★Massy’s Opinion
・8月15日 武道館で 戦没者追悼式が行われた。テレビで天皇、皇后両陛下のお姿を拝見した。
何か、毎年見慣れた式典だったが、今年は、天皇皇后両陛下の最後の参加と言う事を思うと、同世代の僕は例年と違う寂寞とした感じになってしまった。僕は、1934年の生まれ、陛下は1933年のお生まれ、戦争も外地に行った訳ではないが、国民学校に入学して、疎開も縁故疎開で伯母の居る群馬県の桐生に疎開した。処が、其の頃から空襲が激しくなり、桐生に近い太田の中島飛行機の工場目掛けた空襲が激しく、伯母から危険で面倒は見られないと言われて、東京へ返されて来た。僕の生まれた処は、東京市芝区田村町6丁目6番地今でもある芝郵便局の並びの店舗兼住宅である。
親父は22歳の時に僕を生んでいるので、もうその年で部品商を営んで、住み込みの店員が3人いた。一階はお店と住み込み店員の寝所、食事をする場所と奥に台所があった。丁度、戦争が激しくなり母親は、職、住の切り離しを望んだり、疎開の事も含めて、住居を探し浜田山に老夫婦が住んでいた新築間もない土地が80坪の家があり、其の家を買いその家へ引っ越したのである。家は純日本風で21坪位かな?8畳、6畳、4畳半、3畳、台所、風呂場廊下が3尺で部屋を取り巻き、縁側もあり藤棚もあった。3畳の部屋が食堂に成って居た。勿論、当時は全室畳で3畳だけは椅子テーブルがあって、食堂だった。全部の部屋に押入れがあり、食堂の押入れにはラジオが置いてあった。庭には、防空壕が親父の手作りで作られていた。僕は、桐生から此の家に帰って来たのである。当時、周囲は畑だらけ家の一角に住宅があり、商店は駅の周囲に酒屋、炭屋、八百屋、床屋、不動産屋位しかない、井の頭線は2両連結乗降口の扉は、手動の電車だった。永福町には井の頭線(当時帝都電鉄)の車庫があり電車の格納庫があった。田村町の家から昭和20年3月10日に引っ越しを始めたのであるが、その日に東京大空襲があり、田村町一帯も焼け野原となったが我が家は引っ越しの半分で被害は済んだことになる。今こうやって考えると「幸運だった」と言えよう。この家は、増田家親戚縁者が6畳の部屋に何人泊ったことか?戦争に行って居た親父の弟二人、京都に疎開していた親父の大伯母さん(戦前まで赤坂で「小満津」と言う料亭をやって居た)番頭をやって居た人、僕の従弟(桐生)、それの奥さんの妹、6畳の部屋が、僕の部屋になったのは成蹊中学2年の時だったかな。今考えると、非常になつかしい、しかし、お袋は居候を入れ代わり、立ち代わり食事、お風呂の順番等大変だったろう。幸い我が家の関係では予科練に志願した僕の従兄を含めて戦争で亡くなった人は居ない。
・戦争の悲惨さを後世に伝える
当時、第二次世界大戦の終わりごろは、空襲が激しくなり、警戒警報がなり、その次に空襲警報が鳴る。末期には警戒警報と空襲警報の間がなくなりサイレンが鳴ると直ぐ空襲、敵機来襲である。今でも飛行機の通路は富士山を目標に日本の上空に飛来しているが、丁度、我が家の西の空から爆撃機の編隊が見えて来る。当時の飛行機は有名なB29 その周辺をグラマンの戦闘機が高度を下げて飛んでくる。或る、夏の日玉音放送の少し前の暑い日だったが、飼っていた犬を連れて神田川の方に散歩に行った。警戒警報のサイレンが鳴り、直ぐ空襲警報になった。犬にボール取りをやらせていたが、ちっとも言う事を聞かない、やっとボールを咥えて帰ってきたら、グラマンが超低空で飛んできて、機銃掃射を始めた。身を隠す場所もなく犬を抱えて屈み込んでしまった。機関銃の弾が土煙を上げて行く。空を見上げると、グラマンの操縦士の白いマフラーが見えた。本当に「怖かった」未だにあの機関銃弾の土煙と白いマフラーは鮮明に脳裏に浮かぶ。今考えると、飛行士は子供だと解って、何か、銃弾を外してくれたのではないかと思ったりする。飛行機が飛び去った後、一散に駆け出して、家に帰りお袋に「怖いよ」と抱きついた。
空襲には何度も会ったが、家の庭に米機の電波探知機妨害用のジュラルミンのテープが固まって落ちてきたり、B29を仰撃するゼロ戦が体当たりでB29の上に乗っかったことがあったが、それも我が家の南の空で目撃した。裏の畑には後日大きな焼夷弾が不発のまま出て来たこともある。
・73年前の8月15日 玉音放送を母と聞く。
8月15日「今日はお昼に大事な放送があるから、必ず遅れずに帰ってくるのよ」と言われて、また神田川の方に遊びに行った。12時前に家へ帰り3畳の食堂で、押し入れの戸を開けて、ラジオに聞き入った。昭和天皇の「忍び難きを忍び...」と言うお言葉はよく覚えて居る。ああ、これで「戦争は終わったんだな」「アメリカ軍はどんな事をするのかな?」お袋に聞いたって解りはしない。まあ、殺されることは無いだろう。唯、無条件降伏と言うのは子供心に相当な不安だった。
・体験を伝える事の難しさ
テレ朝で大谷コメンテターの話を聞いた。「戦争の体験者が戦争の悲惨さ後世に伝えるべきだ」と言うニュースを見た。今、僕が書いていることは、大げさなことではなく、本当の事実である。実際に戦争のほんの少しを体験している。だがこうやって書き残す事しか、後世に伝えるすべはないのである。
・さて、追悼式の両陛下のお姿を拝見しながら、退位について本当に色々考えられていらしたんだろうな?ご自分の健康上の事もあれだけの大手術を乗り越えられたのだから...と考えさせられた。僕は、成蹊中学だったが、旧制7年生高校の付属だったので、学習院、成城、武蔵等の学校とは交流が多く、特に野球は中学のリーグ戦もあった。相手校のグラウンドで試合したこともあるし何かと情報も伝わって来る。特に学習院には、陛下が在学しておられると言う事も知って居て、綽名が「チャブ」と言われていることも知って居た。陛下の学習院の幼稚園当時からのご親友に草刈さんと言う野球部にはピッチャーが居て、馬術部には明石さんと言う大学は慶応に来て副将を務められた人が居る。この明石さんはプリンス自動車に入られ、後に日産とプリンスが合併して、同じ、自動車業界で働くことになりそれ以来のお付き合いをさせて頂いている。慶応の馬術部の馬場と高校の野球のグランドは山の上下で近い所にあったが、明石さんは、乗馬した姿がひと際目立つ人だった。又馬術部には浜田山に住んで居た一年下の仲良しや、成城から来た二人の男がいたり、顔見知りが多かったのである。そんな、明石さんが「今上陛下 つくらざる尊厳」と言う本を2013年に書かれている。僕は、上記したような経緯で著者明石さんの人柄も良く知っているので、この本明石さんが「如何言うスタンスで書かれたのかな?」と言う疑問を持ちながら、「陛下の綽名が出てくるか?如何か?」をポイントに置いて読んだのである。そうしたら「陛下の綽名がチャブ」と言うところがでてきた。それで僕は「明石さん本気で書いているな」と思った。天皇、皇后両陛下が第二次大戦後の「天皇制の在り方を模索しつつ」公務に励まれ、今日の日本の体制を作られた陛下の尊厳さを記録に残しておこうと言う想いが明石さんに筆を執らせたのだと思う。明石さんにお聞きすると陛下の日常生活はそれは質素なもので、お住まいには絵画、書の類もないと言う。これから、来年の「戦没者追悼式」はどんな形になって行くのか?今の国会議員の先生方に天皇、皇后両陛下の生きざまを学んでほしいし、人間として立派な人が出てこないものかと切に思う。戦争の悲惨さも少しでも体験している人は良いが、話だけ、或いは書いた物だけでは伝わらない。
・全く話は変わるが、昨日渋谷の「JZ Blat」へジャズを聴きに行った。そこへ出た男性歌手西村恊さんと言う人が合間のトークで突然ある年寄りの人に聞いたんだけど、「この終戦の日前に渋谷で空襲に会い、グラマンに機銃掃射されて走って逃げた。怖かったぞ...」と言う話を聞きました。「こんなにお客様に来ていただいて本当に嬉しいです...」と話をした。僕は、このブログの原稿を書く準備をしていたので、背筋がゾクッとする位に驚いた。やっぱり、追悼式を見て、僕と同じように感じた人が多かったのだろう。