昨日に引き続いて、手短かに「長澤まさみクラスタ」の話です。
要は、人って「通じ合えはする」けれど「分かり合えはしない」ということであって、
そこを勘違いしがちなのが、趣味とかファンとかネットとかの集まりだということ。
「長澤まさみクラスタ」も、どうやらそこを取り違えてしまった感があります。
そうやって失われたものが、他人への「敬意」なんですよね。
その結論にたどりつくまでの道については今回書きません。
いろいろ考えたらわかると思うので、あえて説明はしません。
また、話し合いのための非公開のパスワード認証制掲示板という場
(今回そこから弾かれたわけですが)が、勘違いを助長したのかなぁと
見ています。
全体主義的で原理主義的な方向って、人は好きなのかなぁ。
まさみが神、まさみがすべて正しい…という感じを改めて思い出すと、
やっぱり僕には無理なクラスタだったかなという気がします。
長澤さんの初舞台に「扇子」を贈ったころはまだ良かったような気がしますが、
その頃からもすでに、今に繋がる「他者への敬意の無い集団」の芽が
育っていたのかもしれない。
人の気持ちを意に介さず、
不当に傷つけてまで自分たちのやりたいことをしていく集団を、
はたして当の長澤さんはどうみるだろう?
要は、人って「通じ合えはする」けれど「分かり合えはしない」ということであって、
そこを勘違いしがちなのが、趣味とかファンとかネットとかの集まりだということ。
「長澤まさみクラスタ」も、どうやらそこを取り違えてしまった感があります。
そうやって失われたものが、他人への「敬意」なんですよね。
その結論にたどりつくまでの道については今回書きません。
いろいろ考えたらわかると思うので、あえて説明はしません。
また、話し合いのための非公開のパスワード認証制掲示板という場
(今回そこから弾かれたわけですが)が、勘違いを助長したのかなぁと
見ています。
全体主義的で原理主義的な方向って、人は好きなのかなぁ。
まさみが神、まさみがすべて正しい…という感じを改めて思い出すと、
やっぱり僕には無理なクラスタだったかなという気がします。
長澤さんの初舞台に「扇子」を贈ったころはまだ良かったような気がしますが、
その頃からもすでに、今に繋がる「他者への敬意の無い集団」の芽が
育っていたのかもしれない。
人の気持ちを意に介さず、
不当に傷つけてまで自分たちのやりたいことをしていく集団を、
はたして当の長澤さんはどうみるだろう?
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