massy-academy

advice for consumer

‘24-10-1“Diary 213”

2024-09-30 22:21:48 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
・9-10 誕生日
満90歳の誕生日を無事に迎えることが出来た。正直な所、昔は、90歳迄生きられるとは考え無かった。とは言え健康状態から「何歳位まで生きられるかな?」と考える事も無かった。大学卒業して入社した東京日産の定年は55歳。入社した時は、5年位で辞めて、増田商会を継ぐのだろうな...と漠然と考えて居た。何処の学校でも、野球部の監督は4年生の就職の相談には乗ってくれる。野球が巧かろうが、下手だろうがノンプロの野球部のある会社に斡旋してくれる。勿論、学業の成績は学校推薦が取れる事が前提である。
29歳までに、友人の結婚式に25回位出た。もう30も間近、ボツボツ結婚しようかなと考え出した。処が、2月に親父が痔で寝込んでしまった。意外に手遅れで重症だった。
その後、痔の手術は順調に終わったが、一向に血液が戻らない。病院も3ヶ所位回ったが、結局、我が家で療養することに成った。それで、お店はおばあちゃんに社長、家の内の事には、今のワイフに来てもらった。当時の僕は販労東京第一地区の委員長。それから間もなく親父は回復せずに亡くなった、52歳である。若かったな...葬式は菩提寺の安蓮社。400~500人の人が参列して下さった。参列者の皆さんは「増田商会如何するんだろうな?」と言うのが最大の関心事だった様だ。参会者へのご挨拶の時、僕は一瞬考えたが、「増田商会は現在の儘続けていきます。よろしくお願いいたします。ご参列有難う御座いました。」と言う挨拶をした。さて、それから本当に「今後どうしようか?」と考えた。思い余って、ワイフと銀座日動画廊の前に出て居る「占い師」の処へ行って、事情を話し今後の意見を聞いて見た。「占い師」は「貴方は大衆に関係のある仕事をした方がいい」と言われた。これで、僕の腹は決まった。店はおふくろを社長、ワイフに手伝わせる。僕は会社を辞めずサラリーマンとして家庭生活の経済的安定を考えよう...」これから僕の今日にいたる迄の生活が始まり、仕事は人一倍働いたつもり...これは誰でも同じだろう。唯、健康に恵まれ、友人、お客様、接する人に本当に恵まれた暮らしが出来たのである。あの時、会社を辞めて居たら今日90歳をどんな形で向かえられただろうか?
僕は、小さい時から体を動かすのが好き、さりとて、運動神経が鋭い方ではない、体も大きくない、それでも、なんでも10番目位には入って居た。大学卒業して、会社員に成っても方々で草野球をやったり、会社が野球部を作る事に成り、30歳位までは第一線でプレーしていた。職場が変わるごとに野球チームを作り楽しんだ。野球をやめてからは、スイミングプールに週1回位は泳ぎに行った。犬を色々飼って居たので、散歩には毎日行って居た。食事は腹8分目、酒は40位までは随部飲んだ。タバコは50歳で辞めた。今考えると、犬の散歩が一番体に良かったかもしれない。ゴルフは勿論、毎週の様に行って居た。野球仲間中心にメンバーには恵まれていた。こんな暮らしをしていていつの間にか、80歳の誕生日が近くなると、「何か年を取ったな」と言う実感が頭の隅に浮かんできた。
さて、今年は、8月の20日位から、「僕は、9月10日位まで生きられるのかな?」と言う不安が沸き上がって来た。体調も良くないし、「不眠」が酷い。足首に加えて、膝が何かスムースではない。務めて平常通りの暮らしをした。そんなこんなしている内に9月10日を無事に迎える事が出来た。さて、今度は幾つ迄生きられるのかな?お袋はボケ始めが93歳位で96歳迄生きた。9月10日までは無事に生きられたのだから、取りあえず、次の目標はお袋の年齢を目標にして、今のペースで頑張ろう...
*9月は天候が不順だった。「外出はしない方がいい」とテレビやラジオで言う。よく考えて見ると、外出して若し転倒でもしたら、人様に迷惑を掛ける...と言う様な事を考える。結局、外出は一切なし...大谷君のテレビを見て、残り少ない野球友達と電話で話をする位。誕生祝にメグミが送って呉れた愛車フィガロのデコレ―ションケーキが発注サンノゼ、発注先愛媛、東松山のデコレーション・ショップ、誕生日のお昼我が家着。これには驚いた。ケーキのフィガロが良く出来ている、食べるのには勿体なかったが,美味しかった。
最近の世の中は、日本はもとより世界各地で紛争が起こったり、大きな自然災害が発生している。振り返って見ると、コロナ以降の10年は歴史的な変化の時期なのかも知れない。僕は、「一帯一路」に世界平和の期待を掛けていたのに...また次の機会に夢を書くことにしよう...

'24-9-24“Double-Double” 

2024-09-23 22:19:44 | Megu's Sports
★Megu's Sports
*ひさしぶりにレースを2連戦した。9月8日Ironman 70.3 Santa Cruz, その後9月14日USA Triathlon Age-Group National Championship (Olympic Distance)。Oly-Olyと、Oly-70.3の連戦はしたとこがあったけど、70.3-Olyは、初めて。いつも全米選手権は、8月にあるんだけど、今年は、オリンピックのせいか9月。Santa Cruz 70.3は、地元なので参加したくて。全米選手権は、来年、Wollongong, Australiaで開催されるWorld Championshipに出たいので、トップ18に入ればなと言うことで、2連戦してみることにした。

*結果は、Ironman 70.3 Santa Cruzは、AG2位(40人中)で、全米選手権は、AG8位(58人中)。両方とも、納得のいくレースだった。全米選手権では、6日前の70.3の影響がないようなレースができた。体が、思ったように動いている時は、きつくても気持ちがいい。何が好きなのかって、メンタルゲームなのかな。今思うと、10代の頃、大学の頃に比べると、また、20代の頃トライアスロンを始めた頃に比べると、レース中の自分に対する接し方が、違う。もちろん年と経験おかげでしょうね。とにかく、両方のレース、楽しめたわけです。

*その一方、多分、このレースのコンビネーションは、近い将来、計画しないでしょ。このスケジュールで、レースをこなせることができるって分かったのは、いいこと。なんだけど、全米選手権は、New JerseyのAtlantic Cityで行われたので、1日かけてフライトとドライブの旅。西海岸から東海岸まで行くのって、 一日かかる。また、時差も2時間だとそんなに体に影響がないけど、3時間って、馴染むのが難しかったりする。レースが近く、同じタイムゾーンだったら、かなり楽だっただろうな。幸いレース中は、70.3も時差も影響がなかったけど、レース前日とレース後、よく寝れなかったので、移動日が、やけに疲れたりするのです。

*全米選手権の開催されたAtlantic Cityは、カジノで知られている街。と言っても、現在は、かなり寂れている。カジノ以外の2−3スターホテルは、街と一緒で寂れていて、Crazy peopleが深夜過ぎても外で、大声で話をしている。道路のコンディションも悪い。カジノの街で、ホテルは安いけど、物価が高い。普通のスーパーマーケットがないなど、今まで海外でも経験したことのないような経験ができた街。ところが、1マイル街から出ると、“どうなってるの?”って思うぐらい、突然、良い街並みと高級住宅街が広がっている。

Torremolinos, Spain is next up! 来月は、WTC finalです。



’24-9-17自動車販売の流れの中で90年(2)

2024-09-16 16:30:03 | Massy's Opinion
★Massy'sOpinion
”自動車販売の流れの中で90年 (2)

*日産自動車の体制とトヨタの違い
;日産自動車は車を作るところ。工場ごとに製造車両を分けていた。
:販売会社は、基本的には1県1社 後に乗用車時代の到来を望みメイン車種を乗用車に替えメイン車種ごとのディラー・チャンネルを作る様になった。メーカーの内部体制は地域別、だったが、車種別、地域別に運営するようになった。
:特筆すべきは、トヨタで日産に僅かに立ち遅れて、来るべき時代に対応するために卸し売りのトヨタ自動車販売を設立したのである。
トヨタ自販の社長は、神谷正太郎氏である。先ず、この人の事で、知っている範囲の事を書いて見よう。神谷正太郎氏は三井物産に入社したのである。その後、日本ゼネラルモータース、トヨタ自動織機製作所の勤務を経て、トヨタ自動車販売の初代社長に成ったのである。
この自販方式と日産の様なディーラーへの直売方式との優劣は、解らないが、現在ではトヨタも自販方式は止めてしまった。自販方式はメーカーに取っては資金的には、各販売店から集金する手間が省けるし、メーカーと自販の重複する業務はあるにしても、メーカーの成長期にはメリットがあるかも知れない。然し、この自販方式を取る際にメーカー、自販の間で取り決められた。次の事は、今日のトヨタ、日産の大きな差の元になって居ると思って居る。
即ち、神谷さんの語録には
*「1にユーザー、2にディーラー、3にメーカーの利益」
*「経営者には6段階の時期がある」
第1の段階は、社長個人でお金を儲けようとする時期。
第2の段階は、会社として利益を生みだす事を考える時期。
第3の段階は、売上高や、社員を含めて、会社全体を大きくしたいと願う時期。
第4の段階は、人や組織造りに一生懸命になる時期。
第5の段階は、業界や世の為、人の為に尽くす時期。
第6の段階は、死んだとき悪口を言われない様に努める時期。
と言われている。

*日産から学んだこと。
私は、日産自動車の人々に色んなことを教わり、余りにも「士農工商」的なメーカーと販売会社の基本契約に疑問を持ち、この序列を変えるべく、「異質だけど対等」と言う考えを強く持っていた。特に、日産自動車には戦争中に軍の学校に居た人々が多く、素晴らしい人が沢山いた。基礎学力のレベルが販売会社とは、全然違う。それでも組織は、トップ次第なのだろう。
・原価低減を徹底してやっていた事。
ストライキから、再建の道を進むのだから、当然の事、営業部門の事務の人は、「鉛筆一人3本、砂ゴム(消しゴム)は一人半分」と言う時代が在った。大卒新入社員は、殆ど原価課に配属されていた。そこのトップが後の石原社長であり、下に後の国内営業トップの大竹さんがいた。「原単位」と言う言葉を大竹さんはよく使って居た。私はその意味を大竹さんから教わった。
・学歴別差別が厳しかった事。
当時、日本全体がそうであった様に、人事管理は基本的に学歴別、年功序列であり、全く軍隊的であった。東大、以下東北大等が優遇されていた様に思う。国内営業部門の人は中卒が多く、男親の人はどうしても子供を大学に入れたく、其の学費稼ぎに、我々の車を引き取りに行くのと一緒に会社終了後、吉原工場通いをして、車陸送のアルバイトをしていた人が3人位いた。
・整理、整頓が良く出来ていた事。
私が入社した1957年頃、東京日産の販売は、月800台位が毎月倍々ゲームで増えて行った。
業務の仕事も在庫日報と言えば、毎日日めくりの在庫帖を付けていた。それではデータが取れない。メーカーの製造タクトは3か月である。そこで、一ヶ月一覧で見える在庫日報を作った。「日報は一日一枚ずつつけるものだ」「一日一回付ければいいでしょう」と大議論をしたことがある。ある日、日産自動車に行った時、新入社員の女子が、ファイルを整理していた。「江草さん、誰に整理を教わったの?」と尋ねたら、「ここに在るから、同じ処に閉じているんです...」この返事には、「歴史が大事なんだな...」つくづく思い知らされた。
・メーカーとディーラーの関係。
東京日産が上場して、株式が日増しに上がって居た時、担当の部長代理が僕に言った事がある。
「増田君、如何して東京日産の株価があんな高値を付けているんだ?メーカーと1年契約書1枚の会社だろう?」「もう10数年続いている関係が壊れる事は無い...と言う歴史的現実が在るからだ...」と言われた事がある。歴史と言うものはとても大事なものだと、この言葉は今でも鮮明に覚えている。
・少し、話が前後するが、東京日産の指導体制は、吉田社長、中島専務、荻野常務と言う体制であった。業務部は部長が常務、その上は吉田社長と言う体制であった。晩年、吉田社長が体調を崩され、少し、長い間会社を休まれ、その後、出社された時は、会長に成られた。ある日、秘書の女性が、「増田さん会長のお相手をして上げて...」と僕を呼びに来た。会長室へ出向くと、「どうなんだね、最近は...」と言う事から色んな話に成り、会長が「当社を関東のデイストリビュウターにしようと思うんだ。宮家君を呼んでね...」「会長、宮家さんは無理ですよ。今、業務部と言う新設部署でディーラーの基準造りを始めたばかりですよ...」とご進講した事がある。当時、車のやり取りを関東一円のディーラーと一月200台位やって居た。当時は、地方と東京と仕切に価格差があり、勿論、損しない様にやって居たことは当然である。吉田会長はそんな事もご存じだったのである。丁度、其の頃か、東京日産は株価の面で非常に注目される会社だった。後の秀和の株買い占めに繋がる時代だった。
当時は、日産の販売体制に少しずつ問題が出始めた時である。「財界」と言う経済紙の記者が、僕の処へ取材に来て、「川又、中島不仲説がありますが実態は如何なんですか?」と聞かれた事がある。直ぐ、中島社長に言うと「儂は、日産に足を向けて寝られはせん、日産のお陰で今日があるんじゃ...」と言われた。川又社長も組合問題には頭を痛めて居たし、ディーラーとの話し合いは営業に任せると言う態度を取られていた様に思う。
・メーカーの考え方は,新車を如何に作るかと言う事第一に考える。ディーラーはメーカーとの契約台数は引き取る責任がある。此のディーラーの業績評価は、販売台数=登録台数で評価される。私の持論は、ディーラーの経営責任も大切である。その為に、固定費の70%は、部品、修理、中古車の利益で賄える様にしなくてはならない。ある時、日産から常務で日産ディーゼルに出た人から、電話が掛かって来た。リコールが発生して、その部品がライン供給で余裕がなく、販売したリコール対象車両に回す部品が足りない。「私はラインを止めてもすでに販売した車に部品を供給するべきだ」と言っても、役員会で多勢に無勢で意見が通らない...と言った話だった。神谷正太郎さんの考え方とは、随分違いのある話だ。
・’91年、私は、日産特販と言うメーカー全額資本の会社の社長を命じられた。兎に角、これから激動の自動車界で生き残れる会社にしようと考えた。私の業務時代の上司が1代目、2代目、と社長をやり2代目が急死をして、3代目が東京日産の常務が遣った後である。
兎に角、自立できるディーラーにしようと思い、日産の中古車部門に居た良く知って居る人間を2人連れて行った。役員体制は、偶然にも台湾関係の著名な軍人の御子息と永田鉄山の息子さんが居た。皆、私の方向性には賛成で色んな私の構想には強力な力を入れてくれた。女子を戦力にしようと思ったが、幸いに一人車が好きでツナギを着て車洗いをやっている子がいて、女子が男と一緒の仕事をするのを嫌がらなかった。顧客管理は、リースの手法を利用して、径年数残価価格(お客様の簿価)が解るようなシステムを組んだ。狭い場所で、LPG車のハイヤーの下取車の販売会を遣ったりしたが、お客さんはタクシーの運転手さんで、皆さん車の整備状態が良いのは極知して居るので、よく売れた。全く新しい中古車の展示会のやり方と新しい顧客層の発見だった。‛96年にはミヤンマー観光年向けにタクシー車の中古車を350台輸出した。この時は、日産の輸出部担当のK副社長と随分交渉した。「新車が売れなくなってしまう。タクシ―の中古車なんか売らないでくれ...」「向こうの国は、お金が無くて買えないのですよ」ミヤンマーの軍の責任者が「日産自動車に挨拶に行きたい」と言うので、説得に大変だった。最後はそれでもお土産に「ニコン」のカメラを準備して両国の旗を立てた応接間でキチンとした対応はしてくれた。ミヤンマーは基本的に右側通行、左ハンドルだが、この350台はミヤンマー政府が特別に右ハンドルを許可したのである。香港でも同じようなケースがあった。香港政府が排気ガス対策のテストで40台のタクシー車をテストしたいと言う話があり、何とかトヨタと20台ずつに漕ぎつけた。香港のタクシーは20,000台、昔は皆セドリックの中古車だった。ガスの注入口はオーストラリア製、日産は絶対に変えない。トヨタはオーストラリア製に変えると言う事でテスト車以外はトヨタに成ってしまった。今は、韓国製が入っているかも知れない。
これらの例は、「日産とトヨタの誰の為に車を作るか?」の造り屋の考え方の違いだろう。
・日産特販当時は、タクシーの料金制度に合致するように小型のタクシー車を作ったこの車は、左後席のドア―の開口幅右側より5㎝広い。乗降客の利便性に配慮したのである。従来の乗用車からは画期的な発想でった。今この発想はトヨタのジャパンタクシー車に取り入れられていて、タクシー業界はこの車が95%位の全国的シェアーを持っている。売価は付属品も色々付いているが、400万近いと言う話で、25年前の日産車の売価は約180万位だった。

*21世紀の自動車と環境
・創世期の自動車販売業界
自販連では、協会の格付けの為に大学教授を毎年総会時に講師に大学教授を呼んでいた。
確か、一番初めは、慶応の藤沢キャンパスを主導した加藤寛(最終、千葉大学長)教授だった。その後4~5人の先生が入れ替わりに呼ばれていたが、京都大学の塩地洋教授が排ガス問題と中古車の海外輸出の研究を定年まで約30年位続けられ自販連でも事あるごとに講演をされて居た。僕は、塩地先生に随分と自動車販売の実態をご進講させて頂いた。そんな関係で京都大学東アジアセンターの外部研究員をコロナ以前、塩地先生が定年になるまで続けさせて頂いた。最近ではその頃の先生方が皆さん定年に成り、又、コロナ禍で会議が出来なくなり、中古車の海外輸出問題、電動化、自動運転等の問題は、各企業内で議論されるように成り、まとまった方向付けが出来なくなった様である。テスラ、韓国等の比較的小さい国やメーカーがトライアンドエラーで新しい方向を進めやすい様だ。

経営の再建には、稼働率の悪い不動産の整理と人員整理しかないと思って居る。日産はゴーンの体制に成ってから本当によく不動産を売った。何故、ルノーに株を持って貰ったのか?ルノー自体がフランスの自動車業界立て直しの一環で出来た公団である。日本の政府は日本の産業政策の将来を如何考えていたのか? 外車の輸入時代から日新自動車でオースチンを売り、晩年は、ルノーを扱っていたキャピタルに居られたが、英語流暢、タイプも打つ、小西芳三さん、日産の国内営業をやって居た、前原正憲さん、神谷正太郎さん、梁瀬さん等の意見を聞く場があっても良かったのではないか?トヨタもこの処大きなリコールで大変だ。日本の基幹産業を如何するのか?自動車産業の二の舞をしない様に政府にはシッカリと中核産業を決めて将来の方向性を決めて貰いたい。

*さて、ルノーは日本では販売チャンネル造りが遅れていた。僕の知って居る範囲では、タバカレラ貿易と言う会社が輸入権を持っていた。大体、10年サイクルで契約する代理店契約である。日野自動車がルノーと技術提携をしたが、大型車に絞り込み乗用車の生産を止めた。タバカレラ貿易はディーラーネットも作らず10年で三井物産が次の契約を引き継いだ。ルノー公団の事務所は三井物産の中に置いた。三井物産は「フランスの公団の代理店」と言うタイトルが欲しかった様だ。僕の学友が、偶々、ルノー公団の副代表と言う仕事についていた。代表のデユプレと言う人に紹介され随分と日本の自動車事情をレクチャーした。ルノーは当時1%以下のシェアーだった。「日本は無理ですよ。どの位のシェアーを望むのですか?」彼は「10%」と言った。「大きく考えて、小さくスタートだ」この言葉は非常に印象的だったので、よく覚えている。
その後、オースチンを売って居た日新自動車が東京日産の関係会社キャピタルに替わり、売る車が無くなって居たので、ルノーをキャピタルに紹介して、10年代理店をしていた。その時、日産自動車はルノーの総裁が東日の本社を表敬訪問する事に成ったが、日産自動車は東京日産の本社は止めて、場所を変えて呉れと言ってきて、ホテルでの面談となった。その後、ルノーは余り売れず、10年後日英自動車に販売権が移った。
日産の川又社長はストライキ以後の立て直しで、「労使の相互信頼」石原社長は「世界で10%のシェアー」と言う目標を建てられた。然し、会社が大きく成れば、労働組合も大きくなる。組合内部の権力争いも宮家、塩路のせめぎあいも激しく、特に塩路さんのスタンドプレーは激しかった。僕の部下のセールスが、ヤマハのセールスに車を売ったが、そのセールスは塩路さんにボートを売って、川又社長の小切手を貰ったと言う話を聞いて来た。全く色んな裏話が在るものだ。確か、’99年8月頃、僕は塙社長から呼び出しを受けた。生憎、神奈川のお客様を訪ねていて、時間が合わずお会いすることは出来なかった。内容は解からないままだが、屹度、ルノーとの事だったろうと思う。日本の政府は何をしていたのだろう。ゴーンの問題を此の儘にして置いては絶対に許せない...「秀和による株の買い占め」につては、別に書くことにしよう。

さて、非常に大雑把であるが、僕の仕事を振り返って見た。書いて居ると次から次えと色々な事が想い出て来る。然し、自動車の仕事は、作る方も売る方も本当に利益を出すのは難しい。生まれ育った芝界隈も大規模な再開発で街の様子は本当に変わってしまった。古い昔の人にお会いすると、「自動車屋は再開発が無いと生き残れないなあ...」と言う話が出て来る。街の整備工場も、これからの自動車の燃料がハイブリッドか?電気か?によって整備に必要な知識は大きく変わって来る。それにプラスAIの知識だ。果たしてどちらの方向にむかうのか?間違いないのは「自動車の需要がある」と言う事だろう。
P,S 秀和による株買い占め事件
昔の話で、日時は詳しくは調べないと解らない。僕が、八王子営業所長の時だった。
僕の中学時代の野球仲間DMSと言うダイレクトメールの発送業務をやって居るYから、「お前この間、T君を紹介したよね。彼奴は株を大きく動かしているんだ。彼奴から電話があって何処か買い占めている奴がいて今日、東京日産の株が、100万株動くと言って来たよ。」
「えっ、本当...それは大変だ。本社の連中知って居るのかな?全然そんな話は聞こえて来ないよ...」早速、本社のI財務部長に電話をした。「そんなの大丈夫だよ、当社は不動産を沢山持っているから値上がりしているんだよ。それだけ有料株だと言う事...」その日は、100万株は動かなかったが、77万株買われた。Y君に「本当だな。どこが買って居るのか調べて呉れよ」「これ以上は解からないよ。品川練習所のHさんに聞いたら...お前付き合いあるだろう...」僕の付き合いは、次男の方なので次男に聞いたら、「そんな事俺にも解らないよ。兄貴に怒られるよ...」と言う返事。2~3日後次男から電話があり、「マッサン、今日銀座で飲もうヨ」「いいよ、6時三原橋のパチンコ屋で...」その日、次男と飲みに行った。「そこで、兄貴に殺されてしまうよ...と言いながら、証券会社を教えて呉れた。その後、秀和は株を買い進め、東日の株が買い占められている事は徐々に知られるように成って来た。
当時は、この他にも買い占め案件が多くあり、ディーゼル機器もその一つであり、これは日産自動車へ泣きつき日産はその手当の方が優先であった。此の77万株動いた日に誰に報告しようかなと考えて、東日の大野副社長に電話して、話し合う事にした。大野さんは慶応の先輩で父君は横浜モーターの役員、田園調布に住んでいた。東日の中島会長、泉社長と同じ仲間である。大野さんとはホテル大倉の喫茶室で会った。「大野さん実はこう言う事があってね、財務部長に話してもあの人は意味が解らないんですよ...」「マスよ、実は俺も困って居たんだ。3日ばかり前に、お前知って居るだろう...ヤナセの森山、奴に呼び出されてプリンスホテルで秀和の小林社長に会わされたんだよ。そして、「君を社長にするから秀和に来ないか?と言われたんだ」「もちろん。断ったよ...」「大野さん、株を買い占められるなんて、社長の恥ですよ。泉社長に言った方がですよ」「うん、お前一緒に行かないか?」「僕はいやですよ。田園調布グループのご近所さんの話にした方が良いですよ」と言う事で大野さんが一人で直ぐ行くことにした。そして、翌日から東日所長以上が集められて概略の話と動揺しない様に泉社長から話が在った。ヤナセの森山さんは、ヤナセ商事部長されて居たが、慶応商工時代からヤナセ次郎社長の家に下宿していて秘書課長等を歴任し、商工時代からの大野副社長親友だったのである。僕は以前から会社の安定株主は、日産自動車20%、ダットサン研究会等大口顧客20%言うのが持論だった。この問題の始まった当初から、東京日産の在り方論ついては、唯メーカー支配を怖がるだけで競輪場、ゴルフ場等の多角化測るだけ、メーカー「日産は株屋ではない...」と言う誰も触れたがらない問題が現実的に起きたのである。秀和には、森山さんの他に、慶応野球部の4年先輩の瀬尾さんと言う人も入って居た。八王子まで、森山、瀬尾二人で僕の処へ来たことがある。此の買い占め事件は、結局最後は日産が買い取ったのである。この時代、ダイエイが高島屋の株の買い占めをやって、高島屋側の窓口を遣ったのは、僕の成蹊時代の仲間H君だった。東大卒で高島屋では早くから業務部長をしていたが、その後はカローラ高島屋へ行って、自動車の事解らないからと僕の処へよく来たものだ。ある時、金融庁の前で、偶然に会い「こんな事があって、日本の資本主義は変わって行くのだろうな...」と話し合ったことが想いだされる。兎に角、秀和もダイエイも高学歴の連中を引っ張った事は確かである。僕の人生の中では、これらの人間関係と事件は、貴重な経験と財産である。






‘24―9-9 “自動車販売の流れの中で90年(1)”

2024-09-09 21:54:09 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
・明日は僕の誕生日 早いもので、生まれてから90年である。僕の今までは部品商の一人っ子に生まれて周囲の人と、健康に恵まれて今日まで生きて来られた。振り返って見ると自動車の事は昔の事を知らない人が多く成っている。順序は未整理だが思い出す儘に今月は3回に分けて覚えている事を書いて置こう。
*日本の自動車販売 発祥の地
東京日産の20年史によれば、石沢愛三氏(明治11年、芝愛宕下3丁目、生まれ、早稲田大学出、)が日日新聞、毎日新聞の記者を経て、大倉男爵の要請により、東京自動車商会の経営に当たった。同商会が日本自動車株式会社となり、昭和10年12月、鮎川義介氏の要請で、ダットサントラック会社となり、後に、日産自動車販売株式会社の創立と成った。た。
旧芝区内に自動車関係の業種が密集したのは、この大倉男爵は自動車に興味を持たれていて、お屋敷の周辺には、大倉邸に出入りする八百屋、魚屋を始め霊南坂を上る大八車の後押しを幾らかのお金を貰いそれから一年発起して一台のトラックを買い、運送会社を始めた人が居たとか、男爵邸の車、磨きをやっていた。(現 ホテル・オオクラ)と言う人が僕の東京日産入社時代には、まだ数人在社していた。其の頃の人は、増田商会と言う部品屋がこの辺にあったことを知っている人が居た。この大倉邸と東京自動車商会、が自動車販売の発祥の元に成ったのだ。「汽笛一斉新橋を」の鉄道唱歌にある様に新橋駅、汐留が物流のポイントに成って運送業が発達したのだろう。昔、東京陸運事務所のブレーキテストは、所内の人造坂を上り、下る時に検査官の号令でブレーキを踏み車検期間が1年とか2年と判定された。近所の修理工場は車検場へ行く前に、霊南坂の脇の江戸見坂でブレーキテストをして、検査場に行って居た時代が在った。
まあ、こんな時代で、僕自身の中では、日本の自動車販売の発祥の地は芝、愛宕下になるのである。

*僕の生い立ち
さて、当時の虎ノ門近辺事情を書いたが、僕の家は、旧芝区田村町6丁目6芝郵便局の隣である。9尺間口、奥行き3間の店である。親父が18歳で部品商を開業して小僧さんを二人住み込みで置いたのである。此の住み込みと言うのは、3食皆家族と同じ物を食べ、旦那だの子供だの区別するわけにはいかない。狭い家の中で一緒である。洗濯物も一緒。雇人と区別をする場所がある家は良い、そんな大店は余りなかった。晩年、親父と母の、職住について意見の相違はこの辺にあったと思う。(母は職、住分離を強く希望)

・本籍地は、東京市新宿区四谷1-9
・産院は、 慈恵大学病院 命名 虎ノ門金毘羅神社
・菩提寺、 東京都港区 安蓮社170年位前から増田家の墓がある。
父は、本籍地の生まれ、祖父の金太郎さんは株屋で羽振りも良く、女中さんを5人位使って居たとか...父が小学生の頃、大損をして神谷町の貸家に転居せざるを得なくなったとか...曾祖父の清三郎さんは、増上寺の僧兵の頭だったとか...それで安蓮社が菩提寺に成っているとの事。父は姉、弟が二人の4人兄弟、弟二人は高等小学校卒ですぐ軍隊に召集され、気球隊に配属になったとか...父は商業学校を卒業するとすぐ日加商会と言う部品商に務め、18歳の時には、部品商を僕の生まれた田村町で開業している。当時の商店は、間口9尺、奥行き3間と言うのが、芝界隈の商店であった。小僧さんが二人住み込み、我々は2階暮らしと言う状態だった。母の実家は、田村町1丁目、交差点の傍、新橋から虎ノ門へ続いている道の角から2軒目で、油屋をやっていた家の4人姉妹の3番目である。土間に大きな箱があり、その中が仕切られていてゴマ油、麻油とか色んな種類の油が入れられていた。店の前にはポータブルのガソリンスタンドを置いてガソリンも売って居た。そこに、当時、流行りだしたタクシー業者今の日本交通とか国際自動車の創業者がガソリンを入れに来ていたのである。当時の田村町1丁目の交差点は、日石本社、隣に日比谷公園寄りに三井物産別館があり、東側に飛行館、新橋寄りにアンパンの木村屋、南側におもちゃの大黒屋(僕の慶応で同級生)、西側は、うまいお煎餅の忠勇堂があり、今でも目に浮かぶ。日石と三井物産別館の間に虎ノ門の方に向かって行くと修理工場が4~5軒並んでいた。

*ヤナセ自動車は、三井物産の自動車鉱油部の鉱油部が分かれて独立したのである。
三井物産機械部に勤務していた梁瀬長太郎氏は大正4年に独立、同社から輸入自動車と輸入鉱油類の一手販売権を譲り受けるとともに、日比谷公園前の270坪の店舗及び工場を拝借し、梁瀬商会として営業を開始した。ヤナセはガレージもやって居り、其処にタクシー―を始めた人たちが車を置いていた。今の日本交通の創業者、川鍋秋蔵氏はその当時から車を2台持っていて、1台は車を持てない同業タクシー希望の人に貸していたそうだ。
 跡地は後に三井住友銀行の本店になり、現在は東京ミッドタウン日比谷の一部にあたる。僕の母の実家は前述した通り、油屋で、ガソリンも売って居たのでこのヤナセガレージに止めた車は殆どガソリンを入れに来たのである。女4人姉妹、皆、若かかった時代、店の人気が出たのは、想像がつく。

*太平洋戦争の戦中,戦後
太平洋戦争中色々な事が変わって起きてきた。あらゆる産業が大戦用に向けられてきた。当時日石本館と三井別館の間に道があり両側に小さい修理工場が4~5軒あったが、戦争中に合併させられたのである。この三井の別館の中には「海軍艦政本部」と言う部署が配置されて居た。後に聞いた話であるが、ここでかの有名な「人間魚雷」が考えられたらしい。そこで、修理屋2軒と部品や1軒が合併させられて,梁瀬さん、川鍋秋蔵さん等が少しずつ株を持たされて「日の出自動車工業株式会社」が出来て人間魚雷用の中古エンジンの整備を一部始めたのである。当時の人間魚雷は1400艇位が考えられたらしい。
これらは、記録が残っている訳でもなく、親父から聞いた話である。当初、浜田山の三井グランドの辺りに地下工場で大きな工場を作ろうとしたらしい。そんなこともあり親父はこの杉並方面に家を探してこの浜田山を見つけたようだ。当時、この杉並近辺にはプリンスの工場もあり、随分自動車生産の準備はしたらしい。旧後藤知事時代の大東京構想には、神田上水、玉川上水を境目に巨大な大東京構想があった様である。当時の浜田山一帯は神田上水を底に田んぼが広がり、いくつもの灌水用の小川が神田上水の分流となり、冷たい、澄んだ奇麗な水で、ウナギ、タナゴ、鯉、フナ、ナマズ等の小魚が沢山いた。当時、韓国人の労務者が風呂代わりに水浴びをしていたのを覚えている。柏の宮公園は自然豊かな良い場所で縄文土器のかけらも僕らでも発掘出来た。そんな環境の所で、海軍の工場設置の考えも生まれたのかもしれない。小学校5年で高井戸小学校に編入したが、この時期。米軍の東京空襲は激しさを増し、富士山を目当てに北上してきた米機は、富士山から東に曲がりと東京中心に向かうルートが爆撃ルートに成り、僕は鎌倉街道沿いで、先導するグラマン戦闘機の機銃掃射を受けたこともある。
話が大分ずれてしまったが、戦後は、三井クラブの野球場4面。テニスコート12面位。50メータープール1個、200メーターの陸上トラック1面の大きなグラウンドが出来。隣の柏の宮公園には、野球場。テニスコート8面、プールとグランドがあり、未だ、野ウサギが居るような環境だった。三井のグランドでは、当時グラウンドのなかった塾の幼稚舎、普通部,商工、塾内リーグなどは随分使わせてもらったものである。

*日産自動車の役割
さて、本題に戻そう。戦争中は日本の重工業はそんな力強いものではなかった、明治時代に海外に目をむけるように成り、急速に近代化に向かったのであろう。その中に、戸畑鋳物の宗主、鮎川義介の「戸畑鋳物」からダットサンが生まれた。此の当たりからの話はいろいろな文献が在るし、正確な記事もあるだろう。当時、日産以外にも数社の自動車会社もあったようだが日産が一番大きく進んで居たのだ。三菱が軍艦、戦車等の重機を中心に作った様だ。当時の軍用トラックは、大体、その後の5トン、トラックとバスだったと思う。戦後、日産はこのトラック、バスの路線から、小型トラックやバンに生産の中心が移っていった。

*第二次世界大戦が始まると国内は戦時色一色。町の自動車屋も軍用車両か軍隊に収める食料輸送の車両の整備で一杯になって居た。神谷町周辺の自動車修理工場や部品屋に務めていた人々は徴兵、志願等で軍隊に入った後も、殆ど近くの部隊に配属に成り復員も殆ど同じ時期だった。日産は横浜工場が主力で戦後は大型トラックから生産の中心を小型のダットサントラックに移し、折からの戦後復興ブームに乗り、歴史的なストライキを乗り越え,他社を寄せ付けないシェアーを築き上げて行くことが出来たのである。此のストライキは矢張り日産の中に大きな種を残していると思う。日産の労使挙げた再建、民主的労働運動、川又社長、石原社長の「私の履歴書(日経新聞)」に出ている様な海外進出に対する見解の調整が一大難事だったと書かれている。私は、この時代販売労働組合の東京地区の委員長を専従で3年していたので、実際に自動車労連が宮家会長から塩路会長えの交代、販労(ディーラー)と日産労組(メーカー)とのギャップをよく知っている。この当時の日産自動車の社内は、「どちらを向いて良いのやら...」川又、石原、宮家、塩路の焦点探しに疑心暗鬼が渦巻く中で、ブルーバードを中心に車は売れまくって居たのである。私は、メーカーとディーラーの賃金水準の格差を無くすように主張して来たが、ある労連大会の時、配下の大会代議員にある議案に反対の挙手をさせた。大会後、販労の組合長に呼び出され、「なんであんな事をさせるんだ...」とお叱りを受けた。もう一つ、販売店の持っている、メーカーに対する要望を自動車労連として、メーカーのトップに知って欲しいと考えて、石原社長と販労の幹部との労使懇談会の開催を要求した。勿論、塩路会長から申し入れをして貰ったのである。この会議の時、塩路さんは30分遅れて来た。わざとである。勿体をつける為である。私は、この時すでに職場復帰をしていたが、職能人として組合側から出席を要請され、司会は当時日産の国内営業のトップ大竹専務だった。冒頭の話は、石原社長の「セールスは本当のところ一日何軒訪問できるのか?」と言う事から始まった。僕は、「一日午前中2軒、午後3軒,でしょうね。お客様との商談は、団体交渉と一緒ですから...」約2時間位の時間だったが販労サイドから出た組合幹部は皆、元気にいつもメーカーに対して持っている不満、疑問を発していた。その後、塙体制が終わるまでこんな会議が開かれた事は聞いていない。販売店の経営者も日産自動車の問題意識の強い連中もこの会議の様子を非常強い関心を持っていた。

’24-9-3 “Diary 212”

2024-09-02 23:09:10 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*8/9 神谷町祭礼 夜店
一月位前から、神谷町の夏祭りを復活しようと言う声が聞こえて来た。町会の役員もこの処、代替わりが多く古くから神谷町に住んでいた人は本当に少なく成った。
大体、町会のお付き合いは、ワイフと義弟が中心でやって居たので、今回もコロナ以来であるから7年ぶり位となるのか?足の具合が悪く、長距離は如何も自信がない。それでも、戸籍謄本を取る用事もあり、僕の本籍は、四谷なので、新宿区役所に行かなければならない。一度で用事を片付けようと先ず新宿へ回った。今月は、酷暑の為、外出は極力避けて居たので、久しぶりの外出となった。

神谷町の夏祭りは、昔はお神輿も出て居た。その後、子供神輿に成り、今では夜店とバンド演奏と屋台が定番の焼きそば、かき氷、射的、金魚屋さんが居なくなった相で、水玉取り、それなりに格好は就いていた。御神酒所もできて居たし。例年通りご寄付の張り紙も在ったが例年の2/3位しかなかった。麻布台の再開発で古い居住者が居なくなり、古くからの人は住まいが変わり町会の顔ぶれも随分変わってしまった。御神酒所は何時もの場所にあり、行事のレイアウトは変わって居ない、御神酒所の脇に例年通り寄付の看板が出来ていたがザット見ただけで、よくは見ていないが、約2/3程度だったので。寄付の募集活動が不足だったのだろう。実質町会長役の人に聞いたら、「今年は、赤字に成るだろう」と言う話だった。準備の段階で聞いた話だが、恒例のフラダンス・ショウやバンドも人間関係でやって居たので、連絡が取れなく、大分、困ったそうだ。それでも、5人編成のロックと6人位のフラダンスチームで2時間位は退屈せずに観客は集まって居た。色々、役員に聞くと夏祭りに付き物の「金魚やさん」が居なくて、困ったそうだ。現実、鯉を飼うのにも昔みたいにデパートの屋上の小動物売り場は殆ど見かけないし、僕が住んでいる浜田山にも、昔は釣り堀があったし、犬やも、小鳥やも在ったが、今は、無くなってしまった。街の中はどんどん無機化して行くのだろう。子供を集めて、太鼓をのせた山車を引き、お神輿を担いだお祭りが懐かしい。町会の組織は、マンションの管理組合に替わり、その中身は、何処でも問題だらけの様な感じがする。神谷町の夏祭りも来年は出来ないかも知れない。