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『アダルト・チルドレン 自己責任の罠を抜け出し、私の人生を取り戻す』

2023-04-21 14:28:22 | 読書。
読書。
『アダルト・チルドレン 自己責任の罠を抜け出し、私の人生を取り戻す』 信田さよ子
を読んだ。

帯に、<「私は親から被害を受けた」そう認めることが第一歩となる。>とあります。生きにくさを感じている人が、その原因はなんだろうと考えたとき、自分がAC(アダルト・チルドレン)だからなのではないか、と認識する。まずは、そういった自己認識が必要になるのでした。また、ACは世代で連鎖しやすく、それが怖くて家庭が持たなかったり子どもを作れなかったりする人たちがいます。

ACは3つのタイプに大別されます。1・責任を負う子ども(責任者)、2・なだめる子ども(調整役)、3・順応する子ども(順応者)が、その3つです。以下に詳しく書いていきます。
1(責任者)は、親が親の役割をとらない、つまり何かを決定しなければならないのに親が逃げてしまうので、子どもが代わってその役割を背負うタイプです。このタイプであることの良くない面は、他の人にまかせることができず、自分でなんでもやってしまう。仕切り屋になってしまう。チームプレーが苦手になってしまう。
2(調整役)は、親の不和や緊張に満ちた空気をなんとか解消させようと、スケープゴートになったり、ひょうきんな道化を演じたり、テストでいい点を取るなどのヒーローになったり、面倒見よくふるまい家事手伝いをよくし周囲の事ばかり考えてするようになったりする。このタイプであることの良くない面は、このタイプの周囲の人たちがこのタイプの人に甘えてしまい、そういった人たちの自立する能力が削がれていったり退化していったりしていくことです。また、このタイプ本人の周囲には、世話してほしい人たちが集まってきてしまいます。
3(順応者)は、いるかいないかわからない人たちです。父母が激しいケンカをしていても、ずっと漫画を読んでいたりなど、周囲にどんな状況が生じようとも、自分の世界を守っている。このタイプの人は、積極的に人との関わりに入っていかなくなるので、友達ができません。人とどうやって親密に関わればよいかわからないし、人間関係をどうやって求めてよいのかもわからない。同窓会などで人との集まりのなかにはいって、その場が盛り上がった時(笑ったりふざけたりが盛んになった時)、その場からすっと身を引いてしまうのがこのタイプです。ひとりぼっちになり、溶け込めないという結果になります。無気力や無関心とは違って、そうしていないと激しい渦のような世界に巻き込まれてしまうという恐怖が強い。ひたすら自分の世界を守るためにそうしているのであって、このタイプの人たちの生活の底には緊張と恐怖が存在すると思うと著者は述べてします。

僕は最近、自分がACだとやっと気づいたのですが(とはいえ、親からの被害についての認識はあって、この概念をよく知らなかったのでした)、前記の3つのタイプはどれも僕にはあるなあと感じます。なかでも、小さいころに父母がよく諍いをしていたとき、介入できずに順応者のタイプであった影響が大きいと感じています。うちの両親は、結婚しなきゃよかった、と小さい子どもである僕の前で言い放ち、それじゃ僕はいなくてもいいのか、と訊いても答えない人たちだったので、そのダメージがそうさせた部分は大きいのだろうなあと思うところです。いまでも、父親は、結婚しなきゃよかったってよく言っています。それで、親を介護・世話をしているのですから、まあどうかしているようなところがあります(というか、はっきりわかっていないもっと複雑な事情が水面下にあるのだろうとも思えます)。

さて、ここからはいくつか引用を。ACの起因となるところについてです。

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 「もう、あなたはあなたの思うままに生きていいのよ」というふうに、いずれは手を離さないといけない時期というのものがあります。それがずっと言えなくて、子どもが大学に入るような年齢になっても、一日帰ってこないと探しに行ってしまう親や、結婚した後までもずっと、相変わらず「ああしなさい、こうしなさい」と言い続ける親がいます。
 こうした親は、「すべて子どものために」と言いますが、実は、親が子どもへの支配感を満足させるために子どもが自分の思い通りに成長しているかどうかを確認するためであることが多いのです。自分の今の生き方に対する空虚感や不全感を、子どもや夫の面倒を必要以上に見て、自分のいいように仕立てることにすり替えていく、こうして自分の支配感を満足させることができます。(p51)
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 たとえば父が母を支配するとき、母がそれなりに成熟した女性であれば、そこで支配を止めて、自分より弱い存在を支配しないように努力するでしょう。その子どもは、家族のなかのコントロールからは自由でいられます。ところが、自分の苦しみを自分で抱えらえない女性は、その支配された苦しみを、必ずと言って良いほど子どもに垂れ流します。ゴミ箱のように。「お母さんは苦しいの、お父さんはこんなひどいことをするのよ」と言ったら、子どもはその感情を受けざるをえません。母が壊れてしまったら、この家が壊れてしまう、そうなると自分の居場所がなくなるからです。夫にされたこと、姑に言われたことを子どもに垂れ流す。子どもは誰にもそれを言うことができず、母の感情のゴミ箱のようになってしまいます。(p75-76)
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 親の不幸、親から受けた傷を「私のせいである」「私が悪い子だから」と思うことで過剰に背負ってきた彼らは、自分が存在しなければすべてはもう少しましであったかもしれないという感覚を、人生の早期に、心のどこかに刻み込んで成長してきました。
 そして、周囲の人々に気に入られ見捨てられないための過剰で必死の試みを繰り返します。なぜなら、彼ら彼女たちにとっていちばん安全であるはずの親が自分をもっとも傷つけるという状況のなかで生き延びてこなければならなかったのです。そのために自らの安全を守るのに必要な、対人関係における動物的とも言える直感を研ぎ澄ましてきたのです。(p79-80)
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また、著者は、関係性に着目してみていく臨床心理士なのですが、その関係性というとらえ方に、ハッとするように思いの至ったところがありました。たとえば親から「出て行け!」と言われたその言葉にフォーカスして、その言葉が傷になった、と考えてしまうことがありますが、もっと洞察した方がいいのは、そんな言葉を浴びせられるという親との関係性にこそ、心に深いダメージを与えるものがあるということ、がそれです。

僕が子供の頃、風邪をひいて寝込んでしまったとき、父親が「迷惑だ」と機嫌を悪くしてクリスマスのお祝いなど無しにされたことが何回かあります。ケアマネにその話をしたら、そんなのクリスマスのお祝いすらできない子がいるんだから大したことはない、と言われました。ここで、関係性に注目すると、貧しくてクリスマスの催しが出来ない子どもは、よその子どもとの関係性で負い目を感じるかもしれないですが、親との関係性においてはとくに深いダメージはないように思えます。親と子の気まずさ、それぞれの無念さはあるとしても。で、僕の場合のような、父親の機嫌で恣意的な罰則としてクリスマスの催しを無しにされた時のその親との関係性に着目すれば、傷よりも深く広い範囲に及ぶようなダメージが推測できると思うのです。繰り返しますが、関係性がどういったものかを見ていくことで、それがACの心的マイナス面の起因となっているかが見えてきたりすると思います。こういうところが、はっきり言葉になっていない段階でも感覚的に、それは大変だとか、それはかわいそうだとか、感じる人もたくさんいます。でも、うちについてくれているケアマネはそういうのとは遠い感じがあって、少々やりにくいと思うことがあるのでした。

まあそれはそれとして。本書は、ちゃんと論理的に説明してくれながらも、その言葉遣いに人間らしさがあるというか、体温のある言葉で書かれていると言ったらいいのか、人と接しているような感じで知ることができます。温かみある文章で、間近でお話を聞くようにACを知っていくことができる読書経験となりますから、DVや支配などのダメージにある人でも内容についていきやすいと思います。ただ、感情面では、書いてあることでいろいろなことが窺い知れていくので、その面ではなかなかの疲労を覚えました。無理をせず少しずつ、噛みしめるように読んでいくとよい種類の本かもしれません。

ACはアメリカで生まれた言葉です。もともと、アルコール依存症の父親を持つ子どもをテーマにしていますが、日本ではもっと広義にとらえています。以下の引用を読んでください。
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ところで、嗜癖という難しい言葉をここまで何度か使用してきましたが、英語ではアディクションと言います。たとえば、父親はアルコール依存症ではないけれど、仕事依存症やギャンブル依存症だとか、酒を飲まないけれどひどい暴力をふるうというように、「アルコール」に置き換えることのできる他の習慣的な問題行動の事です。(p71)
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この「嗜癖」というワードがポイントで、アルコールに限らない親の嗜癖によって子供に害が及ぼされるとダメージとして残ってしまい、ACと自認することになるのです。ここで言っておかないといけないのは、ACは自分で主張する言葉だということです。精神科医や心理療法士から言われる場合もあるのですが、基本的に自分の主観でそう考えられたり思ったりしたら、「わたしはACです」と宣言していいものなのです。ACだと自己認識することで、心理的に楽になるものがあり、それもこの言葉の効能であるのです。

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親の影響を受けつつも、それに支配されつくされることなく、それを怜悧に見つめきり、言語化する能力と、それを支えるあふれるような感性を保ちつづけてきたこと。これこそが人間の尊厳です。ACは誇りなのです。(p211-212)
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何よりも必要なものは、「知識」です。そのためには本を読み、言語を獲得することが欠かせません。権力や支配の構造という視点がなければDVを理解することができないからです。頑張って夫と別居し、弁護士と契約して離婚調停に臨んだとしても、経験してきたことを再定義できなければ、容易に足元は崩れ去ってしまいます。夫の語る正義からの離脱は極めて知的な作業なのです。(p237-238)
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DV被害者の女性たちは、実に論理的で隙のない話し方をするといいます。すべてにおいて夫の許可や納得が必要なために、そして繰り返される尋問への説明が必要なため、論理力が磨かれてきたのだそうです。ACも、そういった論理的言語化が自らを助けることになるでしょう。自分がACだと認めたならば、上記の引用が励ましてくれるはずです。

おまけですが、本書の終盤に触れられている哲学者ミシェル・フーコーのいう「状況の定義権」なるものがあります。自分の価値観や正義を、その場のルールのように決めてしまう。たとえば父親が、自分こそが正義だとするように。これを野放しにしてしまうと、母親などの家族が、父親を怒らせないことが目標となり、そのための努力をするようになってしまう。「夫の機嫌は私しだいだ」となってしまうのです。思考や行動の判断基準を握って家庭の中で絶対化しているのが父親で、それは真理などではまったくもってないのだけど、そう決めて押し付けることが、「状況の定義権」なのです。これもDVであり、ACを生んでしまう要因なのだと思います。

というところです。
父母から子へ、というように、世代間の連鎖のある、克服のなかなかに難しい心理的状況がACなのでした。言語化し、認知していくことは大切なのだと本書から教わりました。ACの度合いが低くても、自分の子どものことなどを想って、こういった知識を持っておくことはおすすめしたいです。

最後に。締めの引用として以下に記して終わりにします。(今回、とっても長くなりました、おつきあいいただきありがとうございます)
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家族が安心・安全な場であるためには、父と母の関係性こそが鍵となることを強調したいのです。(p239)
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