこからが大変で、いろいろ勉強したり労力を払ったりしないとならなくなる。
「権利の上に眠るものは保護せず」という言葉があるのだ、と書いてありました。行政でこんな制度がありますだとかも知らないことが多くないですか。学び続けること、自分から動いて制度を教えてもらうことなどは大切ですよね。つまりは、やっぱり人生において「自助」がダントツで大事だということになります。「共助」や「公助」にも大きな力がありますが、なかなか得られにくいものなのですから。
__________
たとえば、さっきもでてきた、日本の民法の七〇九条は「故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と書かれているよね。(p197-198)
__________
→この民法七〇九条は覚えておきたいです。人権侵害がひそかに行われている「家庭」という社会ではこれに該当するような大きな損害って被っていたりする人はいますよ。支配を含む虐待案件なんかはもうそうです。
__________
というのは、アメリカ社会では「個人と神様の約束」という宗教観が根づいている。たとえばボランティア活動をするのは神様との約束を果たすことであり、そのために仕事を休んでも同僚の理解が得られる。陪審員を務めることも同様だ。(p205)
__________
→アメリカ人って、市民一人ひとりが自分たちで街を作っていこうだとか、社会を作っていこうだとかという気概が強くあるような印象を、僕は持っていました。ちょっとうらやましくもあるし、窮屈ではないのかな、と斜めに見たりもしながら。で、そういった、自分から主体的に社会をよくしていこうという気概のその理由がこの引用で言われている宗教観によるものなのだな、とこの箇所で知ることになりました。日本人が社会に対して自分から活動していこうと決心するためには、同調の空気だとか、自らに内面化している卑屈さだとか、個人には力がないという思い込みだとかを打破しないとできないと思うんですね。それを宗教観が、ある程度やすやすと、そのハードルを越えてくるのはすごいです。
といったところです。200ページそこらで、なおかつ2010年の本ですが、いまもなお色褪せない、読み応えのある良書でした。
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