★Massy'sOpinion
”自動車販売の流れの中で90年 (2)
*日産自動車の体制とトヨタの違い
;日産自動車は車を作るところ。工場ごとに製造車両を分けていた。
:販売会社は、基本的には1県1社 後に乗用車時代の到来を望みメイン車種を乗用車に替えメイン車種ごとのディラー・チャンネルを作る様になった。メーカーの内部体制は地域別、だったが、車種別、地域別に運営するようになった。
:特筆すべきは、トヨタで日産に僅かに立ち遅れて、来るべき時代に対応するために卸し売りのトヨタ自動車販売を設立したのである。
トヨタ自販の社長は、神谷正太郎氏である。先ず、この人の事で、知っている範囲の事を書いて見よう。神谷正太郎氏は三井物産に入社したのである。その後、日本ゼネラルモータース、トヨタ自動織機製作所の勤務を経て、トヨタ自動車販売の初代社長に成ったのである。
この自販方式と日産の様なディーラーへの直売方式との優劣は、解らないが、現在ではトヨタも自販方式は止めてしまった。自販方式はメーカーに取っては資金的には、各販売店から集金する手間が省けるし、メーカーと自販の重複する業務はあるにしても、メーカーの成長期にはメリットがあるかも知れない。然し、この自販方式を取る際にメーカー、自販の間で取り決められた。次の事は、今日のトヨタ、日産の大きな差の元になって居ると思って居る。
即ち、神谷さんの語録には
*「1にユーザー、2にディーラー、3にメーカーの利益」
*「経営者には6段階の時期がある」
第1の段階は、社長個人でお金を儲けようとする時期。
第2の段階は、会社として利益を生みだす事を考える時期。
第3の段階は、売上高や、社員を含めて、会社全体を大きくしたいと願う時期。
第4の段階は、人や組織造りに一生懸命になる時期。
第5の段階は、業界や世の為、人の為に尽くす時期。
第6の段階は、死んだとき悪口を言われない様に努める時期。
と言われている。
*日産から学んだこと。
私は、日産自動車の人々に色んなことを教わり、余りにも「士農工商」的なメーカーと販売会社の基本契約に疑問を持ち、この序列を変えるべく、「異質だけど対等」と言う考えを強く持っていた。特に、日産自動車には戦争中に軍の学校に居た人々が多く、素晴らしい人が沢山いた。基礎学力のレベルが販売会社とは、全然違う。それでも組織は、トップ次第なのだろう。
・原価低減を徹底してやっていた事。
ストライキから、再建の道を進むのだから、当然の事、営業部門の事務の人は、「鉛筆一人3本、砂ゴム(消しゴム)は一人半分」と言う時代が在った。大卒新入社員は、殆ど原価課に配属されていた。そこのトップが後の石原社長であり、下に後の国内営業トップの大竹さんがいた。「原単位」と言う言葉を大竹さんはよく使って居た。私はその意味を大竹さんから教わった。
・学歴別差別が厳しかった事。
当時、日本全体がそうであった様に、人事管理は基本的に学歴別、年功序列であり、全く軍隊的であった。東大、以下東北大等が優遇されていた様に思う。国内営業部門の人は中卒が多く、男親の人はどうしても子供を大学に入れたく、其の学費稼ぎに、我々の車を引き取りに行くのと一緒に会社終了後、吉原工場通いをして、車陸送のアルバイトをしていた人が3人位いた。
・整理、整頓が良く出来ていた事。
私が入社した1957年頃、東京日産の販売は、月800台位が毎月倍々ゲームで増えて行った。
業務の仕事も在庫日報と言えば、毎日日めくりの在庫帖を付けていた。それではデータが取れない。メーカーの製造タクトは3か月である。そこで、一ヶ月一覧で見える在庫日報を作った。「日報は一日一枚ずつつけるものだ」「一日一回付ければいいでしょう」と大議論をしたことがある。ある日、日産自動車に行った時、新入社員の女子が、ファイルを整理していた。「江草さん、誰に整理を教わったの?」と尋ねたら、「ここに在るから、同じ処に閉じているんです...」この返事には、「歴史が大事なんだな...」つくづく思い知らされた。
・メーカーとディーラーの関係。
東京日産が上場して、株式が日増しに上がって居た時、担当の部長代理が僕に言った事がある。
「増田君、如何して東京日産の株価があんな高値を付けているんだ?メーカーと1年契約書1枚の会社だろう?」「もう10数年続いている関係が壊れる事は無い...と言う歴史的現実が在るからだ...」と言われた事がある。歴史と言うものはとても大事なものだと、この言葉は今でも鮮明に覚えている。
・少し、話が前後するが、東京日産の指導体制は、吉田社長、中島専務、荻野常務と言う体制であった。業務部は部長が常務、その上は吉田社長と言う体制であった。晩年、吉田社長が体調を崩され、少し、長い間会社を休まれ、その後、出社された時は、会長に成られた。ある日、秘書の女性が、「増田さん会長のお相手をして上げて...」と僕を呼びに来た。会長室へ出向くと、「どうなんだね、最近は...」と言う事から色んな話に成り、会長が「当社を関東のデイストリビュウターにしようと思うんだ。宮家君を呼んでね...」「会長、宮家さんは無理ですよ。今、業務部と言う新設部署でディーラーの基準造りを始めたばかりですよ...」とご進講した事がある。当時、車のやり取りを関東一円のディーラーと一月200台位やって居た。当時は、地方と東京と仕切に価格差があり、勿論、損しない様にやって居たことは当然である。吉田会長はそんな事もご存じだったのである。丁度、其の頃か、東京日産は株価の面で非常に注目される会社だった。後の秀和の株買い占めに繋がる時代だった。
当時は、日産の販売体制に少しずつ問題が出始めた時である。「財界」と言う経済紙の記者が、僕の処へ取材に来て、「川又、中島不仲説がありますが実態は如何なんですか?」と聞かれた事がある。直ぐ、中島社長に言うと「儂は、日産に足を向けて寝られはせん、日産のお陰で今日があるんじゃ...」と言われた。川又社長も組合問題には頭を痛めて居たし、ディーラーとの話し合いは営業に任せると言う態度を取られていた様に思う。
・メーカーの考え方は,新車を如何に作るかと言う事第一に考える。ディーラーはメーカーとの契約台数は引き取る責任がある。此のディーラーの業績評価は、販売台数=登録台数で評価される。私の持論は、ディーラーの経営責任も大切である。その為に、固定費の70%は、部品、修理、中古車の利益で賄える様にしなくてはならない。ある時、日産から常務で日産ディーゼルに出た人から、電話が掛かって来た。リコールが発生して、その部品がライン供給で余裕がなく、販売したリコール対象車両に回す部品が足りない。「私はラインを止めてもすでに販売した車に部品を供給するべきだ」と言っても、役員会で多勢に無勢で意見が通らない...と言った話だった。神谷正太郎さんの考え方とは、随分違いのある話だ。
・’91年、私は、日産特販と言うメーカー全額資本の会社の社長を命じられた。兎に角、これから激動の自動車界で生き残れる会社にしようと考えた。私の業務時代の上司が1代目、2代目、と社長をやり2代目が急死をして、3代目が東京日産の常務が遣った後である。
兎に角、自立できるディーラーにしようと思い、日産の中古車部門に居た良く知って居る人間を2人連れて行った。役員体制は、偶然にも台湾関係の著名な軍人の御子息と永田鉄山の息子さんが居た。皆、私の方向性には賛成で色んな私の構想には強力な力を入れてくれた。女子を戦力にしようと思ったが、幸いに一人車が好きでツナギを着て車洗いをやっている子がいて、女子が男と一緒の仕事をするのを嫌がらなかった。顧客管理は、リースの手法を利用して、径年数残価価格(お客様の簿価)が解るようなシステムを組んだ。狭い場所で、LPG車のハイヤーの下取車の販売会を遣ったりしたが、お客さんはタクシーの運転手さんで、皆さん車の整備状態が良いのは極知して居るので、よく売れた。全く新しい中古車の展示会のやり方と新しい顧客層の発見だった。‛96年にはミヤンマー観光年向けにタクシー車の中古車を350台輸出した。この時は、日産の輸出部担当のK副社長と随分交渉した。「新車が売れなくなってしまう。タクシ―の中古車なんか売らないでくれ...」「向こうの国は、お金が無くて買えないのですよ」ミヤンマーの軍の責任者が「日産自動車に挨拶に行きたい」と言うので、説得に大変だった。最後はそれでもお土産に「ニコン」のカメラを準備して両国の旗を立てた応接間でキチンとした対応はしてくれた。ミヤンマーは基本的に右側通行、左ハンドルだが、この350台はミヤンマー政府が特別に右ハンドルを許可したのである。香港でも同じようなケースがあった。香港政府が排気ガス対策のテストで40台のタクシー車をテストしたいと言う話があり、何とかトヨタと20台ずつに漕ぎつけた。香港のタクシーは20,000台、昔は皆セドリックの中古車だった。ガスの注入口はオーストラリア製、日産は絶対に変えない。トヨタはオーストラリア製に変えると言う事でテスト車以外はトヨタに成ってしまった。今は、韓国製が入っているかも知れない。
これらの例は、「日産とトヨタの誰の為に車を作るか?」の造り屋の考え方の違いだろう。
・日産特販当時は、タクシーの料金制度に合致するように小型のタクシー車を作ったこの車は、左後席のドア―の開口幅右側より5㎝広い。乗降客の利便性に配慮したのである。従来の乗用車からは画期的な発想でった。今この発想はトヨタのジャパンタクシー車に取り入れられていて、タクシー業界はこの車が95%位の全国的シェアーを持っている。売価は付属品も色々付いているが、400万近いと言う話で、25年前の日産車の売価は約180万位だった。
*21世紀の自動車と環境
・創世期の自動車販売業界
自販連では、協会の格付けの為に大学教授を毎年総会時に講師に大学教授を呼んでいた。
確か、一番初めは、慶応の藤沢キャンパスを主導した加藤寛(最終、千葉大学長)教授だった。その後4~5人の先生が入れ替わりに呼ばれていたが、京都大学の塩地洋教授が排ガス問題と中古車の海外輸出の研究を定年まで約30年位続けられ自販連でも事あるごとに講演をされて居た。僕は、塩地先生に随分と自動車販売の実態をご進講させて頂いた。そんな関係で京都大学東アジアセンターの外部研究員をコロナ以前、塩地先生が定年になるまで続けさせて頂いた。最近ではその頃の先生方が皆さん定年に成り、又、コロナ禍で会議が出来なくなり、中古車の海外輸出問題、電動化、自動運転等の問題は、各企業内で議論されるように成り、まとまった方向付けが出来なくなった様である。テスラ、韓国等の比較的小さい国やメーカーがトライアンドエラーで新しい方向を進めやすい様だ。
*経営の再建には、稼働率の悪い不動産の整理と人員整理しかないと思って居る。日産はゴーンの体制に成ってから本当によく不動産を売った。何故、ルノーに株を持って貰ったのか?ルノー自体がフランスの自動車業界立て直しの一環で出来た公団である。日本の政府は日本の産業政策の将来を如何考えていたのか? 外車の輸入時代から日新自動車でオースチンを売り、晩年は、ルノーを扱っていたキャピタルに居られたが、英語流暢、タイプも打つ、小西芳三さん、日産の国内営業をやって居た、前原正憲さん、神谷正太郎さん、梁瀬さん等の意見を聞く場があっても良かったのではないか?トヨタもこの処大きなリコールで大変だ。日本の基幹産業を如何するのか?自動車産業の二の舞をしない様に政府にはシッカリと中核産業を決めて将来の方向性を決めて貰いたい。
*さて、ルノーは日本では販売チャンネル造りが遅れていた。僕の知って居る範囲では、タバカレラ貿易と言う会社が輸入権を持っていた。大体、10年サイクルで契約する代理店契約である。日野自動車がルノーと技術提携をしたが、大型車に絞り込み乗用車の生産を止めた。タバカレラ貿易はディーラーネットも作らず10年で三井物産が次の契約を引き継いだ。ルノー公団の事務所は三井物産の中に置いた。三井物産は「フランスの公団の代理店」と言うタイトルが欲しかった様だ。僕の学友が、偶々、ルノー公団の副代表と言う仕事についていた。代表のデユプレと言う人に紹介され随分と日本の自動車事情をレクチャーした。ルノーは当時1%以下のシェアーだった。「日本は無理ですよ。どの位のシェアーを望むのですか?」彼は「10%」と言った。「大きく考えて、小さくスタートだ」この言葉は非常に印象的だったので、よく覚えている。
その後、オースチンを売って居た日新自動車が東京日産の関係会社キャピタルに替わり、売る車が無くなって居たので、ルノーをキャピタルに紹介して、10年代理店をしていた。その時、日産自動車はルノーの総裁が東日の本社を表敬訪問する事に成ったが、日産自動車は東京日産の本社は止めて、場所を変えて呉れと言ってきて、ホテルでの面談となった。その後、ルノーは余り売れず、10年後日英自動車に販売権が移った。
日産の川又社長はストライキ以後の立て直しで、「労使の相互信頼」石原社長は「世界で10%のシェアー」と言う目標を建てられた。然し、会社が大きく成れば、労働組合も大きくなる。組合内部の権力争いも宮家、塩路のせめぎあいも激しく、特に塩路さんのスタンドプレーは激しかった。僕の部下のセールスが、ヤマハのセールスに車を売ったが、そのセールスは塩路さんにボートを売って、川又社長の小切手を貰ったと言う話を聞いて来た。全く色んな裏話が在るものだ。確か、’99年8月頃、僕は塙社長から呼び出しを受けた。生憎、神奈川のお客様を訪ねていて、時間が合わずお会いすることは出来なかった。内容は解からないままだが、屹度、ルノーとの事だったろうと思う。日本の政府は何をしていたのだろう。ゴーンの問題を此の儘にして置いては絶対に許せない...「秀和による株の買い占め」につては、別に書くことにしよう。
*さて、非常に大雑把であるが、僕の仕事を振り返って見た。書いて居ると次から次えと色々な事が想い出て来る。然し、自動車の仕事は、作る方も売る方も本当に利益を出すのは難しい。生まれ育った芝界隈も大規模な再開発で街の様子は本当に変わってしまった。古い昔の人にお会いすると、「自動車屋は再開発が無いと生き残れないなあ...」と言う話が出て来る。街の整備工場も、これからの自動車の燃料がハイブリッドか?電気か?によって整備に必要な知識は大きく変わって来る。それにプラスAIの知識だ。果たしてどちらの方向にむかうのか?間違いないのは「自動車の需要がある」と言う事だろう。
P,S 秀和による株買い占め事件
昔の話で、日時は詳しくは調べないと解らない。僕が、八王子営業所長の時だった。
僕の中学時代の野球仲間DMSと言うダイレクトメールの発送業務をやって居るYから、「お前この間、T君を紹介したよね。彼奴は株を大きく動かしているんだ。彼奴から電話があって何処か買い占めている奴がいて今日、東京日産の株が、100万株動くと言って来たよ。」
「えっ、本当...それは大変だ。本社の連中知って居るのかな?全然そんな話は聞こえて来ないよ...」早速、本社のI財務部長に電話をした。「そんなの大丈夫だよ、当社は不動産を沢山持っているから値上がりしているんだよ。それだけ有料株だと言う事...」その日は、100万株は動かなかったが、77万株買われた。Y君に「本当だな。どこが買って居るのか調べて呉れよ」「これ以上は解からないよ。品川練習所のHさんに聞いたら...お前付き合いあるだろう...」僕の付き合いは、次男の方なので次男に聞いたら、「そんな事俺にも解らないよ。兄貴に怒られるよ...」と言う返事。2~3日後次男から電話があり、「マッサン、今日銀座で飲もうヨ」「いいよ、6時三原橋のパチンコ屋で...」その日、次男と飲みに行った。「そこで、兄貴に殺されてしまうよ...と言いながら、証券会社を教えて呉れた。その後、秀和は株を買い進め、東日の株が買い占められている事は徐々に知られるように成って来た。
当時は、この他にも買い占め案件が多くあり、ディーゼル機器もその一つであり、これは日産自動車へ泣きつき日産はその手当の方が優先であった。此の77万株動いた日に誰に報告しようかなと考えて、東日の大野副社長に電話して、話し合う事にした。大野さんは慶応の先輩で父君は横浜モーターの役員、田園調布に住んでいた。東日の中島会長、泉社長と同じ仲間である。大野さんとはホテル大倉の喫茶室で会った。「大野さん実はこう言う事があってね、財務部長に話してもあの人は意味が解らないんですよ...」「マスよ、実は俺も困って居たんだ。3日ばかり前に、お前知って居るだろう...ヤナセの森山、奴に呼び出されてプリンスホテルで秀和の小林社長に会わされたんだよ。そして、「君を社長にするから秀和に来ないか?と言われたんだ」「もちろん。断ったよ...」「大野さん、株を買い占められるなんて、社長の恥ですよ。泉社長に言った方がですよ」「うん、お前一緒に行かないか?」「僕はいやですよ。田園調布グループのご近所さんの話にした方が良いですよ」と言う事で大野さんが一人で直ぐ行くことにした。そして、翌日から東日所長以上が集められて概略の話と動揺しない様に泉社長から話が在った。ヤナセの森山さんは、ヤナセ商事部長されて居たが、慶応商工時代からヤナセ次郎社長の家に下宿していて秘書課長等を歴任し、商工時代からの大野副社長親友だったのである。僕は以前から会社の安定株主は、日産自動車20%、ダットサン研究会等大口顧客20%言うのが持論だった。この問題の始まった当初から、東京日産の在り方論ついては、唯メーカー支配を怖がるだけで競輪場、ゴルフ場等の多角化測るだけ、メーカー「日産は株屋ではない...」と言う誰も触れたがらない問題が現実的に起きたのである。秀和には、森山さんの他に、慶応野球部の4年先輩の瀬尾さんと言う人も入って居た。八王子まで、森山、瀬尾二人で僕の処へ来たことがある。此の買い占め事件は、結局最後は日産が買い取ったのである。この時代、ダイエイが高島屋の株の買い占めをやって、高島屋側の窓口を遣ったのは、僕の成蹊時代の仲間H君だった。東大卒で高島屋では早くから業務部長をしていたが、その後はカローラ高島屋へ行って、自動車の事解らないからと僕の処へよく来たものだ。ある時、金融庁の前で、偶然に会い「こんな事があって、日本の資本主義は変わって行くのだろうな...」と話し合ったことが想いだされる。兎に角、秀和もダイエイも高学歴の連中を引っ張った事は確かである。僕の人生の中では、これらの人間関係と事件は、貴重な経験と財産である。