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“戦没者 追悼式”     ‘18-8-21

2018-08-20 21:20:31 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

 ・8月15日  武道館で 戦没者追悼式が行われた。テレビで天皇、皇后両陛下のお姿を拝見した。

何か、毎年見慣れた式典だったが、今年は、天皇皇后両陛下の最後の参加と言う事を思うと、同世代の僕は例年と違う寂寞とした感じになってしまった。僕は、1934年の生まれ、陛下は1933年のお生まれ、戦争も外地に行った訳ではないが、国民学校に入学して、疎開も縁故疎開で伯母の居る群馬県の桐生に疎開した。処が、其の頃から空襲が激しくなり、桐生に近い太田の中島飛行機の工場目掛けた空襲が激しく、伯母から危険で面倒は見られないと言われて、東京へ返されて来た。僕の生まれた処は、東京市芝区田村町6丁目6番地今でもある芝郵便局の並びの店舗兼住宅である。

親父は22歳の時に僕を生んでいるので、もうその年で部品商を営んで、住み込みの店員が3人いた。一階はお店と住み込み店員の寝所、食事をする場所と奥に台所があった。丁度、戦争が激しくなり母親は、職、住の切り離しを望んだり、疎開の事も含めて、住居を探し浜田山に老夫婦が住んでいた新築間もない土地が80坪の家があり、其の家を買いその家へ引っ越したのである。家は純日本風で21坪位かな?8畳、6畳、4畳半、3畳、台所、風呂場廊下が3尺で部屋を取り巻き、縁側もあり藤棚もあった。3畳の部屋が食堂に成って居た。勿論、当時は全室畳で3畳だけは椅子テーブルがあって、食堂だった。全部の部屋に押入れがあり、食堂の押入れにはラジオが置いてあった。庭には、防空壕が親父の手作りで作られていた。僕は、桐生から此の家に帰って来たのである。当時、周囲は畑だらけ家の一角に住宅があり、商店は駅の周囲に酒屋、炭屋、八百屋、床屋、不動産屋位しかない、井の頭線は2両連結乗降口の扉は、手動の電車だった。永福町には井の頭線(当時帝都電鉄)の車庫があり電車の格納庫があった。田村町の家から昭和20年3月10日に引っ越しを始めたのであるが、その日に東京大空襲があり、田村町一帯も焼け野原となったが我が家は引っ越しの半分で被害は済んだことになる。今こうやって考えると「幸運だった」と言えよう。この家は、増田家親戚縁者が6畳の部屋に何人泊ったことか?戦争に行って居た親父の弟二人、京都に疎開していた親父の大伯母さん(戦前まで赤坂で「小満津」と言う料亭をやって居た)番頭をやって居た人、僕の従弟(桐生)、それの奥さんの妹、6畳の部屋が、僕の部屋になったのは成蹊中学2年の時だったかな。今考えると、非常になつかしい、しかし、お袋は居候を入れ代わり、立ち代わり食事、お風呂の順番等大変だったろう。幸い我が家の関係では予科練に志願した僕の従兄を含めて戦争で亡くなった人は居ない。

・戦争の悲惨さを後世に伝える

当時、第二次世界大戦の終わりごろは、空襲が激しくなり、警戒警報がなり、その次に空襲警報が鳴る。末期には警戒警報と空襲警報の間がなくなりサイレンが鳴ると直ぐ空襲、敵機来襲である。今でも飛行機の通路は富士山を目標に日本の上空に飛来しているが、丁度、我が家の西の空から爆撃機の編隊が見えて来る。当時の飛行機は有名なB29 その周辺をグラマンの戦闘機が高度を下げて飛んでくる。或る、夏の日玉音放送の少し前の暑い日だったが、飼っていた犬を連れて神田川の方に散歩に行った。警戒警報のサイレンが鳴り、直ぐ空襲警報になった。犬にボール取りをやらせていたが、ちっとも言う事を聞かない、やっとボールを咥えて帰ってきたら、グラマンが超低空で飛んできて、機銃掃射を始めた。身を隠す場所もなく犬を抱えて屈み込んでしまった。機関銃の弾が土煙を上げて行く。空を見上げると、グラマンの操縦士の白いマフラーが見えた。本当に「怖かった」未だにあの機関銃弾の土煙と白いマフラーは鮮明に脳裏に浮かぶ。今考えると、飛行士は子供だと解って、何か、銃弾を外してくれたのではないかと思ったりする。飛行機が飛び去った後、一散に駆け出して、家に帰りお袋に「怖いよ」と抱きついた。

空襲には何度も会ったが、家の庭に米機の電波探知機妨害用のジュラルミンのテープが固まって落ちてきたり、B29を仰撃するゼロ戦が体当たりでB29の上に乗っかったことがあったが、それも我が家の南の空で目撃した。裏の畑には後日大きな焼夷弾が不発のまま出て来たこともある。

・73年前の8月15日 玉音放送を母と聞く。

8月15日「今日はお昼に大事な放送があるから、必ず遅れずに帰ってくるのよ」と言われて、また神田川の方に遊びに行った。12時前に家へ帰り3畳の食堂で、押し入れの戸を開けて、ラジオに聞き入った。昭和天皇の「忍び難きを忍び...」と言うお言葉はよく覚えて居る。ああ、これで「戦争は終わったんだな」「アメリカ軍はどんな事をするのかな?」お袋に聞いたって解りはしない。まあ、殺されることは無いだろう。唯、無条件降伏と言うのは子供心に相当な不安だった。

・体験を伝える事の難しさ

テレ朝で大谷コメンテターの話を聞いた。「戦争の体験者が戦争の悲惨さ後世に伝えるべきだ」と言うニュースを見た。今、僕が書いていることは、大げさなことではなく、本当の事実である。実際に戦争のほんの少しを体験している。だがこうやって書き残す事しか、後世に伝えるすべはないのである。

・さて、追悼式の両陛下のお姿を拝見しながら、退位について本当に色々考えられていらしたんだろうな?ご自分の健康上の事もあれだけの大手術を乗り越えられたのだから...と考えさせられた。僕は、成蹊中学だったが、旧制7年生高校の付属だったので、学習院、成城、武蔵等の学校とは交流が多く、特に野球は中学のリーグ戦もあった。相手校のグラウンドで試合したこともあるし何かと情報も伝わって来る。特に学習院には、陛下が在学しておられると言う事も知って居て、綽名が「チャブ」と言われていることも知って居た。陛下の学習院の幼稚園当時からのご親友に草刈さんと言う野球部にはピッチャーが居て、馬術部には明石さんと言う大学は慶応に来て副将を務められた人が居る。この明石さんはプリンス自動車に入られ、後に日産とプリンスが合併して、同じ、自動車業界で働くことになりそれ以来のお付き合いをさせて頂いている。慶応の馬術部の馬場と高校の野球のグランドは山の上下で近い所にあったが、明石さんは、乗馬した姿がひと際目立つ人だった。又馬術部には浜田山に住んで居た一年下の仲良しや、成城から来た二人の男がいたり、顔見知りが多かったのである。そんな、明石さんが「今上陛下 つくらざる尊厳」と言う本を2013年に書かれている。僕は、上記したような経緯で著者明石さんの人柄も良く知っているので、この本明石さんが「如何言うスタンスで書かれたのかな?」と言う疑問を持ちながら、「陛下の綽名が出てくるか?如何か?」をポイントに置いて読んだのである。そうしたら「陛下の綽名がチャブ」と言うところがでてきた。それで僕は「明石さん本気で書いているな」と思った。天皇、皇后両陛下が第二次大戦後の「天皇制の在り方を模索しつつ」公務に励まれ、今日の日本の体制を作られた陛下の尊厳さを記録に残しておこうと言う想いが明石さんに筆を執らせたのだと思う。明石さんにお聞きすると陛下の日常生活はそれは質素なもので、お住まいには絵画、書の類もないと言う。これから、来年の「戦没者追悼式」はどんな形になって行くのか?今の国会議員の先生方に天皇、皇后両陛下の生きざまを学んでほしいし、人間として立派な人が出てこないものかと切に思う。戦争の悲惨さも少しでも体験している人は良いが、話だけ、或いは書いた物だけでは伝わらない。

・全く話は変わるが、昨日渋谷の「JZ Blat」へジャズを聴きに行った。そこへ出た男性歌手西村恊さんと言う人が合間のトークで突然ある年寄りの人に聞いたんだけど、「この終戦の日前に渋谷で空襲に会い、グラマンに機銃掃射されて走って逃げた。怖かったぞ...」と言う話を聞きました。「こんなにお客様に来ていただいて本当に嬉しいです...」と話をした。僕は、このブログの原稿を書く準備をしていたので、背筋がゾクッとする位に驚いた。やっぱり、追悼式を見て、僕と同じように感じた人が多かったのだろう。

 

 

 

 

 


“Talk of the Town” ’18-8-14

2018-08-13 16:21:06 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

 8/9日 神谷町の夏祭り もう昔の神谷町の住人は周辺の再開発で住人は、殆ど周辺地区にの住まいを移し町並みは殆ど変わってしまった。

 夏祭りだけが、昔の住民が年に一度の顔合わせの日である。ワイフ同伴なので渋谷駅前からタクシーを使う事にして、井の頭線のガード下でタクシーを待つ。直ぐ拾えるだろうと思ったが、中々来ない。兎に角。今の渋谷駅は再開発の真っただ中大変な混雑である。やがて、一台の空車に手を挙げて捕まえることが出来た。僕はタクシ―に乗るとすぐ会社名、ドライバーの名前を見る事にしている。50年位前、財布を落としたことがあったが、翌朝すぐ電話をしたら運よく事務所に届けられて居ことがある。会社は杉並のキャピタルモターさんだった。それ以来タクシーを使うときの習慣にしている。又、「景気の話や、どこを中心に仕事をしているのか?」聞くことにしている。運転手さんは孤独な商売だ「何処の誰か、バックミラーを通してでないと顔も見えない」出来るだけ乗る方も声を掛けてあげる方が運転手さんも安心する。その日乗った車の運転手さんは見るからに若そう。

・「神谷町へ行って...港区だよ」神谷町を北区の神谷町と間違える人が居る。

「済みません、道教えて下さい。僕、今日で2日目なんです」一瞬、驚いた。見るからに若そうだとは思ったが...

「君、二種免、持っているの?」まさか二種免を持たない運転手を使う会社はないだろう。

 ・「君、新卒?失礼だけど、どこの大学?」

 「僕高校から成蹊なんです。大学も...」いや驚いたな。新卒がタクシードライバーになるのが、多いとは聞いていた、特に日本交通さんでは400人位の大卒の入社希望があったとかの噂を聞いてはいたが...オリンピック準備で英語の勉強を始めた会社もあるとか...確かに最近の運転手さんの言葉使いとか応対は目に見えて良くなって来ているけれど...

 ・「君、英語出来るの?僕も成蹊中学、高校は慶応だけどね。成蹊の時、英語は随分勉強したよ。女の先生だったけれど...」

 ・「余りできません。」

 ・「どうして大きな会社に入らなかったの?」

 ・「一度、旅行代理店の会社に受かったのですけれど。如何も僕の性格に合わないようだし、それですぐやめて2種免を取りました」

 ・「ところで、この車どの位は走っているの?40万キロ位?」

 ・「いや、もっと走っていますよ60万キロ位です。新人に良い車は乗せて呉れませんよ」

 さて、この若い子これから70才位まで、事故なし、飽きずに健康でこの仕事、続けられるのだろうか?

 ・「失礼だけど、お父さん何されていたの?」普通のサラリーマン家庭だと屹度この就職を反対したろうに...

 ・「父は今、介護師をしています。昔はジャズのバンドマンでした」

 ・「君、タクシードライバーはいい仕事だよ。いま、新卒でも手取り30万位になるのは、ごく一部、時間は余るだろう...80%の労力をこの仕事に、あと20%は勉強して、何か資格を取りなさいよ。将来生きるよ」父上もきっと介護師の資格を取ったのだろう...

 帰り路渋谷まで、又タクシーを拾う。今度は年配のドライバー。

「ドライバーさん、何年、この仕事しているの?」

 「私はもう67歳になるんですよ。会社定年になってから始めました。年金貰えるし。海外旅行が好きでね...年に一度は行くことにしているんですよ」

 「僕も好きだけどこの年ではね。何処へ主に行くの?」

 「東南アジアですね。ヨーロッパ、アメリカは遠いいから行きません、マカオが好きですね...」

 「僕も好きだよ。カジノ?」

 大小しかやりません。この仕事、旅費稼ぎと孫の小遣いですよ...」

 「幾つまでやるの?今のペースなら元気なうちはズ~ッとやろうと思っていますよ」

 次のタクシー渋谷から浜田山まで...大日本交通さんの車、懐かしい。その車のドライバーさんは、2年ドライバーをやって普通の会社で働いて又、タクシーに乗っているそうだ。

 「タクシー良く禁煙にしたね?」

 「私、大賛成なのです。あの運動している渡辺さんと言う人知っていますよ。事務所にも行きました」

 「へえ、驚いた。彼は早稲田の野球部でね。僕の会社で野球部をやって居て僕が監督の時のショートだよ。まあ、父上の関係もあるけれど、タクシー業界の「全乗連」を良く纏めたよね。あれで、「禁煙運動」は峠を越えたと思ったよ。それにしても、貴方、詳しいね。本物だ」

 いや、驚いた「禁煙運動」もここまでくれば本物だ。それにしても、渡辺文学君も「禁煙ジャーナル」こんなバックアッパーが居るなんて...

 「クシー会社もナビの交換大変だね費用は掛かるし道はどんどん新しくなるし...」

 「そうなんですよ。コンピューターはドンドン進歩しますしね...私は自分で機械を作るんですよ。秋葉原で部品を買ってきて組み立てるんです」

 「お宅の会社、元の社長さんとはLPGの講習会で台北に二度、香港、北京、上海等各地に行ったことがあるんですよ。社長は九州帝大出の海軍少尉かな?もう代が変わってしまったけれど、貴方なんか先代と話が合うんじゃないの...随分、お世話に成りましたよ」

 今、トヨタがJpnTaxiと言うタクシー専用車を作って居る、僕は「トヨタ良く踏み切ったな...」と思ったし、いい車だと思う。しかし、意外にドライバーさんの評判は今一つなんだ。理由は、車いすを載せる時、意外に時間が掛かるらしい。燃料はLPGのハイブリッドだ、日産は遂にタクシー車を辞めてしまったし、世界を考えればまだまだタクシー車の市場はあると思うのだが...

 今日は3人のタクシードライバーさんと話が出来たが、二台目のドライバーさんから大日本のドライバーさんまで世相と車の事と有意義だった。

 この間、乗った車は75万キロ走っていると言う。昔は大体、4年35万キロから40万キロで代替だった。35年前の日産車は耐用走行キロ50万キロが開発目標だった。僕たちが’96年にミヤンマーへ輸出した車はミヤンマーの国にお金がなく、タクシーの中古車を350台輸出した事がある。4年前にヤンゴンを尋ねた当時の仲間があの時の車がまだ走っていますよと写真を撮って来てくれた。勿論エンジンは、韓国製か中国製の物に変えているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 


“Diary 139” ’18-8-7

2018-08-06 16:11:32 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

7/1 豊川稲荷お参り

全く例月通り。相変わらず静かなお一日。顔見知りの人に全然会わない。何か良いこと有ります様にママしっかりお参りして...

7/ 4 Live Sometime 吉祥寺 Yoko&M,Nishi Trio

生憎の雨模様の天候だったが、吉祥寺は近くて、便がいい。ワイフも気分転換、あの店には抵抗がない。お客の入りも8分通り…いい雰囲気だった。Yoko 新しレパトリーに“Where orWhen”を、スロー・ボサノバのリズムで歌って呉れた。ママも顔馴染みに成り、西さん達メンバーとストロベリー・ムーンと ブルー・ムーンの話で盛り上がって居た。

7/12 21世紀の会 演題「戦国武将の危機管理」講師 瀧津 孝 於 欅会館

秀吉、黒田官兵衛、加藤清正、伊達政宗、家康等の「危機管理」を要約すれば皆、「次のプレーを考えていた」と言う事。面白かったのは、秀吉が大阪城を作るのに15年かかったそうだ。きめ細かい5か条の掟を奉行に命じた。「その中に石を持ち帰るものは片側通行を遵守し、大きな石を持ち帰るものに対しては、軽い石持ち帰るものが道を寄って譲ること」の一文があり僕には非常に興味深かった。それなら、「なぜ秀吉は片側通行でなくて、左右の指示を具体的にしなかったんだろう?」講演の後で食事をしながら、又、「通行区分」の話を講師にして見た。「何で秀吉は大きい石は左側、小さい石は右側と具体的に指示をしなかったのですかね?」「いや、全く知りませんでした、初めて知りました。本当にその通りですね。いいお話を伺いました。勉強に成りました...」危機管理はリーダーのきめ細かい物の見方が必要。

7/13 安蓮社 住職 来宅

恒例の安蓮社の住職が、お経を上げにお坊さん二人で来て下さる。もう我が家は、安蓮社にお墓を作ってから約150年。昔はお爺さんの住んでいた麻布我善坊と浜田山に来て呉れたのだが、我善坊は無くなったので浜田山だけに成ってしまった。お寺で聞くお経と我が家で聞くお経では何か感じが違い、心が落ち着いてしんみりとしてしまう。30分ばかりだが昔話とお寺さん業界の変わり方等を改めて伺い、時の過ぎ行く様を改めて感じる。

7/14 尾久自動車学校 高齢者講習

3度目の高齢者講習。何処の教習所へ行こうかと考えたが、矢張り義理堅く東小金井まで行くことにした。最近、高齢者に対する行政指導も厳しく成って居るし、慣れた所の方が安心だし...塩地社長が亡くなってから葬儀にも伺っていないし...所長が亡くなってもう一年以上になるし...さすが、教習所は一頃のブームははるかに去り閑散としていたが、半分の車は動いていた。圧倒的に学生さんが多い、二輪車は社会人の若い人が多く、意外に混んでいた。高齢者講習は以前と変わらず車一台に3人ずつ、初めは認知症テストを含めた、学科の講習。矢張り、緊張するし、意識的に集中力を高めた。テスト結果は警視庁の免許本部に連絡して合否の結果を待つ。この点は従来と変わったようだ。実技は改めて日取りを決めて申し込む。設置責任者いわばオーナー、と社長にご挨拶する。幸い社長が僕を覚えて居てくれて喜ばれ、故人をしのんだ話を1時間位してっ帰って来た。尾久自動車は昔、荒川区の尾久にあり、東京球場が近く、大毎オリオンズの選手が殆ど免許を取りに来た所。荒川博さん、王さん、別当さん以下沢山の人がお世話に成って居る。僕が会社を辞めた時、夫婦でオータニに招待して頂いたり、霞が関C/Cでは随分ゴルフもやったし、少しでも恩返しが出来ればと思っている。

7/18 Mr&Mrs Desmond Family 来宅

マレーシアからDes Familyが来宅。子供のエミリーはイギリスに留学中、男の子のケニスは9月から矢張りイギリスに留学するので、今度は家族での北海道旅行を1週間して、帰りに寄ってくれた。彼らのファミリーは子供が小さい時は我が家へ泊って行ったが、もう大きくなりすぎて、無理。この前。小沢蘭雪先生がマレーシア大使館で書道のデモをやった時に紹介をして置いたが、立派なでモンストレーションだったようだ。

7/21 明石展 訪問  青山サロン・ド・クルール

今上陛下のご親友、明石さんの定例の個展。シーボニアの仲間と一緒に行く予定が来客が出来、翌日に成ってしまった。僕は意外にこう言う展覧会は好きなのである。もう20年位見ていると、明石さんがどんな考えや興味を持っているかが、良く解る。今年は新しい作品が少なかったかな?来客は、学習院の明石さんのお弟子さん、兎に角、女性にもてるのは、間違いなし...日産の仲間は殆ど来なかったかな?陛下が退位されるとこの個展も止めになるかな?

7/20尾久自動車 高齢者講習 実技

実技の講習。車は日産でなく、マツダ矢張り寂しいな...矢張り3人一グループ。まあ要領は解って居るし、決められた速度を超えないようにゆっくりとこなす。S字やクランク、バックの車庫入れも自分でも出来るかどうかの良い体験、無事に終わった。

7/30 塾高 優勝 久しぶりの銀座散歩

今年のチームは、いいチームだ、丁度、森林監督のフルメンバーになった訳だし...30日は神奈川の決勝をテレビで観戦。その後、一人で用事を足しながら、銀座を一回り...

・ギンザ舟波さん訪問 今の前、ブログに書いたが、わが後輩舟波君の父上が、恵と同業、一度会っておこうと思い「Biniリハビリセンター」に立ち寄って来た。

・東急リバブル訪問 此の所、付き合いが出来たが、長野県人の大場沢さんを訪ねる。舟波さんのオフイスと同じ銀座2丁目。普段余り行かない場所だが、花屋さんの女性に番地を尋ねる。直ぐ、スマホを出して調べてくれる。僕が、尋ねている間に後ろに二人人が待っている。兎に角、ビルが多くて良く解らない。

・Ami’S Bar ヒロ大島ライブさて、今日の本命はヒロ大島さんから、「Ami’sに出るから来てくださいよ」と誘われたからだ。何しろ、保険会社勤めを終えて、再び、学生時代のジャズピアニスト戻った男。僕の親友三保敬太郎に習ったと言うので敬太郎の離婚の経緯をゆっくりと聞きたかったのである。僕が一番目の客。彼のライブは3度目だが、直ぐ「Where Or When」から入ってくれる。大島君頭が良い。僕の好きな曲をよく覚えて居てくれる。其の内に彼の会社時代の上司と言う人が奥様連れで来た。この人が早稲田学院でアメフットをやって居たと言うし、又秋田の支店長をしていたと言うので、三浦商事の事で話が弾んだ。Amiさんは「この前もらったCDが良かったよ」と言ったらすごく喜んでご機嫌になり、演奏はノリノリだった。シアリングナンバーをリクエスト、3曲位引いてくれた。でも、シアリングのバンドの女性バイブ、マギー・ハイアムス知らないと言って居た。年代が違うな。兎に角、お客は少なかったが、最高のライブ。

・瀬良美 未だ10時半だったので瀬良美へ寄りたくなった。店へ入ると、ピアノの平井ちゃんが「カクテルフォア―ツウ」で迎えてくれる。ポーラ先生が来ていて先生の18番” There is the trees in the medow”を唄ってくださいよ。と言ったら喜んで歌いだし、昔のように足を上げようとする。女の子が慌てて先生アブナイ...とストップ。「先生何であの歌が好きなんですか?」と聞いたら「僕の生まれたところは、山梨の牧場だったんですよ」それで...と言う話、ママも僕も初めての話、確かあの曲はSP盤のベニー・グッドマンのB面の曲だったんだよね...

 /31 碗玲 来宅台風で飛行機が欠航。お客様は一便早く帰れたがホテルも一杯「ママ 泊めて...」と言う事で今度はお土産もなし。

 P,S

8/5甲子園大会 開幕 塾高 第3試合で中越と当たる。生井君の先発。打線が思うように打てない。珍しくレフトのエラーが出て同点にされるが、最終回善波の出塁から宮尾のサヨナラヒットで辛勝する。今度の甲子園は、メルボルンオリンピックボートのキャプテン須永君や自動車部の松木君とか普段電話も掛かってこない連中からお祝いの電話があった。高校の同級生は本当に有難いし、凄い盛り上がりだ。