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“COVID-19 Vaccine” '21-4-27

2021-04-26 15:51:37 | Megu's Sports

★Megu's Sports

今年は、コロナウイルスのトピックを避けようと思ってたんですけど。3月19日に、2回目の接種を終えたので、アメリカ・カリフォルニアの様子をシェアします。仕事柄、Frustrateする事もあったけど、何とかワクチンが早めに接種できて、ほっとしましたね。Bidenが、1月に大統領に就任したときに、“100days、100million vaccine”と言うゴールを設定。今月末までに、当初の目標を超えて200millionまで行くでしょう。

昨年は、QuarantineやLock-downが人々の中では話のネタになってたけど、今は、“どのワクチンだった?”、“副作用どうだった?”って言うのが、もっぱらのネタ。アメリカでは、Pfizerから始まり、Moderna。一本ですむJonson and Jonsonが使われています。Jonson and Jonsonは、Blood Clotが問題で、一時ストップがかかったけど、今日から、また仕様がOKされたわけです。私自身、選びは出来ないんだけど、Pfizerを接種。大した副作用も、幸いになく。人によると、Pfizerの方がModernaより副作用が少ないとよく聞くんだけど、どうなんでしょうね。

州や地方自治体によって、ワクチンの配布がまちまちのところが多いようだけど、4月15日現在では、48%が一回めの接種をしていて、27.4%(4月13日現在)が、2回終了しているそうで。プロ野球やNBAの観戦も制限付きでオープンしたけど、感染するにはワクチンの証明またはCOVIDの陰性のテスト結果がないと入場できないと。国によっては、ワクチンが要するにパスポートのようになる国も。そんな中で、みんながみんなワクチンを接種したいと言うわけでなく、躊躇っている人もいれば、反対している人もいる。これは、また“人のチョイス”であり、プライバシーであり、人権の問題。なので、仕事場でもワクチンは強制できないし、接種の有無を聞く事はできても、その理由を聞くことはできないって。

日本は、アメリカに比べるとワクチンがかなり遅れている。ちょっと前にオリンピック選手のワクチンを優先することについてディベートの記事を見た。選手もそうだけど、ボランティアも含め、オリンピックに携わる人々のワクチンも考えているのにかな?選手自身よりも、運営をする人の方が、他の国の選手、スタッフをはじめ、多くの人とのコンタクトがある仕事も多いのでは?。主催者も政府も、そこまで考えているのかな?どこの国でも、地域でも問題は、必ず出てくるけど、うちの親の話を聞いていると、都も区も、どうもワクチンのプロセスが効率的でないようだ。オリンピックまで、あと少し。日本政府、市民にとっても選手にとっても、安全な対策見つけてくださいね。


“読後感 補欠のミカタ 元永智宏著”  ‘21-4-20

2021-04-19 23:09:40 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・たまたま新聞の広告を見ていて「補欠のミカタ」と言う本を見つけた。

先ず、著者の、或るいわ出版社の販売戦略に引っ掛かったのかも知れない。“ミカタ”の意味が見方、味方、のどちらなのか?大変に興味があったので、早速、アマゾンで買ってみた。僕自身もブログで、「スコアブックの無い野球」と言う一文を書いている。僕も小学校に入る前から、生まれた芝御成門、の歩道の上でゴロベース、(三角ベース)を始めて小学校は愛宕小学校にはいり、運動場は屋上だったが、そこでもゴロベースを遣り、3年生で群馬県桐生市の伯母の嫁ぎ先へ疎開をした。桐生は当時、桐生中学が野球が強く、編入した昭和小学校も野球が盛んだった。お昼休みには校庭でテニスボールの軟球をバット位の板切れで打つ野球を夢中でやって居た。この時に「空中ベース」を始めてやっとボールに当てる事が出来て、嬉しかったものだ。その頃から桐生は太田にある中島飛行機を狙った空襲があり、危険だと言う事で東京に返されてしまった。丁度、親父は浜田山に引っ越していたので、都心の御成門に比べたら、全くの田舎で畑の中の神田川沿いに柏の宮公園がありそこで近所の子供たちが集まり、軟式野球をやって居た。毎日、毎日学校から帰ると直ぐ野球をやりに行って居た。中学は成蹊に入ったが、旧制の7年生高校で、丁度、学制改革があり中学3年と高校3年に別れ、中学は軟式、高校は硬式に野球部は別れた。それでもグランドは一つで高校の練習が終わると軟球に変えて中学の練習と云う様な野球部だった。中学は、結構強くて武蔵野市では武蔵野一中と言う強いチームが有ったが、何時も其処と好試合を演じていた。当時、珍しくも早実へ入った奴が二人いたチームである。僕らのチームには,右投げ、左打ちが僕の他に二人いた。9人のうち3人の右投げ左打ちのチームだった。このチームでは僕のポジションはライト、打順は5,6番だった。この時はスコアブックはマネジャーが付けていたが、保存はされて居ない。慶応高校でもマネジャーがスコアブックを付けていたが、保存はされて居ない。大学では確か17人一緒に入ったが、浪人生が3人、塾高出が6人、後は殆どが甲子園出と言う様な状態で、僕ら塾高出は先ず体の大きさが違うし、バッテイング練習もさせて貰えない状況だった。それでも、いっもボールに触れられるのは、バッテイングピッチャーとバッテイングキャッチャーである。今で言へばスタッフと言う事か?「早稲田、立教、明治の三校の練習を見て来い」と阪井監督に言われた。帰って来て、ブルペンキャッチャーを遣り、相手チームのメンバーを予想してサインを出してシュミレーションをしたのである。こんな事で野球が好きで4年間在部することが出来た。新人戦以外ユニホームを着た事がない。会社へ入ってからは野球部は有ったが、全くの草野球、余り面白くなかった。キャッチャーには、巧い奴が居たので、僕は、内外野どこでも言われるポジションをやって居た。硬式から軟式に成るとバッテイングは打てない。大学野球部の硬式経験者と言う事で見られるが、軟球はボアーンと言うスイングをしないと駄目なのである。

2年後に早稲田の野球部出が入って来た。内野手である。そいつも初めはバッテイングでは苦労していた。晩年ゴルフをやった時は280ヤード位凄く飛ばしていた。翌年、会社の上層部で「硬式野球部を作ろう」と言う話が出て、選手集めに入った。硬式野球部が出来ている訳ではないし、中々選手集めは出来なかった。殆どが、僕と同じ様な2軍半の部員である。早稲田4人、明治2人、立教バッテリー、高卒4名を集めてチームを作った。処がグランドを購入する話が折からの自動車ブームで車置き場に成ってしまった。さあ、サギみたいなものである。この連中を集めて、仕様が無いから港区の軟式野球連盟に入り軟式と準硬式と両方で兎に角試合をして文句を収めた。練習は神宮の軟式野球場で週3日2時間やったのである。僕が監督で早稲田から来た遠間君がキャプテン。立教のバッテリーは兎に角良かった。Ⅽクラスから出て、1年目が77勝4敗だった。その後、成績を認められてAクラスに入り、甲子園出の投手を早稲田と立教から取り、準硬式の大会で港区優勝、都大会で優勝、東京代表に成ったのである。全国大会では、3回戦で負けてしまった。

・東京六大学野球連盟に60歳以上のチームで「六球会」と言う会があり、毎年、秋に神宮球場で野球試合をしている。今から20年位前にこの東京日産の野球部の東京代表に成った時のメンバー8名がそれぞれの母校のユニフォームで出会ったのである。

さて、話がタイトルからそれてしまったが、「補欠のミカタ」の様に野球の世界以外でも信念をもってそれぞれが活躍している。「嫌煙権活動」をしている早稲田出の渡辺君(僕のチームの一人)など素晴らしい社会活動をしている。元プロ野球では、杉下さんを筆頭に色んな人が参加される。然し、大体3年位かな...ゴルフは参加者が多く、一校8名が制限である。其処では、大体、補欠のメンバーが活躍する。皆、その日の為に出来る範囲の練習はしてくる。皆、野球が好きで、没頭した野球生活の中で、何かを学んで、人生の中に生かしている。僕は、78歳まで六球会に参加していた。一試合7回戦なので、打席は3回位しか回ってこない。スコアブックが無いから自分でスコアを付けるが、4年間で、3,2、2,1と4年間連続安打した。最後は代打でレフト前ヒット、早稲田の故大久保君(早稲田学院)昔からの顔馴染み、(彼も右投げ、左打ち)が驚いていた。本当に快心のヒットだった。


“読後感 日産・ルノー アライアンス オーラルヒストリー”  ‘21-4-13

2021-04-12 22:51:40 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・前回は標記の本を読んで、その所感を八代教授にお送りしたメールを載せたが、やっと全頁読んだので、更に感想を記したい。

・今迄、結構いろいろな本を読んでいるが、この本の様な「歴史的事件」(大袈裟かな?)

をこの様な纏め方をされたのは、本当に珍しいと思う。又、僕は前回書いたように身近に起こった事実なので一層大事件と感じるのかも知れない。この本の纏め方は、八代教授が何時ごろから日産の問題に関心を寄せていたのか、良くお聞きしたいものである。

・教授の専門分野が労使問題でこの提携問題に労使がどれだけ拘わったのか?と言うのが、教授の最大疑問点と言う考えから聞き取り対象の人間を選び出し、研究の骨組みを組み、対象者への交渉、或いは、聞き取りの問題を事前通告するとかの方策を取られたのか?

興味深い所である。対象に成った人々は、僕が知っている人は、殆ど居ない。それ位、時代ギャップが多いのだけれども「へっ...こんな事まで言って居るの...」と言うようなことも出て来る。

・日産の労働問題は、日産の百日闘争時代から紐解かないと労使協調路線は解らないだろう。僕が組合専従を遣った時の事なんて、当時は友人たちには中々理解されなかった。然し、当時の販労の村瀬組合長には、退任の挨拶の時、「東京を見習え...組織が生き生きと動いている」と褒められた。嬉しい思い出である。日産の100日闘争の後、興銀から川又さんが来られて、社長に成られ、当時の日産労組(メーカー)の組合長宮家さんと労使協調路線を築きあげた所謂「生産性向上活動」をする「近代的労働運動」、更にその路線を強固なものにして行った塩地会長の宮家さん追い出しの確執、それらを比較的間近かに見て来た僕は、リーダーたるべき人の在り方論から見れば、「最重要ポジションにある人々がよくこんなことまで八代教授に聞かれたな」と言う感じもある。

・本書の内容

第1章日産・ルノー資本提携への道程    志賀 俊之氏

                     日産自動車代表取締役 P25~62

第2章日産リバイバルプランと雇用調整   西原浩一郎氏

                     自動車総連会長    P63~111

第3章村山工場閉鎖と労使協議会      高倉 明氏

                     自動車総連副会長   P113~149

第4章技術部門の変容とグローバル展開   中村 克己氏

                     カルソニック会長   P151~202

第5章日産陸送のMBOと新生       岩下 世志氏

                     株式会社 ゼロ 代表取締役会長 P205~229

第6章経営企画室とアライアンス交渉    鈴木 裕氏

                                           E-Graphics社長  P231~272

P,S

・塩地体制に成り、「自動車労連」となり、日産労組、販労、部労、民労の4ッの単組となった。未だ労働条件は、1は日産、2は販売店=販労、3は部品会社=部労、の順で格差があった。民労は自動車労連の組合活動に(生産性向上企業は所得源泉の場である)賛成の組合は業種は問わず参加していた。

・ある年の労連の大会の時に、僕の地区委員に大会で「職種ごとの賃金格差をなくして呉れ」と数人の代議員に質問させたら、後日「東京第一地区の人間は如何してあんな質問をさせるんだ」と言ってハラスメントを受けた。

・経営協議会活動も特に販労は熱心で、自動車労連の中でも「メーカーとデイ―ラー間の話し合いの場を持ってくれ」と主張していた。’77年頃始めて販労と日産労組と石原社長を囲んで協議会を開くことが出来たが、その時、メーカー側は国内営業部長、役員等が出席した。その時も、確か10時開催なのに塩地会長は30分位遅れて来た。それ以降その会議が開かれたとも定例化されたとも聞いていない。僕は、すでに職場復帰をしていたが、「職能人」と言う事で会議に呼び出され、僕に対する石原社長の「増田君、一日20軒訪問と言って居るが実際の所は如何なんだね?」と言う質問から始まった。折角の大事な会議なので出来るだけ柔らかい雰囲気にしようと思って、「本当の所は、午前中2軒、午後3軒ですね。団体交渉するのと一緒ですから...」と答えた。未だに、よく覚えて居る。

・塩地会長は、「労使は対等」で形の上でも対等と言う意識が強く、車もプレジデント、石原社長がモーターボートを持てば自分もボートを持つ、銀座の店も高級クラブへ出入りと日を追うごとにその行動はエスカレートして行き、週刊誌沙汰になって行った。本質的には気の小さい、格好付けたがり屋で、ブランデイーの麦茶割なんかを飲んで体は非常に気を付けていた。


“Diary 171 ”        ‘21-4-6

2021-04-05 13:07:49 | Massy's Opinion

★Massy's Opinion

・帝国ホテル

先日新聞に「帝国ホテルが再開発で建て直す」と言う記事が出て居た。「えっ如何して?随分早いな...」と疑問を持った。大体、堅牢な建築物は、耐用年数60年位の筈だ。「未だそんなに時間は経っていないだろう...」兎に角、昔の芝区の生まれ、母親の実家は旧田村町1丁目の交差点脇の油やとガススタンド、女4人兄弟の看板娘、3女が僕の母。その先を宮城の方へ向かえば、巨大な帝国ホテル...とその向かいは日比谷公園。いやでも、帝国ホテルはその均衡の取れた建物で東京一。設計者フランク・ロイド・ライトの名前位は頭を離れない。今の建物に成って既に40年位は過ぎて居るそうだ。此の処、赤プリ、オオクラ、と代表的なホテルが次、次と建て替えられて、帝国も古く成って来たのか?如何に帝国と雖もこのコロナ旋風には立ち向かうのが厳しいのか?アフターコロナを考えるなら、この時期に再開発をした方が良いと言う経営判断があるのだろう。

さて、実はこの帝国ホテルとも我が家は奇縁が出来ていたのである。今から12年前、2009年の初めにMegumi から、「親父、石勝さんて云う石屋さん知らない?」と言う問い合わせが来た。

これは、東京でも一番位に大きい石屋さんで都営の青山墓地、霞町の交差点の傍に在った。東京オリンピックの時に区画整理で青山1丁目の方に引っ越して石屋を辞めているのである。「何の用事だい?」「私のクライアントにハナハウスの責任者が居るんだけれどその人に聞かれて居るんだよ」「スタンフォード大学の中にハナハウスと言うエリアがあってさ、そこにはフランク・ロイド・ライトと言う、偉い建築家が建てた家があるんだよ」「うん知っているよ、帝国ホテルを設計した人だよ」その家の回りに石灯籠やカエルや石で作ったモニュメントが幾つかあるんだけれど、この前のサンフランシスコ大地震の時に壊れてしまった物があるのでそれを直したいんだって...」「それで石勝さんが知りたいのよ」「解ったよ自信はないけれど、石勝をさがしてみよう」  さあ、それから青山墓地の回りにある石屋さんを尋ねたり、ネットサーフインをして探した。矢張り、石勝くらいに成ると、のれん分けをしているだろうと思ったが、予想どおりに「東京石勝」と言う会社が青梅に見っかった。早速、電話連絡を取ると幸い山口社長はスタンフォードのハナハウスの事を知っていた。「さーてこれからどう進めよう? Meguは貿易の事は解らないし、ローラ先生は日本の事も余り解らないし、山口さんも英語も解らないし、これだけでアメリカへ行ったり来たりも出来ないし...結局、僕が中心で進めなければ...幸い山口さんのお嬢さんがパソコンもつかえるし...」「先ず、仕事の流れを関係者に解らせよう!」“Stanford HannaHouseProject”と言う引き合いから設置までの業務分担表を作った。これが出来てから、仕事の打ち合わせは一気に進んだ。これは僕の中古車輸出の経験や春駒交通が中国進出する時のコンサルティングの経験が生きた事は云うまでもない。石勝の山口社長は、豆柴犬のブリーダーをやって居る犬好き。僕はジャズ、野球、犬の好きな人は直ぐ信用してしまう。話が合えば相手も信用して呉れる。驚いた事にはスタンフォード側に、前回の仕様書、図面、見積書、領収書等が全部残されて居た事である。

さすが、スタンフォード側のライトの作品に対する価値観が違うのである。実はこれまでの段階で、帝国ホテルの広報部に数回問い合わせをした。大体、古い会社には執事役の古い人が在籍して居て、故事来歴を教えて呉れるものだが、‘09年頃の帝国ホテルには、広報部とか総務部の可成り職制上位の人に聞いたが、帝国ホテルの此の時期の事を解る人が全然居なかった。既に建物は、明治村に移設されているのでこの経緯を解る人が居なかったのであろう。

銀座の交詢社ビルも建て替えられているが内部は交詢社の旧館その儘に使われている。Megumiは帰国した時に、友人と帝国ホテㇽから移籍された物を見学しに、明治村へ行って学芸員から、詳しく帝国ホテルとライトの故事来歴を聞いて来た。

さて、今回のこの帝国ホテルの再開発問題で、こんなフランク・ロイド・ライトとの関わり合いについて三井不動産の人達は知っているかなと思い、顔馴染みの後輩に聞いてみたら、矢張り知らなかった。「よく担当部署の連中に話して置きます有難う御座います」と言う事だった。

確か’15年位前に、産業廃棄物のセミナーが早稲田大学であった。その席でスタンフォード大学で15年も教鞭取っていた福田収一工学博士とご一緒する機会があり、スタンフォードの話をしたら、ハナハウスの事はご存知なかった。其の位、工学部のある場所とハナハウスの場所は離れているとの事、スタンフォード大学はそれ程、広いのである。その日福田先生と、帰り道が丁度同じ方向で、「今日はお会いできてとても楽しかった。スタンフォードがとても懐かしくなった、今度大学を訪れた時にはハナハウスへ行って来よう」と言われた。

これ以降、どこで聞かれたのか?解らないが、僕の所へ「第二次世界大戦の時、東京に駐留していた米軍の部隊長の石像が勝鬨橋の傍にあった筈だけど知らないか?仲間でその石像を本国に作りたいんだ」と言う事を、退役軍人で日本に永住している人に尋ねられたり、「色々、良くやったものだ」と想い出す。兎に角、拙い英語とPCであの時は未だSkypeは無かったのだ。良くあのプロジェクトは成功したものだと思う。勿論、僕もMegu の所へ行った時にハナハウスに行き、ローラ先生に会って来ている。ちなみに、石勝の山口さんがモニュメントの制作を依頼した人は、初めの物を作った人で、スタンフォード大学の今回の取り組みを、「身に余る光栄だ」と凄く喜んでいた相だ。歴史は伝える努力が必要だと改めて感じさせられた。恵にも素晴らしい経験に成った筈だ。  

                                                                                                                           

               Note                                         Hanna House                            Lora & Urm                                 Lantin                                Flog                     

               Exampl :     この他に≒10点,Urm(壺)、モニュメント は 帝国ホテルの正面にあった物 明治村、Hanna House, Metropolitan Musuamにあるようだ。

 

・聖火ランナー スタートと封鎖解除宣言

僕はコロナ第4波が必ず来ると思って居る。非常に難しい判断だが今度のオリンピックは中止した方が良いと思う。世界の他の国から参加があるのか?いたずらに費用が掛かるばかりで...テレワークにも問題が出て来ている様だし、巨大化しすぎた経済をサイズダウンして、新しい世界を造りだそうよ...

・高校選抜野球大会

もう、コロナ下の大会に成れてしまったのか?高校球児の生き生きとしたプレーが強く目に付いた。好ゲームの連続で、無事東海大相模が優勝。良い大会だった。体の大きな子が目立って野球が変わって来たなと痛感させられた。