読書。
『良心をもたない人たち』 マーサ・スタウト 木村博江 訳
を読んだ。
いわゆるサイコパスやソシオパス、反社会性人格障害などと呼ばれ、分類される人たちがいます。本書の帯を写すと、「一見、魅力的だが、うそをついて人をあやつり、空涙をながして同情をひき、追いつめられると逆ギレする」ような人々です。本書はこのような人々を「良心のない人々」と定義し、その視座から彼らとはどういった人たちなのか、何者なのか、を明らかにしていきます。「良心をもたない人々」は良心がないがゆえに、この世界をゲームとしてとらえ、他者に勝利し支配する行動をとります。配偶者や子どもを支配する例が多いようです。
僕は本書を読みながら、自分の親や自分自身がサイコパスに当てはまるかどうかを考えました。結論からいえば、まるまるすべてが当てはまりはしませんでした。ただ、部分部分で当てはまるものがあり、サイコパスの片鱗があるのかなと感じたりしました。しかしながら、その判断はとてもむずかしいです。いくつかの別角度で考えることを心がけたり、性格というものにたいしてズームイン・ズームアウトみたいに、近寄って考えたり鳥瞰的に考えたりなどして、かなり本気で向き合ってみても、霧がかかったまま明確に結論は出ません。
90年代に発明されたサイコパス診断シートがあるのですが、むやみに自分自身や近しい人に用いてはならない、とされています。僕が「あるいは、」と考えたのは、本書の筆者が本書にあえてぼかしをいれることで、サイコパスの診断を素人がくだせないように仕向けたのではないか、というものでした。そういった仕掛けによって人権を保護したのかもしれない、と考えるのは、僕が「空想好きのお人好し」だからなのでしょうか?
さて。欧米では25人に1人(100人に4人)はサイコパスだというデータがあるようです。サイコパスって珍しいタイプなのかと思ってたけど、統合失調症(100人に1人)より多い症例なんです。しかしながら、そう思いながら読んでいたら、東アジアではもっとずっと少ないと載っていました。集団主義的な文化的な背景、世間とかのしがらみが、単独行動とセットのサイコパスを生みにくくしているのかもしれません。
良心は、寝不足や歯痛などの身体的な不調によって弱くもなるもので、サイコパスのような「良心をもたない」行動へその人の行動を近かせるようです。また、恐怖や不安によっても良心は弱くなる。それと、権威に服従するというもともとの性向を人間は持っているのですが、権威からの働きかけやプレッシャー、服従によっても良心は弱くなり、サイコパスのような行動をとりがちになる。サイコパスは自意識が希薄なことが決定的な特徴だとあるのですが、こういった外的な要因のために自意識が弱まり良心も弱くなるのだろうと考えられます。強迫症で寝不足でという状態だったらほぼ間違いなくその人の行動はサイコパス同等のものになるのでしょう。サイコパスは周囲を支配し他者の人格を壊してしまいます。たとえば、ある人がもともとサイコパスではなくとも、寝不足や不安を原因としてサイコパスと同等の行動をしてしまうのなら、その被害はサイコパスからのものと同等のものを周囲の人は受けてしまい、迷惑そして問題です。ほんとうのサイコパス自体は精神症状と判断すべきものなのか難しいものですが、寝不足や不安を原因としてサイコパスと同じ行動をとっているとわかったとするならば、その源の精神の問題をきちんと治療したほうがいいです。
<つねに悪事を働いたりひどく不適切な行動をする相手が、くり返しあなたの同情を買おうとしたら、警戒を要する>(『良心をもたない人たち』p145)
妻に暴力をふるいながら、俺はなんてダメで情けないんだ、といいはじめ、殴られた妻が同情し始める。サイコパスの常套手段らしいです。どうして同情を買おうとするのか。他者から哀れんでもらうことで、サイコパスは他者を無防備にします。哀れんでいる人間は無防備になるからです。そうやって、好き勝手にできる力を得る。……というように説明がなされていたのだけど、納得がいきます。また、ちょっと想像を膨らませて考えてみると、サイコパスの者がサイコパスだとばれたとき、自分がサイコパスにならざるを得なかった後天的な理由があることを、サイコパスの者は同情を引くように述べだすと思うんです。サイコパスにそう語られた人たちは、そこがほんとうのような気がしてしまってわからなくなりがちではないでしょうか。いちばんのやっかいな点ではないかと。
<サイコパスは完全に自己中心なため、体のあらゆる小さな痛みや痙攣にたいして自意識が猛烈に強い。頭や胸に一瞬感じる痛みがいちいち気になり、ラジオやテレビで聞きかじった話は、トコジラミやリシン(トウゴマに含まれる毒性アルブミン)にいたるまで、すべて自分の身に置きかえて心配になる。その不安と警戒心はつねに例外なく自分自身に向けられるため、サイコパスは自分の健康を病的に不安がる心気症患者のようにもなる。彼らにくらべれば重症の不安神経症患者でさえ、理性的に見えるほどだ。>(p253)
<一般的に彼らは努力を続けることや、組織的に計画された仕事は嫌がる。現実世界で手っ取り早い成功を好み、自分の役割を最小限にする。>(p254)
<なにかに真剣に没頭することや、毎日訓練を重ねて美術や音楽その他の創造的な力を磨くことは、サイコパスにはまったく向いていない。(中略)結局のところ良心のない者は、人にたいするときとおなじように、自分の才能と接する。才能の面倒をみようとしないのだ。>(p255)
また、サイコパスはほとんどつねに単独で活動する。(ここは僕自身、単独行動ばかりなので誤解されるなあと気になったのですが、僕の場合は若いころから自分で自分を閉じなきゃいけない理由があったからなのでした。家族の問題が頭の大半を占めているのに、それを語っちゃいけない、ということで、他者から離れていってそれが板についたのでした)
なかなかわからなくなってくるところもあると思います。現在の資本主義の競争社会だと、ある意味、サイコパスが勝者になりやすいように見えるし、こういった社会の側から、勝者になるためにはサイコパス的行動を、と奨励されるような気配すらあるように感じられるからです。
最後に。本書はサイコパス、つまり「良心をもたない人々」を詳しくみていくことで、反対に「良心」についても深く考えていく作りになっていました。良心とは、愛ゆえの義務感である、とされていました。さらに、良心は抑制を生みもします。僕は最近、自制心って実はとても大切なんじゃないか、と考えるようになりましたが、ここでいう良心による抑制は、僕の考える自制心とニアリーイコールなのでした。まあ、おそらく、サイコパスかどうかっていうところも、多くの人々にとっては0か1か、白か黒か、ではないのだと思います。きっとグラデーションの濃淡のある種類のものです。それも、その時々によっても変化しているのではないかな、と考えるところなのですが、実際、どうなんでしょう……。
『良心をもたない人たち』 マーサ・スタウト 木村博江 訳
を読んだ。
いわゆるサイコパスやソシオパス、反社会性人格障害などと呼ばれ、分類される人たちがいます。本書の帯を写すと、「一見、魅力的だが、うそをついて人をあやつり、空涙をながして同情をひき、追いつめられると逆ギレする」ような人々です。本書はこのような人々を「良心のない人々」と定義し、その視座から彼らとはどういった人たちなのか、何者なのか、を明らかにしていきます。「良心をもたない人々」は良心がないがゆえに、この世界をゲームとしてとらえ、他者に勝利し支配する行動をとります。配偶者や子どもを支配する例が多いようです。
僕は本書を読みながら、自分の親や自分自身がサイコパスに当てはまるかどうかを考えました。結論からいえば、まるまるすべてが当てはまりはしませんでした。ただ、部分部分で当てはまるものがあり、サイコパスの片鱗があるのかなと感じたりしました。しかしながら、その判断はとてもむずかしいです。いくつかの別角度で考えることを心がけたり、性格というものにたいしてズームイン・ズームアウトみたいに、近寄って考えたり鳥瞰的に考えたりなどして、かなり本気で向き合ってみても、霧がかかったまま明確に結論は出ません。
90年代に発明されたサイコパス診断シートがあるのですが、むやみに自分自身や近しい人に用いてはならない、とされています。僕が「あるいは、」と考えたのは、本書の筆者が本書にあえてぼかしをいれることで、サイコパスの診断を素人がくだせないように仕向けたのではないか、というものでした。そういった仕掛けによって人権を保護したのかもしれない、と考えるのは、僕が「空想好きのお人好し」だからなのでしょうか?
さて。欧米では25人に1人(100人に4人)はサイコパスだというデータがあるようです。サイコパスって珍しいタイプなのかと思ってたけど、統合失調症(100人に1人)より多い症例なんです。しかしながら、そう思いながら読んでいたら、東アジアではもっとずっと少ないと載っていました。集団主義的な文化的な背景、世間とかのしがらみが、単独行動とセットのサイコパスを生みにくくしているのかもしれません。
良心は、寝不足や歯痛などの身体的な不調によって弱くもなるもので、サイコパスのような「良心をもたない」行動へその人の行動を近かせるようです。また、恐怖や不安によっても良心は弱くなる。それと、権威に服従するというもともとの性向を人間は持っているのですが、権威からの働きかけやプレッシャー、服従によっても良心は弱くなり、サイコパスのような行動をとりがちになる。サイコパスは自意識が希薄なことが決定的な特徴だとあるのですが、こういった外的な要因のために自意識が弱まり良心も弱くなるのだろうと考えられます。強迫症で寝不足でという状態だったらほぼ間違いなくその人の行動はサイコパス同等のものになるのでしょう。サイコパスは周囲を支配し他者の人格を壊してしまいます。たとえば、ある人がもともとサイコパスではなくとも、寝不足や不安を原因としてサイコパスと同等の行動をしてしまうのなら、その被害はサイコパスからのものと同等のものを周囲の人は受けてしまい、迷惑そして問題です。ほんとうのサイコパス自体は精神症状と判断すべきものなのか難しいものですが、寝不足や不安を原因としてサイコパスと同じ行動をとっているとわかったとするならば、その源の精神の問題をきちんと治療したほうがいいです。
<つねに悪事を働いたりひどく不適切な行動をする相手が、くり返しあなたの同情を買おうとしたら、警戒を要する>(『良心をもたない人たち』p145)
妻に暴力をふるいながら、俺はなんてダメで情けないんだ、といいはじめ、殴られた妻が同情し始める。サイコパスの常套手段らしいです。どうして同情を買おうとするのか。他者から哀れんでもらうことで、サイコパスは他者を無防備にします。哀れんでいる人間は無防備になるからです。そうやって、好き勝手にできる力を得る。……というように説明がなされていたのだけど、納得がいきます。また、ちょっと想像を膨らませて考えてみると、サイコパスの者がサイコパスだとばれたとき、自分がサイコパスにならざるを得なかった後天的な理由があることを、サイコパスの者は同情を引くように述べだすと思うんです。サイコパスにそう語られた人たちは、そこがほんとうのような気がしてしまってわからなくなりがちではないでしょうか。いちばんのやっかいな点ではないかと。
<サイコパスは完全に自己中心なため、体のあらゆる小さな痛みや痙攣にたいして自意識が猛烈に強い。頭や胸に一瞬感じる痛みがいちいち気になり、ラジオやテレビで聞きかじった話は、トコジラミやリシン(トウゴマに含まれる毒性アルブミン)にいたるまで、すべて自分の身に置きかえて心配になる。その不安と警戒心はつねに例外なく自分自身に向けられるため、サイコパスは自分の健康を病的に不安がる心気症患者のようにもなる。彼らにくらべれば重症の不安神経症患者でさえ、理性的に見えるほどだ。>(p253)
<一般的に彼らは努力を続けることや、組織的に計画された仕事は嫌がる。現実世界で手っ取り早い成功を好み、自分の役割を最小限にする。>(p254)
<なにかに真剣に没頭することや、毎日訓練を重ねて美術や音楽その他の創造的な力を磨くことは、サイコパスにはまったく向いていない。(中略)結局のところ良心のない者は、人にたいするときとおなじように、自分の才能と接する。才能の面倒をみようとしないのだ。>(p255)
また、サイコパスはほとんどつねに単独で活動する。(ここは僕自身、単独行動ばかりなので誤解されるなあと気になったのですが、僕の場合は若いころから自分で自分を閉じなきゃいけない理由があったからなのでした。家族の問題が頭の大半を占めているのに、それを語っちゃいけない、ということで、他者から離れていってそれが板についたのでした)
なかなかわからなくなってくるところもあると思います。現在の資本主義の競争社会だと、ある意味、サイコパスが勝者になりやすいように見えるし、こういった社会の側から、勝者になるためにはサイコパス的行動を、と奨励されるような気配すらあるように感じられるからです。
最後に。本書はサイコパス、つまり「良心をもたない人々」を詳しくみていくことで、反対に「良心」についても深く考えていく作りになっていました。良心とは、愛ゆえの義務感である、とされていました。さらに、良心は抑制を生みもします。僕は最近、自制心って実はとても大切なんじゃないか、と考えるようになりましたが、ここでいう良心による抑制は、僕の考える自制心とニアリーイコールなのでした。まあ、おそらく、サイコパスかどうかっていうところも、多くの人々にとっては0か1か、白か黒か、ではないのだと思います。きっとグラデーションの濃淡のある種類のものです。それも、その時々によっても変化しているのではないかな、と考えるところなのですが、実際、どうなんでしょう……。
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