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"Documentary 箱根路1”    ‘22-2-15

2022-02-14 22:22:45 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*三保敬太郎君との事

・忘れもしない1957年5月初めの休日。僕は、東京日産と言うディーラーに入社した。初任給は12800円で勤務先は赤阪溜池の新築の本社。奇麗なショールームがあり、後に映画の撮影にも随分使われた。三保君は前回の“偲!慎太郎”のイントロにも書いてあるように、兎に角、売れに売れていて、大学では会った事が無かった。免許証は僕の方が少し早く’56年12月には取っていた。敬タローは何処に就職するのかと思って居たら、TBSに入って、演出部に配属されていた。或る日「会社を見に来いよ」と呼び出された。6階受付のデスクに奇麗なお嬢様が居て、名前を言って呼んでもらう。本人が出て来る。「おいミッチャン、さすがテレビ局、奇麗な女の子がいるな。」「あの子H,Sと言うんだよ」「相変らず早いな...話ってなんだよ?」「俺、免許取ったから車欲しんだ新車は買えないから中古車でいいんだ。」「それじゃ親父の会社に話してやるよ。だけど金はチャンと払って呉れよ」「ミッチャンバンドのプレイヤーとして出演するときのギャラはどうなるの?」「それはプレイヤーとしてギャラを貰うのさ」「それじゃ他の社員は、やっぱり君には一目おいているね、別扱いだね?」そんな話で、日之出自動車の営業の人に紹介した。どうせ彼は、チョット派手めな車を欲しがるのだろう...当時の車事情は、國産はダットサンに代表される小型車しかなく、殆どの中古車は、駐留軍人が置いていく自家用車で5年以上使った車、帰国するのに運賃が掛かるので安くても日本に置いて行くのをブローカーが買い集めて居た物である。当時の修理工場にはそう言うブローカーが沢山出入りしていた。

米車はフォード、シボレーの全盛時代だった。フオードは1949年式からフラッシュサイドと言って、ドアーの下にステップの無いモデルがヒットしていた。大卒の初任給が12800円ラーメン一杯35円の時代である。その車の値段は25万と言う。今で言えば7~8年使った車が25万円と言う感じである。とても、我々には手の出る車ではない。今で言へば8年物の車が250万と言う感覚だろう。色はボデーがクリーム、屋根が濃い目のツートン4ドアーであった。

・「初めての給料を貰ったら箱根へドライブに行こう。男二人じゃ詰まらないから女の子を連れて行こう」と言う事に成った。当日、敬タロー君はあのTBSの受付のH,S嬢を連れて来た。僕は当時付き合っていた赤坂の子を連れて行った。行きは三保君が運転をすることにした。芦ノ湖畔でお昼を食べたが、三保君は「おい、金払っておいてくれ...」あゝ、又始まったなと思い僕が4人分払った。財布には給料丸々と併せ20000円位しかなかった。芦ノ湖から三国峠へ出て、熱海へ行くコースもあるが、まあ初めてなので早雲山まで行って帰って来よう。と言う事にして、三保君がハンドルを持った。ハラハラしながら僕が助手席に乗り、女性は二人後部座席である。当時、箱根ドライブなんて若僧がする遊びではない。勿論、車もそんなに走っていない。その内に晴れていた空が曇りだし、早雲山に着いた頃には雨が降り出して来た。箱根特有の天候の急変だ。素早く車を降りて、運転を僕に変わる。スターターを回して、走り出すと、何か「こすり合わせる様な金属音」がフロントからし出した。段々、大きくなる。「おい、ミッチャン...何か音がするな?」「うん聞こえるな...」 如何もファンがラジエターをこすっている様だ。僕は、結構、車に乗って居るし大体の見当は付く。「やばいな、この車、エンジンやラジエターが駄目になったら、価値が無くなってしまうな」「さて、こんな山の中で止めたらどうしよう。帰るのにも雨降りの中、傘もないし、女の子如何しよう?」兎に角、車は止めよう。雨は益々強く成って来る。連れの女の子も、さすがに心配になって来て、「マスコウ、如何したの?」と言い出す。三保君は「やばいな...俺、如何したらいいか全然解らないよ」当たり前だよ免許取ったばかりで、殆ど初めて乗った車なんだから...幸い下り坂で黙っていても車は動いている。兎に角,牽引して貰うにも、も少し山を下らないとな...エンジンは掛けられないし、今度は、エンジンが掛けられないので、下りでエンジンブレーキも掛けられない。ブレーキが利かなく成ったら如何しよう。と不安ばかりが募って来る。当時のフォードはワイパーのモーターが独自について居るのではなくエンジンの回転に連動して動くように成っていた。下り坂をワイパーも使えず、全くの機能なしでブレーキを焼きつかせないように神経ピリピリにして下り坂を降りて来た。途中でバスが止まっていた。こんなところでバスが止まって居るなんて?と思いながら3メーター位の後ろまでくっ付いて止まった。暫く待っていたが、動く気配はない。道路は2車線今ほど整備はされて居ない。バスの運転手さんに「動かないんですか?」と聞いたら、「リア―ーシャフトが折れたらしく動かないんで、今、迎えを待って居るんだ」こちらの事情を話して,5m位動かして貰い、「ミッチャン左の後ろから押せよ。俺はハンドルを切るから...」と言って、やっと無事にバスを追い越すことが出来て、又下り坂を利用した無エンジンで坂を下った。宮の下まで来ると道が平らに成る、又、降りて押しながら下った。疲れた所へ一台の310型売り出したばかりのブルーバードが来た。ナンバーを見ると覚えのあるナンバー、クラリオンの小山田さんに(当時営業部長、後社長)特別に引き当てをして納車した車でよく記憶をしていた。部長も手押しをしている変な車を見て、車を止めて降りて来た。「なんだ、増田君何しているの?」事情を説明したら、車をのぞき込んで「なんだ君女ズレでかっこ悪いな…」「助けて下さいよ…」と云ってもロープもない。一軒あった駄菓子屋見たいな店に飛び込み、「ロープ、ありませんか?」と聞いたら「あるよ」と言う返事、10メタ―位のもの1本で500円位だった。それこそロープをもつかむ思い。いやーあの時は本当に有難かった。310でフォードが引っ張れるか解らないが、兎に角、車を結んで引っ張って貰った。本当に有難かった。湯本の駅の先まで引っ張って貰った。小山田さんにお礼を言いここ迄なら親父の会社から迎えに来て貰えるだろう。早速、まだ4時頃だったので親父の会社に電話して。事情を話し、やっと牽引して帰れるめどがついた。「東京から3時間半は掛かるだろう」ミッチャンは「俺は電車で帰るよ。女の子が普通の家の子だからな」「しょうがないな」連れの彼女に話をして、金はないし腹が減ったけれど車の中で待って居た。やっと迎えが付いたのは8時半頃だった。車は34年型のA型フォード、僕が大学1年の足を折った時、迎えに来てくれた車と一緒。「良くヒロちゃん、降りて来られたね」「あんな所まで女ズレで行った何て言ったら怒られるもの...」「いつも悪いね。僕は連れが居るから電車で帰るから」兎に角、無事に東京へ帰る事が出来た。後日談だがクラリオンがTBSでピンクムードショウと言う夜の番組を始めた。クラリオンガールはアイドルの登竜門として人気番組に成った時、三保君は、未だTBSの演出部に在籍して居たのである。此のミッチャンのフォードは後に第一京浜道路の工事中の四角い工事場所の真ん中にすっぽりと入って居た。又、工事中の所へ突っ込んだらしい。その後三保君は、赤いMGAの乗り換え、それを当時ジャズ評論家のいそのてるをさんが買い、奥さんが事故を起こして廃車にしたそうだ。これは8年位前に自由が丘のライブで磯野さんの奥様と会った時に聞いた話。そんな彼が日本グランプリにフェアーレデイーに出たのだから驚きである。レースのライセンスも取り、兎に角、自動車にのめり込んで、遂に「ポルシェは飛んだ」なんて言う映画も作った。原信夫の#&bでピアノを弾いていた西真樹さんと言う人が居るが、僕が或るライブで話をした時に「三保さんは本当の天才ですよ。僕は彼の編曲をした直筆の譜面を持って居ますよ。僕の宝ですよ」と言って居た。晩年、僕が渋谷の営業所長の時、昼間所長室のソファーで寝かしてくれと言って来た。個人の事務所を持って居たが秘書の女の子は彼が事務所を閉めた時、僕のワイフが喫茶店をやって居たので、2年位使ったが、彼女はお母さんが敬タローフアンだったので新聞広告で募集を見て応募して来たと言って居た。同期のスチールギターで有名なlionが、「ミッチャンは自動車にのめり込み過ぎたな...惜しい男だよ」と振り返って居た。僕は高校の時、代返をしてやったのに優等生になられたで本当に悔しくて随分勉強をしたが、いい刺激材だった。高校3年でクラス替えがあり別れてしまったが、当時、経済学部には塾高で語学だけ80点以上の組がドイツ語のG組とフランス語のN組の二組在った。僕はN組だったが、三保君はM組だった。殆ど学校で会ったことは無かった。「無限」、「ジュリアナ東京」、「スコッチハウス25」とか人を集める企画力は凄かった。色んな話があるがこの位にしよう。此の「箱根事件」は忘れられない事件だった。何しろ早雲山から手押しで湯本迄下りたのだから..。