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“自分探し”         ‘17-7-25

2017-07-25 04:57:04 | Megu's Sports

★Megu's Sport

・H大学のI教授、いつもFacebookで、考えさせられる様な記事をシェアしている。これも、私の目を捉えた記事のひとつ:http://diamond.jp/articles/-/134147?page=4  私の日本語文献に対する理解度が落ちているのか、この記事がクリアーなメッセージを伝えてないのか、Mix-Matchな思考をさせられる記事。

 “戦後からバブル崩壊期までは、「幸せな人生」は、定型化していた。一生懸命勉強し、いい大学に入り、大手企業に定年まで勤めれば、「幸せな人生」が送れるといわれていた。皆深く考えることなく、それに向かっていけばよかった。”

 ・Here we go…典型的な道を歩んでいない私。今年で、アメリカ生活21年目。以前にも書いたことがあるかもしれないけど、アメリカに来ることになったきっかけ。大学4年で就職活動をしていた時。某一流保険会社の就職試験に行った。一般職の試験。リクルートスーツを着てみんな同じ様な格好をした女の子が、何百人といる。その中にいて、“このうちの一人になりたくない”と思った。そもそも、大学受験以来、脳がおろそかになっていたので、数学のテストが難しくて居眠りしてしまったので、もちろん、その会社の就職活動は、そこで終わりましたが。そこから、将来自分が何をしたいかというリサーチを始め、Long story short, NATA公認Athletic Trainerという資格を見つけて、今に至ると。

 ・“その「自分」は現在の自己ではなく、自分が目指す自己(理想自己)であるべきだ”… “自分探しをしようと思う程度の「今の自己」が持つポテンシャルなど、取るに足りないと知るべきである”…“もう1つの間違いは「自分」が静的で、変わらず、安定した存在と思っていることだ。理想自己を想定した時、人は現在の自己との差を知ることになる。すると、今の自分に欠けているものは何かを分析することができる。そしてそれを克服する過程を経て、理想自己に近づくことができる。つまり自己は、変えねばならないものだ。今の自分を変えることなく「自分に合った環境」を探すことは、言い換えれば「楽したい」と同じなのである”

・This sounds a bit confusing. この”自分探し”から21年。It still feels like only 10 years since I came to the US. 多くの人との出会い・支えとGood Luckで、ここまでEvolveしてきた。初めの“理想自己”が、NATA公認Athletic Trainerになることから始まり、修士号取得>就職>永住権取得>独立・事業主という段階を経てきた。 シンプルに順序立てて書くのは簡単だけど、実際の経験・体験は、奥が深い。Life Style, 人間関係、家族関係、恋愛関係と多面の経験を通して、今の自分がいる。

 ・One Step At a Time。新しい発見や学ぶことが、いっぱいある。私がアメリカに来た時、NATA公認Athletic Trainerになることを達成した後、自分が何になりたいかってわかってた? NO. I had no idea. どんな仕事に就きたいたって、なんとなく考えていたけど、それ以前に、どんな仕事の選択肢があるかなんて、全然わかっていなかった。Short Termの目標を定めることは、大切。だけど、Long Term, 誰も5年後、10年後がどうなるなんかわからない。自分が、Short Termの目標に向かっていく中で、どんな選択肢があるか学んでいく。仕事に限らず、Life Style, 人間関係も含めて。Long Termの目標は、漠然としててもいいし、途中で変えることも悪いことではない。その過程で、その時々の“理想自己”を見つけ、それに近づいていくんじゃないでしょうか。

 ・“逆に言えば、つらい、苦しい、やめたい、と思ってやめる程度では、理想自己を見つけているとはいえないのだ。例えば、はた目には、仕事三昧で社畜のように見えても、それが理想自己に至る過程だと本人が確信していれば、それは「幸せな働き方」である。超人的なスケジュールをこなすイーロン・マスクが、不幸な働き方をしている、とは誰も思わないだろう。”

・辛いと思ったことは、何度かあるけど、それは、一時的・瞬間的。このLife Styleをやめたいと思ったことは、今のところ、 一度もないんじゃないかな。Lucky Me!  Elon Muskには財政的には程遠いが、私は、自分なりに“幸せな働き方”をしていると思う。仕事や目標達成は、日本独特の汗と涙の“巨人の星”の様でなくて良い。“楽”じゃなくても楽しくていい。今の仕事で、楽しいのは、クライアントと過ごす時間の中で、たわいな会話から、新しく学ぶことが一日に一つはあること。私自身、言わば Entrepreneur として、自己改革をし続けながら、自分の好きなこと、Workouts, Races, Travel, Time with friends and familyを仕事以外の時間でするというLife Styleを続けて、“今”を大切にし、楽しんでいきたいなと思う。

 ・“個人の中の働き方改革は、自分をどんなふうに変えたいか、どんな自分になりたいかを真剣に考えることから始まると筆者は考えている。”… “日々の生活の中では、自分は自分のことを見ていない。見ていると思っていても見ていないのが実情だ。なので「どんな自分になりたいか」がわかっているつもりで、わかっていない”   Yes and No. Yes…自分のことって、わかっている様でわかっていないことが多い。No…どんな自分になりたいかって、そんなに真剣に考えなくても、自分の頭のどこかでわかっているんじゃないかな。それで、実行に出るか出ないかは、その人次第。また、“なりたい自分”って変化するし、変わる自分と環境に対して柔軟性・適応性を持つことが大切。

 

 

 


"よく動いてくれた人に感謝Ⅳ”   ‘17-7-18

2017-07-18 04:03:00 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

営業所(渋谷、八王子、リース、中古車、東日リース)時代

日本の自動車販売業界は、輸入車の販売からスタートしている従って賃金体系はコミッション制がとられていた。従って、労使の契約は代理店契約に似た委託販売契約である。保険会社も同じような契約だった筈である。一方、急激な自動車産業の国内化は「組織販売を必要とするように成って来た。東京日産は戦時中の自動車配給会社を中心母体にしていた為、中央、城東、城西、城南、城北、八王子の5ヶ所の営業所からスタートしている。

・僕は、幸いにも渋谷営業所に所長として始めて営業に出た。25名のコミッション・セールス(CS)と組織化をする為にハウス・セールス(HS)を採用し始め、6人若いHSがいた。工場はリフトが6台、営業所の後ろ側にバウザー方式の250台位の駐車場があった。CSは優秀な連中が多く自分で会社を作っている連中が居た。「会社~CS~顧客」と言う販売経路になる。これでは会社は儲かる筈が無い。そこでこれらの流通経路を治す為、会社を作っている連中はハッキリと委託販売契約を解除した。販売台数を落とさずに遣らねばならず、会社全体で決めた訳ではなく「渋谷営業所」だけで遣るのだから、一人ずつ話し合いを始め、整理をしていった。時間を掛け独立させた訳だが、会社経営となると知識不足で資金繰りに困る人も出てきた。丁度、会社の株が秀和による買占めにあっていた時期で、社内は騒然としていたし、僕は、八王子に異動していたが、僕の所へ相談に来た連中も居る。後日、立派な修理工場になり、息子さんに継がせて、「あの時、増田所長に言われなければ、踏ん切りがつきませんでした」とお礼を言われた。「自動車デイーラーは拠点別経営にしなければ、利益が出ない」と言う考え方に確信を持った。サービスを大事にして時間のあるときはサービスフロントに立っていた。ある時、コートジュボアールの大使婦人が(金髪で凄い美人)フェアレデイーZをぶつけて修理に来た。フロントマンが対応していて、「バンキング...バンキング」と言っている、通じるわけが無い。一応、片言英語でリプレースメントが必要だと話したら、「You speak nice king’s English…」と言ってくれた。兎に角、近隣に大使館は多く、フエアレデイーサイドエンブレムが人気がある。皆、本国に送って、自分の車に付けるらしい。リアーエンブレムまで一台分セットにすると確か20000円位になったが、これも商売。兎に角、サービス工場の人間が明るくなった。それで、毎週土曜日の午後英語の勉強を始めた。「先生は如何しようか?」外資系の会社のドライバーさんで自家用に「Z」を乗っている人に頼んだ。余り自動車屋では聞いたことの無い話なので「興味津々」すぐ乗り気になって遣ってくれた。これらは面白いことが発見できた。先ず、このような外資系のドライバーさん達は、秘書も兼務している人が多く又そういう人が集まって団体が出来ていて、情報がすぐ伝わる。それで、東京日産の渋谷営業所が有名になってしまった。勿論、会社の上層部は知っていても「面白い事を遣っているな」程度だったが、他所の営業所から勉強会に入れてくれという人間が数名出て来た。

勿論、僕は会社の中は殆ど解って居たが、「へえ、彼が?」と言うような人間が居た。営業所の中では、人事考課で「C」点の子が英語が巧い。会社には、「色んな刺激が必要だな」これにはリーダーの前向きさが必要だなと痛感した。僕は、業務課時代に東電へよく出入りしていたが、あそこの車両担当部署の人は皆国家の整備士の資格を持っていた。当時、ディーラーはセールスはセールス、整備はサービスの仕事と言う分断した考えだった。この整備士の試験には整備の実務経験が要るが、業務の仕事の中には新車整備があるので、陸運局の窓口に日参してお願いして講習に参加して受験し、合格した。後にこれが上司に知られて、全セールスマンに受験させるようになった。今はもう忘れ去られてしまっているし、もうあの頃のメンバーは皆辞めて居るが、秋田の故郷に帰って米づくりに励んでいる男は、未だに米を送って来てくれる。兎に角、八王子時代には250台の一括商談を決めて、約33,000万円の手形を受け取りに行ったり、その納車は3月31日に多摩車検場から出張検査をして貰った。営業所の全員総掛かりであった。よく皆動いてくれて無事納車が出来た。

リース部時代には東京トヨペットの松浦社長が会長で兎に角、トヨペットの遣り方を研究させて貰った。中古車時代には、大崎会中心の業販を日産オークション中心にするのに勢力と時間を掛けた。リース部では債権の倍増を図り、既存のリース会社と提携する方法を考え、兎に角、残業をいとわづ発破の連続だったが、皆よく付いて来てくれた。あんな仲良しの集団が僕が止めてから暫くして、バラバラになってしまった。この時代、部下とのスキンシップを高める為、5人一緒に週一回プールに行く事にしたが、これは人間関係造りに効果があった。トーニリースでは兎に角、黒字のリース会社にする為に、資金として取りあえず10億を欲しいと社長にお願いしたら、取りあえず1億で遣れと言われた。随分ご進講申し上げたが、本質的なことは理解されなかった。兎に角、僕の理想のシステムを安いコストで組み上げる為、リース会社専用の「勘定科目」を造り、それからソフト会社に委託した。それでも、2年で30億のリース債権で月約1000万のリース収入が入るようにした。スタッフの人間は僕が指名させて貰ったが、喧々諤々格調高く4人で骨組みを作った。何処の職場でも、野球チームを作った。一緒に遣ってやると皆、凄く喜ぶ。そして、部下の潜在能力がとてもよく解る。兎に角、可なりきつい仕事の遣り方をしたが、皆、よく働いて呉れた。

 

 


“よく動いてくれた人に感謝 Ⅲ”  ‘17-7-11

2017-07-11 06:25:47 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・この時代になると、労働組合でも「東京第一地区委員長」と言うことで、上司が側にいるわけではなく(本部は場所が離れていたし)ある意味自分の自由に仕事を進めた。しかし、貴重な凝縮したリーダーとしての体験をしたと思う。

 ・労働組合時代に学んだこと:

専従になる時の決意。‘60年に僕の下に慶応2人、青山1人の新人が配属されて来た。既に同じ年で、青山の夜間を卒業した者がいた。当時、会社は「学歴別年齢別賃金体系」を取っていたので、経験者の夜間卒業で給料は高卒並み扱いで低い。仕事はベテラン。これでは、職場がスムースに動かない。日産の歴史的労働争議の終了と新しい「労使相互信頼」を基調とした時代である。職場会で色々意見を言っているうちに組合専従になれと言われた。野球の監督も遣っているし、僕の職場の上司は、「お前が居ないと困る、だけど俺が断ると不当労働行為になる。君が断りなさい」人事部含めて一月位揉めた。勿論自分でも考えたが、何時も野球部の石川君がって言って居た、「後ろの7人は敵だ...」と言うことを思い出し、会社の中で「一人だけ反対の方向を向いてホームベースを守るキャッチャーの役割だ」「僕の生きている内に共産主義社会にはならない」「販売業ではストライキは出来ない正に人権と公平を守るキャッチャーだ」と割り切りをつけて当時の組合上層部に自分の考えを話して了解を得て、専従になって野球部監督は遠間君に譲った。当時の組合費は販労本部に全部納めて組合人数分で還付され、それが活動費になる。東京日産は当時1200人位の組合員を擁し、約28位の職場から成り立っていた全国一の支部である。仕事が終わって腹が減って組合会議に出てくる人たちに「すず新」のかつ弁当を食べさせるには、どうしてもお金が足りない。支部の独立財政が必要と考えて、組合員に対して斡旋物資の販売を始め支部独自の資金造りを考えた。蜂蜜、ストッキング、オンワードの仮縫い付きスーツ等だ。3年間で15万円の繰越を作ったが、これは職場との連帯感を作るには大きな成果があった。労使の馴れ合いでなく、労働組合の独立性を考えると、先ず財政の確立が必要だ。そして、賃金問題は専務と人事のみが解っていて、ほかの10数名の役員は実態を知らない。今の時期は、労使に実態を解らせる時だと考えた。そこで、賃上げの団体交渉に始めて「東京日産の賃金の現状と問題点」と言う資料を作り団体交渉に臨んだ。確か、今でも同じやり方だろう。団交の後で、平取締役の数人の人から「増田君、僕の職場のS君から、給料が安いとよく言われるが、彼は中卒だもんな...これで良く解ったよ...」と感謝されたことが思い出される。この時、約1200名の賃金調査から、団交資料を作るのは一人で遣った。翌年からは3役クラスの人間にも参加さてホテルに泊りがけで資料造りを遣った。「同一労働、同一賃金」なんて、この時に教えられ、教えたものである。

活動費の繰越金15万円は、その後地区委員長が3人くらい替わって、メガバンクの統合が始まった時、銀行で取引先の棚卸しをしたんだろう、その時の委員長が「増田先輩、三菱に先輩の名前の普通預金の口座があるんですけれど、ご存知ですか?」と問い合わせがあった。引継ぎ引継ぎの内に忘れられてしまった様だ。大体組織なんてそんなもの...僕は会社の文章でも、自分が起案した物は殆ど全部控えを我が家に保存してある。

或る年の春闘で前記の「学歴別差別」をなくすために、強烈に頑張って団交を繰り返し、もう妥結だなと考えて、支部委員会に計ろうとした。可なり職場の組合員たちとギャップがあり、その日の支部委員会には、いつも作らない原稿を書いて臨んだ。話している内に聞いているメンバーの顔つきが変わってくる。話し終わったら、水面が凍りつくようにシーンとしてしまった。余りにも僕の原稿が突っ込みの余地も無いので、その言うに言いわれぬ不満が会場を凍りつかせてしまったのだ。それから、しわ伸ばしに休憩を取って、再開後、ボツボツ発言も出てきて、可なり夜遅くまで掛かって妥結の了承を「満場一致」で取り付けた。この時の教訓は、「余りにも完璧に遣りすぎると、かへって、不満が残る」「人に理解させるには、隙間を残して置かないと駄目」

そして、「納得をさせる」と言うリードの仕方だ。組合幹部になると会社へ復帰後昇進が早いと言うことを言われるが、正直、専従になる前から、「資本主義者」だと言いながら専従になったのは僕位だろう。当時、日産の販売系労組は、全国単一化されていた、京都日産出身のM氏が組合長だったが、専従を辞める時の送別会で、「増田君の組織を見ろ、生き生きと動いている」と言って呉れた。どちらかと言うと批判分子だった僕を褒めてくれたのは嬉しかった。京都日産の社長で復帰されたが、会社はご他聞にもれず、メーカー資本になってしまった。労働組合で批判していた事と会社の経営実務では違うのである。東京第一地区の事務所は僕、榎元、中島、福地、渡辺の男子と女子2名特に女子の書記さんは良く働いて呉れた。特に、斡旋物資を始めた頃から、職場からの電話が増えると書記さん達が、見る見る成長して来て、表情が明るく替わってきた。その内に「仁吉会」と言う組合内組織が立ち上がり、「増田を倒せ...」と言う声が出始めた。その中心人物は、野球部のマネージャーで結局彼は定年まで組合専従で全労災の専務までやって定年を迎えた。ある種の信頼関係があっての上での「増田を倒せ...」だった。

 Ps 自動車労連(当時) の賃金についての考え方

1.最低賃金の原則

2.同一労働、同一賃金の原則

3.異質労働、異質賃金の原則

4.最高賃金の原則(高生産性高賃金の原則)

 

 

 

 


“Diary 126”           ‘17-7-4

2017-07-04 07:40:35 | Massy's Opinion

★Massy'sOpinion

6.1豊川参り

例月通りのお参り。僕は何時も本堂しかお参りしない。ワイフは、何処か自分のお参りする神様があるのだろう。何時も神社を一回りしてくる。僕は、本堂にはお参りして、先に菊屋さんで、大女将と世間話をして待っている。大女将も最近年の所為か動きが少なくなり、僕の来るのを待っているみたい。「今日はお天気なのに、お参りさんが少ないね...」とか...常連の顔見知りも居なく、静かに「冷やし狐にトロロ昆布をいれて貰って、昼食」

6.7シーボニア、慶応読書会

定例のシーボニア昼食会 女性は癌から立ち直ったAさんだけ、男は又y君が忘れて自宅に電話したら、在宅。話題はボケと病気、どうにもまともな議論ができない世の中、もう一度あの銀座の喧騒に浸りたいね。僕は夜読書会2時間半時間が出来て、一人。改めて、日比谷公園や界隈を散歩したり、有楽町でビッグカメラに入りPCをゆっくりと説明を聞いて、次に買うのは「Apple」か「Windows10」考えながら時間をつぶす。店内をヨーク見ると品揃えや売り場のレイアウトが随分変わっている。ゴルフ用品なんて隅っこに追いやられていて、自転車の売り場が拡がっている。「読書会」はほぼ例月通り、議題は「ものの公正なわけ方」講師慶応経済の坂井豊貴教授少し抽象的過ぎて、解り難い話だった。時間が短すぎる。

6.10 東日 常任OB会 於 隋園

東日だけの組合専従O,B会 田淵元参議院議員を筆頭に17名、専従になったばかりに定年まで職場復帰しない人、大病から復帰した人さまざまだけど、会の始まりは」、献杯から始まることが多くなった。帰り道、田淵先生と先生の秘書第一号の山内君、竹鼻嬢と4人で1時間半懇談。今の政治のあり方、民主党議員の出入り、レベルが揃う懇談が出来て楽しかった。「増田君、君は何時も一味違うことを考えているな...」「長島昭久如何ですか?」「僕は民主党だからね...」「先生が組合長の時、会議で居眠りして、先生に怒られましたね。おとなしい先生を怒らせたので、あれ以来行儀良くしていますよ。どうも行儀が悪くてね...」

 6.13 慈恵 定期健診

ワイフの股関節手術1度目の時、インターンだった先生が主治医。今、働き盛り2度目の手術の時も知っているので、安心して診断を受けた。レントゲンは何時も見ているし、医師の言うことは良く解る。手術の部位は異常なし、やっぱり安心する。「病を診ずして、人を診よ」が慈恵の創立者高木先生の考え方。僕は、患者も同じ事(医師の人柄を見る)が言えると思う。F先生、先代のF先生と似ているいい先生になられた。

 6.16 慶大野球部32会 於 さがみ

大学野球部同期の年2回の食事会。地方も多く集まっていたが、年々少なくなる。名古屋の石原君を含めて、7人もうゴルフを今年遣ったのは、僕だけ...スコアは問題外、カーと付きでラウンドできることだけで感謝。

 6.20 Swing Mates Club K

Jazz VocalistのYokoさんと開店45年の店をこの9月で閉店すると言う、市川克美さんの店を訪ねる。兎に角、イベント以外には他の歌手を歌わせない、以前は奥さんとDuoをやっていたが、今は娘の絵美さんが金曜だけ手伝いに来るようだ。普通のLive Houseと違い市川さんのポリシイーが頑固なまでに固く、45年遣ってきた事は敬服に値する。勿論、彼の自信と日々新たな勉強の賜物だろう。一度同業のYokoさんに聞かせたかったのだ。2人ばかり誘いの声掛けをしたのだが、一人は家に電話をしたら、「もう寝ています」との事。市川さん喜んで、熱の入った演奏。やっぱり、彼は凄いエンターテナーだと思う。ビルの建て替えで閉店するが、もう店は遣らないと言う。セラビ、45年、カントリーハウス43年今年は古い馴染みの店が随分やめて行く。昔は、企業の1サイクル30年と言ったが、今は40年か?

 6.23 みずほ株主総会

例年通り東京フォーラムAホールでの開催。一応業績も安定しているのか何となく詰めている社員も数年前ほどの緊張感は感じられない。来場者も少なめ、それでも10数件の株主提案が提出されていた。雛段に並んでいる役員のうち社長から回答を振られる役員は2名程度、他の並んでいる役員は約2時間半緊張したろうな。本当は「役員の持ち株数について社長は如何考えるのか?」取締役会議議長の大田役員に質問をしたかったが、何となく雰囲気が、盛り上がらず挙手する気にならなかった。10%に及ぶと言われている人員削減と新卒の募集、賃金圧縮の為か?企業の社会的責任を如何考えて居るのか?佐藤体制万全の総会だった。帰り有楽町から新橋まで散歩替わりに歩く。途中で白石画廊に寄ったら草間さんの展示会を遣っていた。白石さん相変わらず敏感なセンスだ。

 6.25 東日麻雀大会 於 神田

余り、麻雀は遣りたくないのだが、「どうしても人数の都合で来てくれ」致し方ないのでつきあった。は半荘4回の大会。麻雀やの機械が進歩しているのに驚く。13枚の手牌まで揃って出てくる。戦績はラス、トップ、3位、2位 合計マイナス4500点、終わってから幹事連中のご苦労さん会に付き合う。7組で28人年齢は上から3人目、在社当時は若い坊やが皆70過ぎ、どうも年寄りの会は苦手だ。

 6.26 メトロシテイー神谷町管理組合総会

年1回の総会、八丁堀と違って、議長は東京地下鉄の課長さん。流石に会議し慣れていてスムーズに会議は進行。本当は大規模修繕の話が議案に載るはずだったが、繰り越された。森トラスト時代と比べると進行も資料もさすがシッカリしている。近年権利者の出席も多く、無事に議事終了。